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「……よし。これで今月の純利益は、目標の百二十パーセント達成です」
執務室で、私は満足げに羽ペンを置いた。
窓の外は相変わらずの吹雪だが、私の心は南国のビーチのように晴れやかだ。
机の上には、王都の商会から届いた追加注文書と、前金として送られてきた小切手の山。
先日開発した『エルミタージュの燻』が大ヒットし、生産ラインはフル稼働状態だ。
「素晴らしいわ……。煙が金貨に変わる錬金術。これだからビジネスはやめられない」
私はうっとりと小切手の額面を眺めた。
隣のデスクでは、カエル公爵が険しい顔で書類と格闘している。
彼は最近、私の指導のもとで「数字を読む」訓練をさせられているのだ。
「……なぁ、ミュナ」
「はい、何でしょう。計算が合いませんか?」
「いや、計算は合った。……合ったんだが、納得がいかん」
公爵は一枚の羊皮紙を指差した。
「なぜ、この『燻製チップ用木材』の仕入れ値が、先月より二割も上がっているんだ?」
「おや、よく気づきましたね。合格です」
私はニッコリと笑った。
「それは、チップの樹種を『山桜』から、より香りの強い『古木桜』に変えたからです。原価は上がりましたが、それにより商品単価を三割上げることができました。結果として粗利は増えています」
「……なるほど。品質向上のための投資か」
「その通りです。閣下、経営者の視点が身についてきましたね」
「お前のスパルタ教育のおかげだ。……夢にまで数字が出てくる」
公爵はげっそりとした顔でこめかみを押さえた。
そんな平和な(?)午後だった。
扉が乱暴にノックされたのは。
「失礼します! 王都より、急使が参りました!」
入ってきたのは衛兵だ。
その背後から、雪にまみれたマントを羽織った男が、偉そうに足を踏み入れてきた。
王家の紋章が入った服を着ている。
王宮からの使者だ。
「……エルミタージュ公爵、およびミュナ・ガニエール嬢だな」
使者は慇懃無礼に鼻を鳴らした。
「王太子アルベール殿下より、親書を預かってきた。心して拝読せよ」
彼は懐から、封蝋で厳重に閉じられた手紙を取り出し、私の机の上に放り投げた。
バサッ。
無礼な投げ方だ。
カエル公爵の眉がピクリと跳ねる。
部屋の温度が一気に五度は下がった気がした。
「……拾え」
公爵が低く言った。
「は?」
「机に投げるなと言ったんだ。拾って、丁寧に渡し直せ」
殺気。
歴戦の武人だけが放てる、肌を刺すようなプレッシャーが使者を襲う。
使者は真っ青になり、震える手で手紙を拾い上げ、両手で私に差し出した。
「し、失礼いたしました……」
「結構です。……ご苦労様」
私は手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、最高級の羊皮紙だ。
そこには、見覚えのある下手くそな……いや、個性的な筆跡で、長々と文章が綴られていた。
私はざっと目を通した。
そして、無表情のまま読み上げた。
「『拝啓、ミュナ・ガニエール。北の僻地で反省の日々を送っていることと思う』」
「……反省?」
公爵が怪訝な顔をする。
「続きです。『風の噂では、そちらで小銭を稼いでいるそうだな。本来なら僕が受け取るべき利益を、勝手に懐に入れているとは嘆かわしい』」
「……はあ?」
「『だが、僕は慈悲深い。君の罪を許してやろうと思う』」
「……何様だ?」
「『ついては、王都の財政支援として、辺境特別税の支払いを命じる。金額は金貨一万枚。即金で支払え。そうすれば、君を再び僕の側室……いや、財務担当のメイドとして雇ってやってもいい』」
読み終えた私は、手紙をパラリと机に置いた。
沈黙。
部屋の中には、吹雪の音だけが響いている。
カエル公爵は、静かに立ち上がった。
その手には、いつの間にか剣の柄が握られている。
「……ミュナ」
「はい」
「斬っていいか? その使者」
「いけません。絨毯が汚れます。クリーニング代が無駄です」
私は冷静に止めた。
使者は腰を抜かして床にへたり込んでいる。
「ひぃっ! わ、私はただの手紙の運び役で……!」
「分かっていますよ。貴方に罪はありません。……ただ」
私は手紙を指先で摘み上げた。
汚いものに触れるような手つきで。
「この手紙の内容には、論理的欠陥が多すぎますね」
