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夜会の喧騒から一夜明けたアルトハイム公爵家の朝は、嘘のように静かだった。
自室のベッドで目を覚ましたマリアンは、天蓋を透かして差し込む柔らかな朝日を浴びながら、ぐっと大きく伸びをした。
(ああ、なんて清々しい朝かしら!)
昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、心も体も驚くほど軽い。
「おはようございます、お嬢様」
控えめなノックと共に、長年マリアンに仕える侍女のアネットが入ってきた。その目は少し赤く腫れている。
「昨夜は……その、大変でございましたね。お心が休まらなかったのでは……」
心配そうに声をかけるアネットに、マリアンはベッドから軽やかに降り立つと、くるりと一回転してみせた。
「大変だったわ、ええ、本当に。これ以上ないくらい、最高の夜だったわ!」
「へ……?」
きょとんとする侍女に、マリアンは悪戯っぽく笑いかける。
「さあ、アネット。感傷に浸っている暇はないわよ。わたくしの新しい人生の始まりなんだから! まずはお父様と朝食をいただくわ」
◇
朝食の席で、父であるアルトハイム公爵は、淹れたての紅茶を一口すすると、静かに口を開いた。
「さて、マリアン。表向きは『婚約破棄のショックで、マリアンは領地の別荘で静養する』ということになっている。王家にもそう伝えてある」
「ええ、存じておりますわ」
「だが、本当はどうするつもりだ? 別荘でのんびり暮らす柄ではあるまい、お前は」
公爵の言葉に、マリアンはナイフとフォークを置くと、キラキラと翠色の瞳を輝かせた。
「もちろんですわ、お父様。わたくしは、計画通り王都に残ります。そして、長年の夢を叶えます!」
「……本気で、あの『かふぇ』とやらを開くのか」
「カフェ、ですわ。ええ、もちろん本気ですとも!」
公爵は娘の揺るぎない瞳を見て、やれやれと首を振る。この娘が一度言い出したら聞かないことは、誰よりもよく知っていた。
「まあ、お前が幸せならそれが一番だ。王太子妃になるよりは、よほどお前らしい人生だろう」
そう言うと、公爵は一枚の書類をマリアンに差し出した。
「開店に必要な資金は、お前の口座に振り込んでおいた。それから、腕利きの情報屋を一人紹介しよう。護衛も兼ねて、きっとお前の力になるはずだ」
「まあ! お父様!」
「ただし、条件がある。アルトハイム家の名前は一切使わずにやることだ。万が一、店が失敗しても、公爵家は一切関知しない。いいな?」
それは、娘を思う父なりの愛情表現だった。失敗を恐れず、自分の力でやってみろという、無言のエール。
マリアンはその想いを正確に受け取った。
「望むところですわ! わたくしの力で、王都一のカフェを開いてみせます!」
力強い宣言に、アルトハイム公爵は満足そうに、そしてほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
◇
朝食を終えたマリアンは、自室に戻ると早速荷造りを始めた。
クローゼットには、王太子妃になるために誂えられた豪華絢爛なドレスがひしめいている。宝石箱には、目もくらむような宝飾品の数々。しかし、マリアンはそれらには目もくれなかった。
彼女が向かったのは、書斎の奥にある鍵のかかった小さな隠し部屋。
そこは、彼女だけの宝物庫だった。
「みんな、待たせたわね。一緒にお引越しよ」
棚にずらりと並んでいるのは、ドレスでも宝石でもない。大小さまざまな、古びた機械の部品や、奇妙な仕掛けが施されたガラクタ――古代文明の遺物である「魔道具」のコレクションだ。
自動で羽根ペンが美しい文字を綴るメモ帳。
手のひらで包むと、魔力に反応してじんわりと温かくなるマグカップ。
