婚約破棄、感謝!今日からただの愉快な隣人として生きていきます。

夏乃みのり

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「……お嬢様。もう一度だけ、正気かどうか確認させてください」


アンナが、今にも泣き出しそうな顔で、目の前の建物を指差しました。

都の北端、市場の喧騒からも少し離れた路地裏。

そこに立っていたのは、今にも自重で崩れ落ちそうな、二階建ての木造建築でした。


「失礼ね、アンナ。これは『ヴィンテージ』と呼ぶのよ。見て、この趣のある蔦の絡まり具合。天然の断熱材だわ!」


「いいえ、それはただの放置された雑草です。あと、屋根の瓦が三枚ほど、私の目の前で滑り落ちましたよ」


カラリ、と乾いた音を立てて瓦が地面で砕けました。

しかし、私の決意は揺るぎません。

私は手に持った「物件目録」をパンパンと叩きました。


「いいのよ。ここは立地が最高なの。市場まで徒歩五分、魔導具の部品屋まで三分。何より、裏庭に古い井戸があるわ! 断水しても安心ね!」


「公爵令嬢が、災害時の生存率を最優先に家を選ばないでください」


呆れるアンナを無視して、私は案内役の不動産屋……もとい、怪しげな髭の男に向き直りました。


「店主、この物件、即金で買うわ。いくら?」


「へ、へえ……。お客さん、お目が高い。いや、変わり者だ。ここは元々、変わり者の魔術師が住んでいた家でね。呪われているとか何とかで、十年も買い手がつかなかったんだ。金貨五十枚でどうだい?」


「金貨五十枚!? ふざけないで。屋根は壊れているし、床板は腐っている。おまけに『呪い』という名の風評被害付き。金貨三十枚にまけてちょうだい。その代わり、今すぐここで契約書を書いて、鍵を渡すこと」


私は金貨の詰まった袋を、男の鼻先でチャリリと鳴らしました。

男の目が、強欲な光を放ちます。


「さ、三十枚か……。だが、現状渡しだぜ? 修理は一切請け負わねえ」


「望むところよ。私の趣味は『建物の補強』なんですもの。さあ、サインを!」


私は用意していた契約書(自作)に、迷うことなく名前を書き込みました。

もはや「アトラス」の姓は名乗りません。

ただの「メーサ」として、人生初の大きな買い物に踏み切ったのです。


男が逃げるように去っていった後、私は重い音を立てる鉄の鍵を回しました。

ギィィィ……と、ホラー映画のような不吉な音を立てて扉が開きます。

中から溢れ出してきたのは、十年分の埃と、カビの匂いでした。


「うわっ、すごいわ。これはやりがいがあるわね!」


「お嬢様、目が輝きすぎて怖いです。……本当に、ここに住むのですか? 公爵邸の馬小屋の方が、まだ清潔でしたよ」


アンナがハンカチで鼻を押さえながら、おずおずと中に入ってきました。

確かに、室内は惨状と言っていい状態でした。

家具はボロボロ、壁紙は剥がれ、天井には立派な蜘蛛の巣がカーテンのように垂れ下がっています。


「アンナ、これを『惨状』と捉えるのは素人よ。プロの合理主義者はこれを『白紙(キャンバス)』と呼ぶの」


私は腕まくりをして、トランクから掃除用具……ではなく、数枚の「魔導スクロール」を取り出しました。


「お嬢様、まさか……」


「ええ。王宮の書庫でこっそり模写しておいた、生活系魔術の最高峰『大掃除(グランド・クリーニング)』を試す時が来たわ!」


私はスクロールを広げ、魔力を込めました。

次の瞬間、家全体が淡い光に包まれました。

猛烈な勢いの風が室内を駆け巡り、埃やカビ、さらには害虫の一家までを窓の外へと一気に押し流していきます。


「わあああっ! お嬢様、スカートが捲れます! 風圧が、風圧が強すぎます!」


「我慢して! 清潔さは力よ!!」


数分後。

風が止んだ室内は、見違えるほど綺麗になっていました。

もちろん、床板の穴や屋根の隙間はそのままでしたが、少なくとも「人が立ち入ってはいけない場所」から「屋根のあるキャンプ場」程度には格上げされました。


「……ふう。これでようやく一息つけるわね」


私は、唯一無傷だった古い木箱の上に腰を下ろしました。

窓からは、オレンジ色の夕日が差し込んでいます。

隙間風が通り抜けるたびに、家が「寒いよ」と鳴いているような気がしましたが、私の心は温かい満足感で満たされていました。


「ここが、私の城。誰にも邪魔されず、誰のスケジュールも気にしなくていい、私の場所よ」


「……お嬢様。そう言えば、先ほど不動産屋が言っていましたよね。ここは『お隣さん』が少し気難しい方だと」


「ああ、言っていたわね。でも大丈夫よ、私ほど気さくで愉快な隣人はいないんだから。後で挨拶に行きましょう。引越し祝いに、さっきの串焼きでも持って」


私は窓の外を眺めました。

すると、隣の家の庭に、見覚えのある「鋭すぎる殺気」を放つ洗濯物が干してあるのが見えました。

黒い軍服、頑丈そうな下着、そして手入れの行き届いた騎士団の外套。


「……アンナ。あの洗濯物、どこかで見たことない?」


「お嬢様。あれは、カシム閣下の専用外套ですね。……左肩に、お嬢様が昔つけた『噛み跡』の修復痕がありますから、間違いありません」


沈黙が流れました。

私はゆっくりと視線を動かしました。

私たちの「ボロ家」と、カシムの「立派な一軒家」を隔てているのは、高さ一メートルほどの低い生け垣だけでした。


「……運命って、時として残酷ね」


「お嬢様が『立地最高』と言って、地図をよく見ずに買った結果ですよ」


その時。

隣の家の勝手口が開き、不機嫌そうな顔をしたカシムが、大きなバケツを持って現れました。

彼は、こちらの家の窓際に座る私と、バッチリ目が合いました。


「……お前。そこで、何をしている」


カシムの低い声が、夕暮れの路地裏に響きました。


「見てわからない? 今日からここが私の家よ、カシム! さあ、夕食の毒見に来てちょうだい!」


カシムは持っていたバケツを、その場に落としました。

ガッシャーン、という派手な音が、私の新しい生活の始まりを告げるファンファーレのように聞こえたのでした。
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