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出発の日の朝は、雲一つない快晴だった。
クライスト公爵邸の前には、長旅に備えた頑丈な馬車と、山のような荷物を積んだ幌馬車が何台も連なり、壮観な眺めとなっていた。
旅の主役であるカタリーナは、これからの生活にはまったく不釣り合いなフリルのドレスではなく、動きやすい仕立ての良い乗馬服に身を包んでいた。
燃えるような赤い髪を一つに束ね、その姿は凛々しくも美しい。
「お嬢様、本当にそのお姿でよろしいので?」
同じく実用的な旅装の侍女マリアが、最後の確認をする。
「ええ、もちろんよ。馬車の旅は窮屈なもの。楽な格好が一番だわ」
カタリーナはそう言って、軽やかにステップを踏んだ。
その表情は、これから過酷な辺境へ向かう令嬢のものとは到底思えないほど、明るく輝いている。
屋敷の玄関前には、執事をはじめとする使用人たちがずらりと並び、深々と頭を下げていた。
「お嬢様、どうかお達者で。いつでもお帰りをお待ちしております」
老執事が、声を震わせながら告げる。
他のメイドたちも、寂しそうに瞳を潤ませていた。
悪役令嬢として恐れられてはいたが、理不尽な我儘で彼らを困らせたことは一度もなかった。
「みんな、元気でね。お父様をよろしく頼むわ」
カタリーナは少し照れくさそうに手を振ると、最後に父であるクライスト公爵の前に立った。
公爵はいつものように威厳に満ちた表情を保とうとしていたが、その目には隠しきれない寂しさの色が浮かんでいる。
「カタリーナ」
「はい、お父様」
「何か困ったことがあれば、絶対に我慢するな。すぐに使いを出すのだぞ。この父が、いつでもお前の力になる」
「ふふ、心配性ですのね、お父様は。大丈夫ですわ。わたくし、一人でちゃんとやっていけます」
強気な笑みを返す娘に、公爵は何も言わず、ただその頭を大きな手でそっと撫でた。
「…そうか。ならば、もう何も言うまい。行ってこい、カタリーナ」
「はい。お父様も、どうかお元気で」
カタリーナは父に背を向けると、迷いのない足取りで馬車に乗り込んだ。
扉が閉められる、その直前。
娘の視界の端に、威厳ある父がそっと涙を拭う姿が映った。
その瞬間、カタリーナの胸にも、チクリと熱いものが込み上げた。
やがて、馬車はゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく壮麗な屋敷と、いつまでも手を振り続ける父の姿。
「……」
カタリーナは感傷を振り払うように、パンと一つ手を叩いた。
「さあ、マリア!いよいよ出発よ!私たちの新しい生活の始まりだわ!」
「はい、お嬢様。しかし、これからひと月は馬車に揺られる毎日でございますよ」
マリアが現実的な言葉を口にするが、カタリーナはまったく気にしていない。
「旅は道連れ、世は情け。そして旅の醍醐味は、美味しい食事と新しい発見よ!」
彼女の瞳は、もう過去ではなく、未来だけを見つめていた。
やがて馬車の一行は、巨大な王都の門をくぐる。
カタリーナが生まれ育った、きらびやかで、息苦しくて、退屈だった街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。
窓の外には、どこまでも続く緑の平原と、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。
(さようなら、窮屈な鳥かご。こんにちは、私の広大な空!)