そして、マリアンが一番気に入っている、ゼンマイ仕掛けでカリカリと心地よい音を立てて豆を挽く、奇妙な形の機械。
それらを一つ一つ、愛おしそうに柔らかい布で包み、頑丈な木製のトランクに丁寧に詰めていく。
「これからは、あなたたちが主役よ」
◇
準備を終え、質素だが頑丈な一台の馬車が公爵邸の裏口に用意された。見送るのは、父と侍女のアネットだけだ。
「お嬢様、どうかお元気で……。何かありましたら、すぐに手紙を……」
「ありがとう、アネット。あなたもね。たまには王都の流行りのお菓子でも送るわ」
涙ぐむ侍女の頭を優しく撫で、次に父に向き直る。
「では、お父様。行ってまいります」
「うむ。……困ったらいつでも帰ってこい」
「大丈夫ですわ。わたくし、お父様が思っているより、ずっと逞しいんですから」
マリアンはにっこり笑うと、ひらりと馬車に乗り込んだ。
王都の喧騒が遠ざかり、馬車が郊外の街道に出た頃。
マリアンはふう、と一つ息をつくと、おもむろに着ていた上等な絹のドレスを脱ぎ始めた。
そしてトランクから取り出したのは、白いシャツに動きやすい乗馬用のズボン、それに編み上げの丈夫な革のブーツ。あっという間に、貴族の令嬢から活動的な街の娘へと姿を変える。
きつく結い上げていた髪を留めていた宝石の簪を抜き、無造作に放ると、艶やかな赤い髪がばさりと彼女の背中に広がった。それを革紐で一つに束ね、ポニーテールにする。
ああ、なんて身軽なのだろう。
マリアンは馬車の窓を大きく開け、流れ込んでくる初夏の風を全身で受け止めた。
偽りの淑女の仮面も、窮屈なコルセットも、重たいドレスも、もういらない。
「さよなら、『悪役令嬢』のマリアン・フォン・アルトハイム!」
マリアンは風に向かって叫んだ。
「そして、こんにちは! ただのマリアン!」
彼女は自分の鞄から、使い込んで少し古びた一冊の分厚い手帳を取り出した。その表紙には、彼女の美しい文字でこう書かれている。
『カフェ・アルケミスタ 開業計画書』
ページをめくるマリアンの表情は、希望と喜びに満ち溢れていた。
「これからは、自分の力で生きていくのよ!」
自由への道を、馬車はひた走る。
自室のベッドで目を覚ましたマリアンは、天蓋を透かして差し込む柔らかな朝日を浴びながら、ぐっと大きく伸びをした。
(ああ、なんて清々しい朝かしら!)
昨夜の出来事がまるで夢だったかのように、心も体も驚くほど軽い。
「おはようございます、お嬢様」
控えめなノックと共に、長年マリアンに仕える侍女のアネットが入ってきた。その目は少し赤く腫れている。
「昨夜は……その、大変でございましたね。お心が休まらなかったのでは……」
心配そうに声をかけるアネットに、マリアンはベッドから軽やかに降り立つと、くるりと一回転してみせた。
「大変だったわ、ええ、本当に。これ以上ないくらい、最高の夜だったわ!」
「へ……?」
きょとんとする侍女に、マリアンは悪戯っぽく笑いかける。
「さあ、アネット。感傷に浸っている暇はないわよ。わたくしの新しい人生の始まりなんだから! まずはお父様と朝食をいただくわ」
◇
朝食の席で、父であるアルトハイム公爵は、淹れたての紅茶を一口すすると、静かに口を開いた。
「さて、マリアン。表向きは『婚約破棄のショックで、マリアンは領地の別荘で静養する』ということになっている。王家にもそう伝えてある」
「ええ、存じておりますわ」
「だが、本当はどうするつもりだ? 別荘でのんびり暮らす柄ではあるまい、お前は」
公爵の言葉に、マリアンはナイフとフォークを置くと、キラキラと翠色の瞳を輝かせた。
「もちろんですわ、お父様。わたくしは、計画通り王都に残ります。そして、長年の夢を叶えます!」
「……本気で、あの『かふぇ』とやらを開くのか」
「カフェ、ですわ。ええ、もちろん本気ですとも!」
公爵は娘の揺るぎない瞳を見て、やれやれと首を振る。この娘が一度言い出したら聞かないことは、誰よりもよく知っていた。
