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王立騎士団の執務室。
本来ならば、国家の安寧を守るための崇高な軍議が行われるべきその場所で、騎士団長カシムは深く、深いため息をついていました。
「……団長、またですか。ここ一時間で三十回目ですよ、ため息」
副官が呆れたように、山積みの報告書を机に置きました。
カシムは眉間に深い皺を刻んだまま、窓の外を睨みつけます。
その視線の先には、都の北端にある、今にも崩れそうな「あのボロ家」がありました。
「……なあ。あいつは元公爵令嬢なんだぞ。王太子の婚約者だった女だ。それがなぜ、下町の路地裏で『絶対に脱げない靴下』なんて怪しげな発明品を売って笑っていられるんだ」
「メーサ様のことですね。いいじゃないですか、街の人たちには『愉快な隣人』として大人気ですよ。昨日も市場で、喧嘩を始めた酔っ払いを木刀一本で制圧して、ついでに効率的な更生プログラムを叩き込んだとか」
「そこが問題なんだ! あいつは自分がどれほど『隙だらけ』か、わかっていない!」
カシムは机を叩いて立ち上がりました。
彼が危惧しているのは、メーサの身の安全でした。
王太子ジュリアンが彼女に執着しているのは明白であり、さらにララ嬢までが彼女のもとに逃げ込んでいる。
政治的な爆弾を二つも抱えながら、当の本人は「防犯用の毒蔦」に肥料をやり、安酒を飲んで寝ているのです。
「……あいつには危機感という概念が欠落している。昨日も隣から変な音がすると思ったら、二階の窓からロープ一本で降りようとして足が絡まって逆さ吊りになっていた。俺が助けなかったら、今頃は干物になっていたぞ」
「それは……。確かに危機感はありませんが、団長が隣にいて、しかも頻繁に覗き……いえ、監視しているなら安全じゃないですか?」
「監視ではない。隣人としての安否確認だ」
カシムは吐き捨てるように言うと、椅子にかけていた上着をひっつかみました。
「どこへ行くんですか、団長。まだ会議が……」
「……隣の『要塞』の補強だ。あいつが変な植物を植えすぎて、郵便配達員が門前払いを食らっているという苦情が来た」
カシムは足早に執務室を後にしました。
数十分後。
彼はいつものように生け垣を飛び越え、メーサの庭へと降り立ちました。
「あらカシム。奇遇ね、今ちょうど『自動で背中を掻く手』の試作品が完成したところよ。実験台になってくれる?」
庭では、メーサが泥だらけの顔で、不気味に動く木製の魔導具を掲げて笑っていました。
「なるか。……メーサ、お前に言っておくことがある。いいか、よく聞け」
カシムはメーサの両肩をがっしりと掴み、至近距離からその瞳を覗き込みました。
「……え、何? 改まって。まさか、また生け垣を壊したことへの説教?」
「違う。……お前は、自分が狙われている自覚を持てと言っているんだ。王宮の連中も、お前の動向を探っている。一人で出歩くな。何かあれば、すぐに壁を叩け。いいな?」
カシムの低い、熱を帯びた声に、メーサは一瞬だけ目を丸くしました。
至近距離にあるカシムの顔。
整いすぎた容貌と、自分を真っ直ぐに見つめる強い瞳。
「……。カシム、あなた、もしかして私のこと心配してくれてるの?」
「……当たり前だろう。幼馴染がボロ家で野垂れ死んだら、俺の寝覚めが悪い」
カシムは視線を逸らしましたが、メーサを掴む手には微かに力がこもっていました。
「ふふっ。大丈夫よ、カシム。私には最強の防犯植物と、最強の元ヒロインの弟子がいるもの。それに……」
メーサはカシムの胸板を軽く指先で突きました。
「……世界一お節介で、世界一強い騎士団長が、お隣に住んでいるんですもの。これ以上の安全地帯が、この世のどこにあるっていうの?」
メーサがイタズラっぽく笑うと、カシムは言葉に詰まりました。
彼女の、自分に対する全幅の信頼。
それが、どんな愛の言葉よりも重く、カシムの胸を打ちます。
「……。お前というやつは……」
カシムは溜息をつき、メーサの頭を乱暴に撫でました。
「わかった。なら、その信頼を裏切らないように、今からその『毒針サボテン』の向きを調整してやる。……あと、その変な魔導具はしまえ。見ていて不安になる」
「失礼ね! これは将来、介護業界に革命を起こす逸品なのよ!」
二人の言い合いを、縁側でララとアンナがニヤニヤしながら見守っていました。
「……アンナさん。カシム様、もう隠す気がありませんね」
「ええ。あの方、お嬢様の『愉快な隣人』という肩書きを、そろそろ『唯一の伴侶』に書き換えたくて必死のようですよ」
「メーサ様がいつ気づくか、賭けませんか?」
「私は『一生気づかずにカシム様が胃に穴を開ける』に銀貨一枚ですわ」
当の本人たちは、そんな会話も知らずに、泥だらけになりながら庭の補強に精を出していました。
カシムの悩みは尽きそうにありません。