「欠陥……?」
「はい。まず第一に、私は辺境に『左遷』されたのではありません。国王陛下の勅命により、正式な人事異動で赴任したのです。よって『反省』などする必要がありません」
私は指を一本立てた。
「第二に、辺境で得た利益は、エルミタージュ公爵領の正当な事業収益です。王太子殿下に所有権はありません。これを要求するのは『恐喝』に当たります」
二本目の指を立てる。
「第三に、金貨一万枚という金額。これは当領地の年間予算の半分に匹敵します。法的根拠のない課税は無効ですし、そもそも支払い能力を無視した要求は、破産を強要するものです」
三本目の指。
「そして最後に……『財務担当のメイド』? 現在の私の役職は『公爵領財務全権責任者』です。キャリアダウンのオファーを受ける理由が、一ミリもありません」
私はため息をついた。
「総じて、この手紙は紙とインクの無駄遣いです。資源の浪費ですね」
「……つまり?」
公爵が問いかける。
私は手紙をくしゃくしゃに丸めた。
そして、躊躇なく暖炉の中に放り込んだ。
ポイッ。
「えっ」
使者が声を上げる間もなく、手紙は炎に包まれ、一瞬で灰になった。
「ああっ! で、殿下の親書を……!」
「親書? ただの燃えるゴミでしたが」
私は平然と言った。
「暖炉の燃料にした方が、まだ熱エネルギーとして役に立ちます。……さて」
私は懐中時計を見た。
「この手紙を読むのに三分、内容の精査に二分、反論の思考に一分。計六分の時間を浪費しました」
私は引き出しから請求書用紙を取り出し、さらさらと記入した。
「私のコンサルティング料は、一分につき金貨一枚です。よって、金貨六枚を請求します」
「は、はあ!?」
「加えて、この不愉快な文章を読まされたことによる精神的苦痛への慰謝料、および暖炉の燃料としてのリサイクル手数料を含め、締めて金貨十枚になります」
私は書き上げた請求書を使者に突きつけた。
「殿下にお渡しください。『手紙の返事の代わりに、請求書を送ります』と」
使者は口をパクパクさせていた。
あまりの事態に、脳の処理が追いついていないようだ。
「……聞こえなかったのか?」
公爵がドスの効いた声で言った。
「ミュナは『帰れ』と言っている。……それとも、俺が雪山まで送ってやろうか? 片道切符で」
「ひ、ひぃぃぃっ! し、失礼いたしましたぁぁ!」
使者は請求書をひったくり、転がるように部屋から逃げ出した。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
やがて、静寂が戻った。
「……ふう」
私は椅子に座り直し、紅茶を一口飲んだ。
「騒がしいお客様でしたね」
「……お前、本当に肝が据わっているな」
公爵が呆れたように、しかしどこか感心した様子で言った。
「相手は次期国王だぞ。あんな対応をして大丈夫か?」
「次期国王だからこそ、です。道理の通らない要求に屈すれば、今後も骨の髄までしゃぶられます」
私はカップをソーサーに置いた。
「それに……私はもう、あの人の婚約者ではありません。守るべきは王太子のメンツではなく、この領地の財産と、領民たちの生活です」
公爵は私をじっと見つめた。
「……そうか」
彼は短く呟き、窓際へ歩いた。
「金貨一万枚、か。……王都の財政は、それほど切迫しているのか?」
「恐らく。私の予想では、慈善事業と称した散財か、あるいは無計画な投資の失敗でしょう。……あの二人がやりそうなことです」
「……馬鹿な奴らだ」
公爵は吐き捨てるように言った。
「自分たちが捨てた宝石が、どれほどの価値を持っていたかも知らずに」
「宝石?」
「お前のことだ」
彼は振り返らずに言った。
背中越しでも、その言葉に込められた熱が伝わってくる。
「あいつらは、お前を『悪役』だと言って追い出した。……だが、俺にとっては『救世主』だ」
「……閣下」
「俺は、お前を渡さんぞ。王太子だろうが、国王だろうが……誰にもお前はやらん」
それは、独占欲のような、あるいは強い決意のような響きだった。
私の胸の奥が、またトクンと鳴った。
最近、この心臓の不整脈(?)が頻発している。
循環器系の疾患だろうか。
それとも……。
「……ご安心ください」
私は努めて冷静な声を出した。
「私は、条件の良い職場に留まる主義です。現在のところ、エルミタージュ公爵領以上の好条件……つまり、裁量権があり、やりがいがあり、そして上司が(意外と)素直で扱いやすい職場は他にありませんので」