「まあ、お前が幸せならそれが一番だ。王太子妃になるよりは、よほどお前らしい人生だろう」
そう言うと、公爵は一枚の書類をマリアンに差し出した。
「開店に必要な資金は、お前の口座に振り込んでおいた。それから、腕利きの情報屋を一人紹介しよう。護衛も兼ねて、きっとお前の力になるはずだ」
「まあ! お父様!」
「ただし、条件がある。アルトハイム家の名前は一切使わずにやることだ。万が一、店が失敗しても、公爵家は一切関知しない。いいな?」
それは、娘を思う父なりの愛情表現だった。失敗を恐れず、自分の力でやってみろという、無言のエール。
マリアンはその想いを正確に受け取った。
「望むところですわ! わたくしの力で、王都一のカフェを開いてみせます!」
力強い宣言に、アルトハイム公爵は満足そうに、そしてほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
◇
朝食を終えたマリアンは、自室に戻ると早速荷造りを始めた。
クローゼットには、王太子妃になるために誂えられた豪華絢爛なドレスがひしめいている。宝石箱には、目もくらむような宝飾品の数々。しかし、マリアンはそれらには目もくれなかった。
彼女が向かったのは、書斎の奥にある鍵のかかった小さな隠し部屋。
そこは、彼女だけの宝物庫だった。
「みんな、待たせたわね。一緒にお引越しよ」
棚にずらりと並んでいるのは、ドレスでも宝石でもない。大小さまざまな、古びた機械の部品や、奇妙な仕掛けが施されたガラクタ――古代文明の遺物である「魔道具」のコレクションだ。
自動で羽根ペンが美しい文字を綴るメモ帳。
手のひらで包むと、魔力に反応してじんわりと温かくなるマグカップ。
そして、マリアンが一番気に入っている、ゼンマイ仕掛けでカリカリと心地よい音を立てて豆を挽く、奇妙な形の機械。
それらを一つ一つ、愛おしそうに柔らかい布で包み、頑丈な木製のトランクに丁寧に詰めていく。
「これからは、あなたたちが主役よ」
◇
準備を終え、質素だが頑丈な一台の馬車が公爵邸の裏口に用意された。見送るのは、父と侍女のアネットだけだ。
「お嬢様、どうかお元気で……。何かありましたら、すぐに手紙を……」
「ありがとう、アネット。あなたもね。たまには王都の流行りのお菓子でも送るわ」
涙ぐむ侍女の頭を優しく撫で、次に父に向き直る。
「では、お父様。行ってまいります」
「うむ。……困ったらいつでも帰ってこい」
「大丈夫ですわ。わたくし、お父様が思っているより、ずっと逞しいんですから」
マリアンはにっこり笑うと、ひらりと馬車に乗り込んだ。
王都の喧騒が遠ざかり、馬車が郊外の街道に出た頃。
マリアンはふう、と一つ息をつくと、おもむろに着ていた上等な絹のドレスを脱ぎ始めた。
そしてトランクから取り出したのは、白いシャツに動きやすい乗馬用のズボン、それに編み上げの丈夫な革のブーツ。あっという間に、貴族の令嬢から活動的な街の娘へと姿を変える。
きつく結い上げていた髪を留めていた宝石の簪を抜き、無造作に放ると、艶やかな赤い髪がばさりと彼女の背中に広がった。それを革紐で一つに束ね、ポニーテールにする。
ああ、なんて身軽なのだろう。
マリアンは馬車の窓を大きく開け、流れ込んでくる初夏の風を全身で受け止めた。
偽りの淑女の仮面も、窮屈なコルセットも、重たいドレスも、もういらない。
「さよなら、『悪役令嬢』のマリアン・フォン・アルトハイム!」
マリアンは風に向かって叫んだ。
「そして、こんにちは! ただのマリアン!」
彼女は自分の鞄から、使い込んで少し古びた一冊の分厚い手帳を取り出した。その表紙には、彼女の美しい文字でこう書かれている。
『カフェ・アルケミスタ 開業計画書』
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