カタリーナは窓を大きく開け、流れ込んでくる新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
土の匂い、草の匂い、そして自由の匂いがした。
これから始まる新しい生活への期待に、彼女の胸は大きく膨らんでいた。
辺境までの長い道のりは、彼女にとって退屈な移動時間などではない。
心躍る、壮大な冒険の始まりだった。
「ねえ、マリア。地図によると、三日後に最初の街に着くそうよ」
カタリーナは膝に広げた地図を指さしながら、楽しそうに言った。
「その街の市場を覗いてみないこと?きっと、王都では見られない珍しいものがたくさんあるはずよ!」
その無邪気な笑顔に、マリアは仕方がないというように微笑み返すしかなかった。
クライスト公爵邸の前には、長旅に備えた頑丈な馬車と、山のような荷物を積んだ幌馬車が何台も連なり、壮観な眺めとなっていた。
旅の主役であるカタリーナは、これからの生活にはまったく不釣り合いなフリルのドレスではなく、動きやすい仕立ての良い乗馬服に身を包んでいた。
燃えるような赤い髪を一つに束ね、その姿は凛々しくも美しい。
「お嬢様、本当にそのお姿でよろしいので?」
同じく実用的な旅装の侍女マリアが、最後の確認をする。
「ええ、もちろんよ。馬車の旅は窮屈なもの。楽な格好が一番だわ」
カタリーナはそう言って、軽やかにステップを踏んだ。
その表情は、これから過酷な辺境へ向かう令嬢のものとは到底思えないほど、明るく輝いている。
屋敷の玄関前には、執事をはじめとする使用人たちがずらりと並び、深々と頭を下げていた。
「お嬢様、どうかお達者で。いつでもお帰りをお待ちしております」
老執事が、声を震わせながら告げる。
他のメイドたちも、寂しそうに瞳を潤ませていた。
悪役令嬢として恐れられてはいたが、理不尽な我儘で彼らを困らせたことは一度もなかった。
「みんな、元気でね。お父様をよろしく頼むわ」
カタリーナは少し照れくさそうに手を振ると、最後に父であるクライスト公爵の前に立った。
公爵はいつものように威厳に満ちた表情を保とうとしていたが、その目には隠しきれない寂しさの色が浮かんでいる。
「カタリーナ」
「はい、お父様」
「何か困ったことがあれば、絶対に我慢するな。すぐに使いを出すのだぞ。この父が、いつでもお前の力になる」
「ふふ、心配性ですのね、お父様は。大丈夫ですわ。わたくし、一人でちゃんとやっていけます」
強気な笑みを返す娘に、公爵は何も言わず、ただその頭を大きな手でそっと撫でた。
「…そうか。ならば、もう何も言うまい。行ってこい、カタリーナ」
「はい。お父様も、どうかお元気で」
カタリーナは父に背を向けると、迷いのない足取りで馬車に乗り込んだ。
扉が閉められる、その直前。
娘の視界の端に、威厳ある父がそっと涙を拭う姿が映った。
その瞬間、カタリーナの胸にも、チクリと熱いものが込み上げた。
やがて、馬車はゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく壮麗な屋敷と、いつまでも手を振り続ける父の姿。
「……」
カタリーナは感傷を振り払うように、パンと一つ手を叩いた。
「さあ、マリア!いよいよ出発よ!私たちの新しい生活の始まりだわ!」
「はい、お嬢様。しかし、これからひと月は馬車に揺られる毎日でございますよ」
マリアが現実的な言葉を口にするが、カタリーナはまったく気にしていない。
「旅は道連れ、世は情け。そして旅の醍醐味は、美味しい食事と新しい発見よ!」
彼女の瞳は、もう過去ではなく、未来だけを見つめていた。
やがて馬車の一行は、巨大な王都の門をくぐる。
カタリーナが生まれ育った、きらびやかで、息苦しくて、退屈だった街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。
窓の外には、どこまでも続く緑の平原と、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。
(さようなら、窮屈な鳥かご。こんにちは、私の広大な空!)
カタリーナは窓を大きく開け、流れ込んでくる新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
土の匂い、草の匂い、そして自由の匂いがした。
これから始まる新しい生活への期待に、彼女の胸は大きく膨らんでいた。
辺境までの長い道のりは、彼女にとって退屈な移動時間などではない。
心躍る、壮大な冒険の始まりだった。
「ねえ、マリア。地図によると、三日後に最初の街に着くそうよ」
カタリーナは膝に広げた地図を指さしながら、楽しそうに言った。
「その街の市場を覗いてみないこと?きっと、王都では見られない珍しいものがたくさんあるはずよ!」
その無邪気な笑顔に、マリアは仕方がないというように微笑み返すしかなかった。
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