「……扱いやすいは余計だ」
公爵が振り返り、苦笑した。
「だが、条件が良いなら契約更新だな」
「はい。……終身契約でも、検討してもいいですよ?」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
何を言っているんだ私は。
これはプロポーズと取られかねない発言ではないか。
公爵も目を見開いた。
「……終身?」
「あ、いえ! 長期雇用という意味で! 退職金制度とか、年金とか、そういう意味での!」
私が慌てて取り繕うと、彼はふっと笑った。
とても優しく、嬉しそうな顔で。
「……前向きに検討しよう。福利厚生は手厚くするつもりだ」
「……期待しています」
私たちは視線を合わせ、どちらからともなく逸らした。
部屋の空気は、暖炉の火よりもずっと温かくなっていた。
だが。
この平穏が長く続かないことも、私は予感していた。
アルベール殿下は、プライドの塊だ。
使者が請求書を持って帰れば、火に油を注ぐことになる。
きっと、次は手紙などという生温かい手段ではなく、もっと直接的な行動に出るだろう。
「……カエル様」
私は彼の名を呼んだ。
仕事モードの「閣下」ではなく。
「ん?」
「次の決算期は、荒れそうですね」
「ああ。だが、心配するな」
彼は剣の柄をポンと叩いた。
「数字の戦いは任せた。……物理的な戦いは、俺が引き受ける」
「頼もしいですね。では、私は迎撃用の『予算』を組んでおきます」
「迎撃用予算?」
「はい。城壁の補強、罠の設置、それから……いざという時のための、情報操作費用です」
私はニヤリと笑った。
「売られた喧嘩です。高く買ってもらいましょう」
王都からの手紙は、ただの宣戦布告だった。
けれど、それは私たちがより強固な「共犯関係」を結ぶためのきっかけに過ぎなかった。
私の手元には、燃やしてしまった手紙の代わりに、新たな決意があった。
この領地は、絶対に渡さない。
そして、私の平穏な「帳簿ライフ」を邪魔する者は、誰であろうと容赦なく「損切り」してやる。
(待っていなさい、アルベール殿下。……今度こそ、桁違いの『請求書』を叩きつけてあげるから)
私は心の中で、静かに戦闘態勢に入った。
執務室で、私は満足げに羽ペンを置いた。
窓の外は相変わらずの吹雪だが、私の心は南国のビーチのように晴れやかだ。
机の上には、王都の商会から届いた追加注文書と、前金として送られてきた小切手の山。
先日開発した『エルミタージュの燻』が大ヒットし、生産ラインはフル稼働状態だ。
「素晴らしいわ……。煙が金貨に変わる錬金術。これだからビジネスはやめられない」
私はうっとりと小切手の額面を眺めた。
隣のデスクでは、カエル公爵が険しい顔で書類と格闘している。
彼は最近、私の指導のもとで「数字を読む」訓練をさせられているのだ。
「……なぁ、ミュナ」
「はい、何でしょう。計算が合いませんか?」
「いや、計算は合った。……合ったんだが、納得がいかん」
公爵は一枚の羊皮紙を指差した。
「なぜ、この『燻製チップ用木材』の仕入れ値が、先月より二割も上がっているんだ?」
「おや、よく気づきましたね。合格です」
私はニッコリと笑った。
「それは、チップの樹種を『山桜』から、より香りの強い『古木桜』に変えたからです。原価は上がりましたが、それにより商品単価を三割上げることができました。結果として粗利は増えています」
「……なるほど。品質向上のための投資か」
「その通りです。閣下、経営者の視点が身についてきましたね」
「お前のスパルタ教育のおかげだ。……夢にまで数字が出てくる」
公爵はげっそりとした顔でこめかみを押さえた。
そんな平和な(?)午後だった。
扉が乱暴にノックされたのは。
「失礼します! 王都より、急使が参りました!」
入ってきたのは衛兵だ。
その背後から、雪にまみれたマントを羽織った男が、偉そうに足を踏み入れてきた。
王家の紋章が入った服を着ている。
王宮からの使者だ。
「……エルミタージュ公爵、およびミュナ・ガニエール嬢だな」
使者は慇懃無礼に鼻を鳴らした。
「王太子アルベール殿下より、親書を預かってきた。心して拝読せよ」
彼は懐から、封蝋で厳重に閉じられた手紙を取り出し、私の机の上に放り投げた。
バサッ。
無礼な投げ方だ。
