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メーサが王宮から姿を消して、三日が経過しました。
王立学院の豪華なバルコニーで、王太子ジュリアンは優雅にティーカップを傾けていました。
「ふん……。静かなものだな。やはり、あの騒がしい女がいなくなると、空気の味が違うというものだ」
ジュリアンは、目の前に広がる美しい王宮の庭園を眺めながら、満足そうに鼻を鳴らしました。
彼の隣には、新・婚約者として迎えられたはずのララが座っています。
しかし、以前のような可憐な笑顔はなく、その目の下にはうっすらとクマが浮かんでいました。
「……そう、ですね。ジュリアン様……」
「どうした、ララ? 顔色が悪いようだが。ああ、わかっている。メーサがあんな不気味な『資料』を置いていったから、不安になったのだろう?」
ジュリアンは、ララの震える手を優しく包み込みました。
彼は自分の慈悲深さと包容力に、密かに酔いしれていました。
「案ずるな。あんなものは、メーサが自分を大きく見せるために書いた出鱈目に過ぎん。王太子妃の仕事など、私がついていれば三日もあれば覚えられるさ」
「でも、殿下……。あの、昨日の夜に読んだ『春の農耕祭・予算分配案』なのですが、数字の辻褄がどうしても合わなくて……」
「それはメーサがわざと間違えて書いた嫌がらせだろう! 気にするな。適当に丸めておけばいい」
ジュリアンは事もなげに言い放ちました。
彼にとって、メーサという存在は「自分を甘やかし、面倒な仕事をすべて完璧に片付ける便利屋」でしかありませんでした。
その便利屋がいなくなった今、彼はただ「重荷が消えた」としか感じていなかったのです。
「今頃、メーサのやつは公爵邸の自室に閉じこもって、泣き明かしているに違いない」
「えっ……。泣いている、でしょうか?」
ララが不思議そうに首を傾げました。
彼女の記憶にある去り際のメーサは、これ以上ないほど晴れやかな、太陽のような笑顔を浮かべていたからです。
「決まっているだろう! あいつは私に執着していたからな。あのガッツポーズも、強がり以外の何物でもない。今頃、自分の浅はかな言動を後悔し、私に許しを請う手紙を書いているはずだ」
ジュリアンは確信に満ちた笑みを浮かべました。
彼の脳内では、メーサが枕を濡らしながら「殿下、どうか戻ってきて!」と絶叫している姿が鮮明に再生されていました。
「一週間……いや、あと三日もすれば、アトラス公爵が泣きついてくるだろう。『娘が衰弱して死にそうです、どうかもう一度婚約を』とな。ふふっ、その時、私はどんな顔をして断ってやろうか」
「あ、あの、殿下。それより、この後の『財務大臣との会食』の資料、まだ一行も読んでいないのですが……」
「そんなものは後回しだ。まずはこの素晴らしいお茶を楽しもうじゃないか」
ジュリアンは再び優雅に紅茶を啜りました。
しかし、その紅茶が以前よりも少し苦く、香りが薄いことに彼は気づいていませんでした。
メーサが茶葉の温度や抽出時間を、秒単位でメイドに指示していたことなど、彼は知る由もなかったのです。
一方、王宮の事務棟では、かつてないほどの混乱が巻き起こっていました。
「おい! 例の『特使への猫アレルギー対策図』はどこだ!? 明日、特使が到着するんだぞ!」
「わかりません! メーサ様が管理していたフォルダが、まるごと消えています!」
「なに!? まさか、あの百ページの資料以外にも、彼女が一人で抱えていた案件があったのか!?」
官僚たちが髪を振り乱して走り回っています。
彼らは、メーサが「ついでに」処理していた膨大な雑務が、実は国家の根幹を支えていたことにようやく気づき始めていました。
「殿下は……殿下は何とおっしゃっている!」
「『適当に丸めておけ』と、お花畑のような顔でおっしゃっていました!」
「……終わった。我が国の外交は、今日をもって終わったんだ……」
一人のベテラン官僚が、がっくりと膝をつきました。
そんな地獄のような光景を知ってか知らずか、ジュリアンはララの肩を抱き寄せ、さらに妄想を膨らませていました。
「ララ、君はメーサのような毒婦になってはいけないよ。ただ可愛らしく、私の隣で笑っていればいいんだ」
「は、はい……。でも、お腹が空きました……。お仕事が多すぎて、朝から何も食べていなくて……」
「ははは、食いしん坊だな。メーサなら『栄養バランスが偏りますわ!』と説教を始めるところだが、君のそういう素直なところが好きだよ」
ジュリアンは、ララのお腹が鳴る音を「可愛い甘え」と受け取りました。
しかし、ララの空腹は「労働基準法無視の重労働」による深刻なエネルギー不足でした。
彼女の瞳からは、次第に光が消え、代わりに虚無の色が広がりつつありました。
「メーサ……。今頃、美味しいものを食べているんだろうな……」
ララがつぶやいたその言葉は、奇しくも正解でした。
ジュリアンが「絶望の淵にいる」と信じて疑わない元婚約者は、今この瞬間、下町の活気の中で脂の乗った肉に舌鼓を打っているのです。
「さあ、ララ。次はどのドレスを試着しに行くかい? メーサのいない王宮は自由だ!」
「……ドレスよりも、寝かせてください……」
ジュリアンの耳には、その切実な願いも届いていませんでした。
