悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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その日の午後、城の応接間で小規模な外交団との懇親会が開かれていた。
隣国の貴族たちが集まり、お互いの国の特産品や文化について語り合う場だ。

もちろん、私にとってこれも立派な「残業」である。

「……はぁ」

私は提供されたお茶を啜りながら、心の底からため息をついた。
昨日の夜会といい、今日の茶会といい、この城は仕事だけでなく、社交においても私を休ませる気がないらしい。

私の隣には、なぜかまだ滞在しているリリィが座っている。
彼女は昨日、ルーカスに「ピンクの石ころ」呼ばわりされた恨みからか、私に対して常に冷たい視線を送り続けていた。

(早く帰ってほしいなぁ。視線がうるさい)

私はただ平和に、提供された焼き菓子を食べたかった。
しかし、リリィは何かを企んでいるようだ。
指先で、テーブルの上に置かれた赤いジュースのグラスをツンツンと小突いている。

「ダリア様は、相変わらず無表情ですわね」

リリィが嫌味たっぷりに言った。

「そうでしょうか。私は今、焼き菓子の外皮のサクサク感と、中のクリームのフワフワ感の対比に感動しているのですが」

「フン。そういうところが、アレン様に愛されない理由ですわ」

「愛されなくて結構です。おかげでこの最高級の焼き菓子を、誰にも邪魔されずに堪能できるのですから」

リリィが奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
彼女の顔が、怒りで桃饅頭からリンゴのように赤く変わる。

「……いいですわ。優雅な気分でいるのも今のうちですわよ」

リリィはそう言って、私から視線を外した。
そして、お茶を運んでいた侍女が私の背後を通った瞬間、彼女はわざとらしく席を立った。

「あら、ごめんなさい!」

リリィは侍女に体当たりするようにぶつかった。
「キャッ!」という小さな悲鳴と共に、侍女が持っていたトレイが傾ぐ。

トレイの上には、真っ赤な果実酒が乗ったグラスが一つ。
その赤い液体は、美しい放物線を描きながら、私の純白のドレスめがけて降り注いだ。

ジュースが、バシャッ! と音を立てて、私の胸元からスカートの裾までを赤く染め上げる。

会場の空気が凍りついた。
リリィは目を丸くして、口元を扇子で隠しているが、その瞳は笑っている。

「あらまぁ! 大変! わたくしったら、うっかり手が滑ってしまいましたわ! ダリア様、ごめんなさいね!」

彼女は「うっかり」を装いながら、内心ではガッツポーズをしているに違いない。
完璧な嫌がらせだ。
この時代、ドレスは高価であり、貴族にとって人前で汚されることは大きな屈辱だ。
しかも、このドレスはルーカスが私に贈った最高級のものだ。
これで私は屈辱に耐えきれず、顔面蒼白になって退出するだろう。
リリィはそう確信しているようだった。

だが。
私の反応は、リリィの予想を大きく裏切った。

「まぁ」

私は赤く染まったドレスを眺めた。
そして、そのドレスを汚した張本人であるリリィに向き直る。

「リリィ様」

「な、なんですの。怒鳴りなさいよ!」

リリィは震えながらも、私の次の言葉を待った。

私は、最高の笑顔(ただし目が笑っていない)を浮かべて、恭しくお辞儀をした。

「ありがとうございます!」

「は……?」

リリィの笑顔が凍りつく。

「わたくし、心から感謝申し上げます」

「な、何を言っているんですの? 貴女のドレスを台無しにして差し上げたのに!」

「その通りです。それが素晴らしいのです」

私は小声で、しかしハッキリと告げた。

「実を言うと、このドレス、とても重くて窮屈で、早く脱ぎたいと思っていたのです。しかし、外交の場では『体調不良』以外で勝手に中座できませんでした」

「……っ」

「ですが、貴女がこうして『予期せぬ事故』という完璧な口実を作ってくださったおかげで、私は今すぐ席を立ち、着替えのためという正当な理由で、自室に戻ることが可能になりました」