しかし、その悩みの種であるメーサが隣で笑っている限り、彼はこの不自由な自由を、手放すつもりはありませんでした。
本来ならば、国家の安寧を守るための崇高な軍議が行われるべきその場所で、騎士団長カシムは深く、深いため息をついていました。
「……団長、またですか。ここ一時間で三十回目ですよ、ため息」
副官が呆れたように、山積みの報告書を机に置きました。
カシムは眉間に深い皺を刻んだまま、窓の外を睨みつけます。
その視線の先には、都の北端にある、今にも崩れそうな「あのボロ家」がありました。
「……なあ。あいつは元公爵令嬢なんだぞ。王太子の婚約者だった女だ。それがなぜ、下町の路地裏で『絶対に脱げない靴下』なんて怪しげな発明品を売って笑っていられるんだ」
「メーサ様のことですね。いいじゃないですか、街の人たちには『愉快な隣人』として大人気ですよ。昨日も市場で、喧嘩を始めた酔っ払いを木刀一本で制圧して、ついでに効率的な更生プログラムを叩き込んだとか」
「そこが問題なんだ! あいつは自分がどれほど『隙だらけ』か、わかっていない!」
カシムは机を叩いて立ち上がりました。
彼が危惧しているのは、メーサの身の安全でした。
王太子ジュリアンが彼女に執着しているのは明白であり、さらにララ嬢までが彼女のもとに逃げ込んでいる。
政治的な爆弾を二つも抱えながら、当の本人は「防犯用の毒蔦」に肥料をやり、安酒を飲んで寝ているのです。
「……あいつには危機感という概念が欠落している。昨日も隣から変な音がすると思ったら、二階の窓からロープ一本で降りようとして足が絡まって逆さ吊りになっていた。俺が助けなかったら、今頃は干物になっていたぞ」
「それは……。確かに危機感はありませんが、団長が隣にいて、しかも頻繁に覗き……いえ、監視しているなら安全じゃないですか?」
「監視ではない。隣人としての安否確認だ」
カシムは吐き捨てるように言うと、椅子にかけていた上着をひっつかみました。
「どこへ行くんですか、団長。まだ会議が……」
「……隣の『要塞』の補強だ。あいつが変な植物を植えすぎて、郵便配達員が門前払いを食らっているという苦情が来た」
カシムは足早に執務室を後にしました。
数十分後。
彼はいつものように生け垣を飛び越え、メーサの庭へと降り立ちました。
「あらカシム。奇遇ね、今ちょうど『自動で背中を掻く手』の試作品が完成したところよ。実験台になってくれる?」
庭では、メーサが泥だらけの顔で、不気味に動く木製の魔導具を掲げて笑っていました。
「なるか。……メーサ、お前に言っておくことがある。いいか、よく聞け」
カシムはメーサの両肩をがっしりと掴み、至近距離からその瞳を覗き込みました。
「……え、何? 改まって。まさか、また生け垣を壊したことへの説教?」
「違う。……お前は、自分が狙われている自覚を持てと言っているんだ。王宮の連中も、お前の動向を探っている。一人で出歩くな。何かあれば、すぐに壁を叩け。いいな?」
カシムの低い、熱を帯びた声に、メーサは一瞬だけ目を丸くしました。
至近距離にあるカシムの顔。
整いすぎた容貌と、自分を真っ直ぐに見つめる強い瞳。
「……。カシム、あなた、もしかして私のこと心配してくれてるの?」
「……当たり前だろう。幼馴染がボロ家で野垂れ死んだら、俺の寝覚めが悪い」
カシムは視線を逸らしましたが、メーサを掴む手には微かに力がこもっていました。
「ふふっ。大丈夫よ、カシム。私には最強の防犯植物と、最強の元ヒロインの弟子がいるもの。それに……」
メーサはカシムの胸板を軽く指先で突きました。
「……世界一お節介で、世界一強い騎士団長が、お隣に住んでいるんですもの。これ以上の安全地帯が、この世のどこにあるっていうの?」
メーサがイタズラっぽく笑うと、カシムは言葉に詰まりました。
彼女の、自分に対する全幅の信頼。
それが、どんな愛の言葉よりも重く、カシムの胸を打ちます。
「……。お前というやつは……」
カシムは溜息をつき、メーサの頭を乱暴に撫でました。
「わかった。なら、その信頼を裏切らないように、今からその『毒針サボテン』の向きを調整してやる。……あと、その変な魔導具はしまえ。見ていて不安になる」
「失礼ね! これは将来、介護業界に革命を起こす逸品なのよ!」
二人の言い合いを、縁側でララとアンナがニヤニヤしながら見守っていました。
「……アンナさん。カシム様、もう隠す気がありませんね」
「ええ。あの方、お嬢様の『愉快な隣人』という肩書きを、そろそろ『唯一の伴侶』に書き換えたくて必死のようですよ」
「メーサ様がいつ気づくか、賭けませんか?」
「私は『一生気づかずにカシム様が胃に穴を開ける』に銀貨一枚ですわ」
当の本人たちは、そんな会話も知らずに、泥だらけになりながら庭の補強に精を出していました。
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