カエル公爵の眉がピクリと跳ねる。
部屋の温度が一気に五度は下がった気がした。
「……拾え」
公爵が低く言った。
「は?」
「机に投げるなと言ったんだ。拾って、丁寧に渡し直せ」
殺気。
歴戦の武人だけが放てる、肌を刺すようなプレッシャーが使者を襲う。
使者は真っ青になり、震える手で手紙を拾い上げ、両手で私に差し出した。
「し、失礼いたしました……」
「結構です。……ご苦労様」
私は手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、最高級の羊皮紙だ。
そこには、見覚えのある下手くそな……いや、個性的な筆跡で、長々と文章が綴られていた。
私はざっと目を通した。
そして、無表情のまま読み上げた。
「『拝啓、ミュナ・ガニエール。北の僻地で反省の日々を送っていることと思う』」
「……反省?」
公爵が怪訝な顔をする。
「続きです。『風の噂では、そちらで小銭を稼いでいるそうだな。本来なら僕が受け取るべき利益を、勝手に懐に入れているとは嘆かわしい』」
「……はあ?」
「『だが、僕は慈悲深い。君の罪を許してやろうと思う』」
「……何様だ?」
「『ついては、王都の財政支援として、辺境特別税の支払いを命じる。金額は金貨一万枚。即金で支払え。そうすれば、君を再び僕の側室……いや、財務担当のメイドとして雇ってやってもいい』」
読み終えた私は、手紙をパラリと机に置いた。
沈黙。
部屋の中には、吹雪の音だけが響いている。
カエル公爵は、静かに立ち上がった。
その手には、いつの間にか剣の柄が握られている。
「……ミュナ」
「はい」
「斬っていいか? その使者」
「いけません。絨毯が汚れます。クリーニング代が無駄です」
私は冷静に止めた。
使者は腰を抜かして床にへたり込んでいる。
「ひぃっ! わ、私はただの手紙の運び役で……!」
「分かっていますよ。貴方に罪はありません。……ただ」
私は手紙を指先で摘み上げた。
汚いものに触れるような手つきで。
「この手紙の内容には、論理的欠陥が多すぎますね」
「欠陥……?」
「はい。まず第一に、私は辺境に『左遷』されたのではありません。国王陛下の勅命により、正式な人事異動で赴任したのです。よって『反省』などする必要がありません」
私は指を一本立てた。
「第二に、辺境で得た利益は、エルミタージュ公爵領の正当な事業収益です。王太子殿下に所有権はありません。これを要求するのは『恐喝』に当たります」
二本目の指を立てる。
「第三に、金貨一万枚という金額。これは当領地の年間予算の半分に匹敵します。法的根拠のない課税は無効ですし、そもそも支払い能力を無視した要求は、破産を強要するものです」
三本目の指。
「そして最後に……『財務担当のメイド』? 現在の私の役職は『公爵領財務全権責任者』です。キャリアダウンのオファーを受ける理由が、一ミリもありません」
私はため息をついた。
「総じて、この手紙は紙とインクの無駄遣いです。資源の浪費ですね」
「……つまり?」
公爵が問いかける。
私は手紙をくしゃくしゃに丸めた。
そして、躊躇なく暖炉の中に放り込んだ。
ポイッ。
「えっ」
使者が声を上げる間もなく、手紙は炎に包まれ、一瞬で灰になった。
「ああっ! で、殿下の親書を……!」
「親書? ただの燃えるゴミでしたが」
私は平然と言った。
「暖炉の燃料にした方が、まだ熱エネルギーとして役に立ちます。……さて」
私は懐中時計を見た。
「この手紙を読むのに三分、内容の精査に二分、反論の思考に一分。計六分の時間を浪費しました」
私は引き出しから請求書用紙を取り出し、さらさらと記入した。
「私のコンサルティング料は、一分につき金貨一枚です。よって、金貨六枚を請求します」
「は、はあ!?」
「加えて、この不愉快な文章を読まされたことによる精神的苦痛への慰謝料、および暖炉の燃料としてのリサイクル手数料を含め、締めて金貨十枚になります」
私は書き上げた請求書を使者に突きつけた。
「殿下にお渡しください。『手紙の返事の代わりに、請求書を送ります』と」
使者は口をパクパクさせていた。
あまりの事態に、脳の処理が追いついていないようだ。
「……聞こえなかったのか?」
公爵がドスの効いた声で言った。
「ミュナは『帰れ』と言っている。……それとも、俺が雪山まで送ってやろうか? 片道切符で」