私は汚れたドレスの裾を少し持ち上げて見せた。

「見てください。これなら『耐え難い屈辱』を理由に退出しても、誰も文句を言いません。むしろ、貴女の悪意が私を救ってくれたのです」

「そ、そんな……」

リリィの顔から血の気が引いていく。
彼女は、最大の嫌がらせが、私にとっての「退席チケット」になったという事実に打ちひしがれていた。

「これで心置きなく、最高の寝具で昼寝ができます。本当に感謝してもしきれませんわ、リリィ様。貴女は私の定時退社の守護天使です」

私は再び深々と一礼し、汚れたドレスのまま、優雅に会場を後にしようとした。

周囲の貴族たちは、この予想外の展開にざわめいていた。
「汚された屈辱を『退席の口実』として利用した?」「なんて図太い精神力だ」「さすがは氷の軍師……いかなる状況も己の利益に変える」

私が会場の扉に手をかけた、その時だ。

「待て、ダリア」

静かな声と共に、ルーカスが私の前に立ちはだかった。
彼は一部始終を見ていた。

「この状況で逃げ切れるとでも思ったか」

「逃げてなどいません。着替えに行くだけです。見てください、証拠が」

私は汚れた胸元を指差した。

「ああ、汚れているな」

ルーカスは私の顔を覗き込む。
そして、優しく私の頬に手を添えた。

「そのドレスは、もう着なくていい」

「えっ」

「だが、君はまだここにいろ」

彼はリリィの方を振り返った。
リリィはまだ床に座り込んだまま、口をパクパクさせている。

「リリィ嬢。君の行為は、我が公爵家に泥を塗ったと見なす」

ルーカスの声には、一片の容赦もなかった。

「このドレスは、帝国最高の織物職人が三ヶ月かけて仕立てた、芸術品だ。それを故意に汚した罪は重い。外交特権があろうと、罰は免れられん」

「こ、故意じゃありません! 事故ですわ!」

「事故? ならば、同等の対価を払ってもらおう」

ルーカスは私に向き直り、再び優しく微笑んだ。

「ダリア。君の退出の理由を、リリィ嬢に与えてやれ」

「え? 私に?」

「ああ。君のドレスを汚した償いだ。君が求める『罰』を与える権利を、彼女に与えよう」

私は一瞬考えた。
リリィに何をしてやろうか。

……そうだ。

「では、リリィ様」

私は冷たい目で、床に座り込むリリィを見下ろした。

「わたくしが貴女に求める償い(罰)はただ一つです」

「な、なんですの……?」

リリィが怯えた目で私を見上げた。

「今すぐ、故郷に帰ってください。そして、二度と私の視界に入らないでください」

「……え?」

「それが、私の求める最大の『平和』であり、貴女が払うべき対価です。貴女の騒がしさは、私の睡眠時間、ひいては帝国の国益を著しく損ないます」

私は淡々と、理路整然と告げた。
物理的な痛みではなく、精神的な苦痛を与える。
そして、自分の利益(平和)を最大限に得る。
これぞ、究極の合理主義。

リリィは顔面を蒼白にさせ、泣き崩れた。
彼女にとって、自分の存在を完全に否定されることほど辛い罰はないのだろう。

「そんな……っ! ひどい……!」

ルーカスは満足げに頷いた。

「見事だ。敵の最大弱点である『存在意義』を突いた、完璧な心理戦だ。これで彼女は、二度と我々に刃向かうことはないだろう」

(ただ、うるさいから帰れと言っただけなんだけど)

ルーカスはリリィを衛兵に引き渡すよう命じた。
そして、汚れたドレスの私を抱きかかえて、会場を後にした。

「これで心置きなく休めるな、ダリア」

「はい……」

「君の優雅な休憩時間を守るため、今後、君の周りのセキュリティを十倍に強化するよう命じよう。君が心から安息できる環境こそが、我が国の最強の武器なのだからな」

私は「セキュリティ強化=逃走経路の遮断」という事実に気づき、内心で涙を流した。
今日も、私は全力でサボろうとして、全力で仕事に繋がってしまった。

「ああ、そういえば」

ルーカスが唐突に言った。

「君のそのドレス、明日、同じものを二十着、別の色で仕立て直させよう」

「えっ、なぜ?」

「何があっても動じない君のスタイルは、公爵夫人に相応しい。それに、汚されても替えがある、という余裕は、外交において最高のプレッシャーになる」

私のズボラ精神が、またしても「究極の戦略」として帝国に組み込まれていく。
私は静かに諦めの息を吐き、暖かい腕の中で目を閉じた。
私の平和なニート生活は、いつになったら始まるのだろうか。
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