自分たちが積み上げた「婚約破棄」という名のドミノが、音を立てて崩れ始めていることに、彼はまだ、一欠片も気づいていないのでした。
王立学院の豪華なバルコニーで、王太子ジュリアンは優雅にティーカップを傾けていました。
「ふん……。静かなものだな。やはり、あの騒がしい女がいなくなると、空気の味が違うというものだ」
ジュリアンは、目の前に広がる美しい王宮の庭園を眺めながら、満足そうに鼻を鳴らしました。
彼の隣には、新・婚約者として迎えられたはずのララが座っています。
しかし、以前のような可憐な笑顔はなく、その目の下にはうっすらとクマが浮かんでいました。
「……そう、ですね。ジュリアン様……」
「どうした、ララ? 顔色が悪いようだが。ああ、わかっている。メーサがあんな不気味な『資料』を置いていったから、不安になったのだろう?」
ジュリアンは、ララの震える手を優しく包み込みました。
彼は自分の慈悲深さと包容力に、密かに酔いしれていました。
「案ずるな。あんなものは、メーサが自分を大きく見せるために書いた出鱈目に過ぎん。王太子妃の仕事など、私がついていれば三日もあれば覚えられるさ」
「でも、殿下……。あの、昨日の夜に読んだ『春の農耕祭・予算分配案』なのですが、数字の辻褄がどうしても合わなくて……」
「それはメーサがわざと間違えて書いた嫌がらせだろう! 気にするな。適当に丸めておけばいい」
ジュリアンは事もなげに言い放ちました。
彼にとって、メーサという存在は「自分を甘やかし、面倒な仕事をすべて完璧に片付ける便利屋」でしかありませんでした。
その便利屋がいなくなった今、彼はただ「重荷が消えた」としか感じていなかったのです。
「今頃、メーサのやつは公爵邸の自室に閉じこもって、泣き明かしているに違いない」
「えっ……。泣いている、でしょうか?」
ララが不思議そうに首を傾げました。
彼女の記憶にある去り際のメーサは、これ以上ないほど晴れやかな、太陽のような笑顔を浮かべていたからです。
「決まっているだろう! あいつは私に執着していたからな。あのガッツポーズも、強がり以外の何物でもない。今頃、自分の浅はかな言動を後悔し、私に許しを請う手紙を書いているはずだ」
ジュリアンは確信に満ちた笑みを浮かべました。
彼の脳内では、メーサが枕を濡らしながら「殿下、どうか戻ってきて!」と絶叫している姿が鮮明に再生されていました。
「一週間……いや、あと三日もすれば、アトラス公爵が泣きついてくるだろう。『娘が衰弱して死にそうです、どうかもう一度婚約を』とな。ふふっ、その時、私はどんな顔をして断ってやろうか」
「あ、あの、殿下。それより、この後の『財務大臣との会食』の資料、まだ一行も読んでいないのですが……」
「そんなものは後回しだ。まずはこの素晴らしいお茶を楽しもうじゃないか」
ジュリアンは再び優雅に紅茶を啜りました。
しかし、その紅茶が以前よりも少し苦く、香りが薄いことに彼は気づいていませんでした。
メーサが茶葉の温度や抽出時間を、秒単位でメイドに指示していたことなど、彼は知る由もなかったのです。
一方、王宮の事務棟では、かつてないほどの混乱が巻き起こっていました。
「おい! 例の『特使への猫アレルギー対策図』はどこだ!? 明日、特使が到着するんだぞ!」
「わかりません! メーサ様が管理していたフォルダが、まるごと消えています!」
「なに!? まさか、あの百ページの資料以外にも、彼女が一人で抱えていた案件があったのか!?」
官僚たちが髪を振り乱して走り回っています。
彼らは、メーサが「ついでに」処理していた膨大な雑務が、実は国家の根幹を支えていたことにようやく気づき始めていました。
「殿下は……殿下は何とおっしゃっている!」
「『適当に丸めておけ』と、お花畑のような顔でおっしゃっていました!」
「……終わった。我が国の外交は、今日をもって終わったんだ……」
一人のベテラン官僚が、がっくりと膝をつきました。
そんな地獄のような光景を知ってか知らずか、ジュリアンはララの肩を抱き寄せ、さらに妄想を膨らませていました。
「ララ、君はメーサのような毒婦になってはいけないよ。ただ可愛らしく、私の隣で笑っていればいいんだ」
「は、はい……。でも、お腹が空きました……。お仕事が多すぎて、朝から何も食べていなくて……」
「ははは、食いしん坊だな。メーサなら『栄養バランスが偏りますわ!』と説教を始めるところだが、君のそういう素直なところが好きだよ」
ジュリアンは、ララのお腹が鳴る音を「可愛い甘え」と受け取りました。
しかし、ララの空腹は「労働基準法無視の重労働」による深刻なエネルギー不足でした。
彼女の瞳からは、次第に光が消え、代わりに虚無の色が広がりつつありました。
「メーサ……。今頃、美味しいものを食べているんだろうな……」
ララがつぶやいたその言葉は、奇しくも正解でした。
ジュリアンが「絶望の淵にいる」と信じて疑わない元婚約者は、今この瞬間、下町の活気の中で脂の乗った肉に舌鼓を打っているのです。
「さあ、ララ。次はどのドレスを試着しに行くかい? メーサのいない王宮は自由だ!」
「……ドレスよりも、寝かせてください……」
ジュリアンの耳には、その切実な願いも届いていませんでした。
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