「ひ、ひぃぃぃっ! し、失礼いたしましたぁぁ!」
使者は請求書をひったくり、転がるように部屋から逃げ出した。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
やがて、静寂が戻った。
「……ふう」
私は椅子に座り直し、紅茶を一口飲んだ。
「騒がしいお客様でしたね」
「……お前、本当に肝が据わっているな」
公爵が呆れたように、しかしどこか感心した様子で言った。
「相手は次期国王だぞ。あんな対応をして大丈夫か?」
「次期国王だからこそ、です。道理の通らない要求に屈すれば、今後も骨の髄までしゃぶられます」
私はカップをソーサーに置いた。
「それに……私はもう、あの人の婚約者ではありません。守るべきは王太子のメンツではなく、この領地の財産と、領民たちの生活です」
公爵は私をじっと見つめた。
「……そうか」
彼は短く呟き、窓際へ歩いた。
「金貨一万枚、か。……王都の財政は、それほど切迫しているのか?」
「恐らく。私の予想では、慈善事業と称した散財か、あるいは無計画な投資の失敗でしょう。……あの二人がやりそうなことです」
「……馬鹿な奴らだ」
公爵は吐き捨てるように言った。
「自分たちが捨てた宝石が、どれほどの価値を持っていたかも知らずに」
「宝石?」
「お前のことだ」
彼は振り返らずに言った。
背中越しでも、その言葉に込められた熱が伝わってくる。
「あいつらは、お前を『悪役』だと言って追い出した。……だが、俺にとっては『救世主』だ」
「……閣下」
「俺は、お前を渡さんぞ。王太子だろうが、国王だろうが……誰にもお前はやらん」
それは、独占欲のような、あるいは強い決意のような響きだった。
私の胸の奥が、またトクンと鳴った。
最近、この心臓の不整脈(?)が頻発している。
循環器系の疾患だろうか。
それとも……。
「……ご安心ください」
私は努めて冷静な声を出した。
「私は、条件の良い職場に留まる主義です。現在のところ、エルミタージュ公爵領以上の好条件……つまり、裁量権があり、やりがいがあり、そして上司が(意外と)素直で扱いやすい職場は他にありませんので」
「……扱いやすいは余計だ」
公爵が振り返り、苦笑した。
「だが、条件が良いなら契約更新だな」
「はい。……終身契約でも、検討してもいいですよ?」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
何を言っているんだ私は。
これはプロポーズと取られかねない発言ではないか。
公爵も目を見開いた。
「……終身?」
「あ、いえ! 長期雇用という意味で! 退職金制度とか、年金とか、そういう意味での!」
私が慌てて取り繕うと、彼はふっと笑った。
とても優しく、嬉しそうな顔で。
「……前向きに検討しよう。福利厚生は手厚くするつもりだ」
「……期待しています」
私たちは視線を合わせ、どちらからともなく逸らした。
部屋の空気は、暖炉の火よりもずっと温かくなっていた。
だが。
この平穏が長く続かないことも、私は予感していた。
アルベール殿下は、プライドの塊だ。
使者が請求書を持って帰れば、火に油を注ぐことになる。
きっと、次は手紙などという生温かい手段ではなく、もっと直接的な行動に出るだろう。
「……カエル様」
私は彼の名を呼んだ。
仕事モードの「閣下」ではなく。
「ん?」
「次の決算期は、荒れそうですね」
「ああ。だが、心配するな」
彼は剣の柄をポンと叩いた。
「数字の戦いは任せた。……物理的な戦いは、俺が引き受ける」
「頼もしいですね。では、私は迎撃用の『予算』を組んでおきます」
「迎撃用予算?」
「はい。城壁の補強、罠の設置、それから……いざという時のための、情報操作費用です」
私はニヤリと笑った。
「売られた喧嘩です。高く買ってもらいましょう」
王都からの手紙は、ただの宣戦布告だった。
けれど、それは私たちがより強固な「共犯関係」を結ぶためのきっかけに過ぎなかった。
私の手元には、燃やしてしまった手紙の代わりに、新たな決意があった。
この領地は、絶対に渡さない。
そして、私の平穏な「帳簿ライフ」を邪魔する者は、誰であろうと容赦なく「損切り」してやる。
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