ざまぁ不要の悪役令嬢!婚約破棄は想定内、むしろご褒美ですわ!

夏乃みのり

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王宮の壮麗な門を後にし、帰路につく馬車の中は、驚くほど静かだった。

今日の昼間に起こった、あの悪夢のような騒動が、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。

マリアンは、窓の外を流れていく王都の景色を、ただぼんやりと眺めていた。隣では、さすがに疲れたのか、カイがこっくりこっくりと船を漕いでいる。そして、馬車の前からは、彼女を守るように寄り添って走る、アレクシスの黒馬の蹄の音が、心地よく響いていた。

やがて、馬車は、見慣れた石畳の路地裏へと滑り込む。

「……着きましたよ、マスター」

カイの言葉に、マリアンははっと我に返った。目の前には、西日に照らされて、温かいオレンジ色に染まる、自分たちの城――「カフェ・アルケミスタ」があった。

(……帰ってきたんだわ)

その事実に、マリアンは心の底から安堵するのを感じた。

「いやー、疲れました! さすがに今日はもう店じまいですな! 俺、ちょっと裏で荷物の整理も兼ねて、休んできますんで、あとはお二人で、ごゆっくり!」

馬車から降りるなり、カイはわざとらしいほど大きなあくびをすると、気を利かせて、そそくさと店の裏手へと消えていった。

後に残されたのは、マリアンと、そして、馬から降りて静かに佇む、アレクシスだけだった。

夕暮れの光が、二人の間に長く、穏やかな影を落としている。

「……」
「……」

どちらからともなく、二人は店の扉を開け、中へと入った。

誰もいない店内は、静まり返っている。けれど、そこにはマリアンが慣れ親しんだ、コーヒー豆の香ばしい匂いと、焼き菓子の甘い残り香が、確かに満ちていた。

マリアンは、今日の出来事で張り詰めていた心が、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じながら、自然とカウンターの中へと入っていた。

そして、まるで日課をこなすかのように、当たり前の動きで、コーヒーを淹れる準備を始める。

「……お疲れでしょう。もし、よろしければ、一杯いかがですか」

それが、今の彼女にできる、彼への最大限の感謝の表現だった。

アレクシスは、何も言わず、こくりと頷いた。しかし、彼はいつもの隅の席には向かわず、マリアンの立つ、カウンターのすぐ目の前に、立ったままだった。

マリアンの、慣れた、美しい手つき。豆を挽き、お湯を沸かし、自慢の魔道具が、しゅう、と心地よい音を立てる。そのすべてを、アレクシスは、ただ黙って、愛おしいものを見るかのような、優しい目で見つめていた。

やがて、極上の一杯が淹れられ、マリアンは、そのカップを彼の前に差し出した。

「どうぞ」

その時、カップを受け取ろうとした彼のごつごつした指先が、マリアンの指に、そっと触れた。

びくり、とマリアンの肩が震える。いつもなら、すぐに離れていくはずのその手が、今日は、離れなかった。

「……マリアン」

初めて、彼は、彼女の名前を呼んだ。

その、低く、少し掠れた声に、マリアンの心臓が、大きく跳ねる。

「今日の、園遊会でのことだが」

「は、はい」

「俺は、騎士団長として、警備責任者として、当然のことをしたまでだ。国王陛下と、罪なき民を守る。それが、俺の務めだ」

彼は、一度、言葉を切った。

「だが……。それだけではない」

アレクシスは、一度コーヒーカップに視線を落とし、そして、決心したかのように、再びマリアンの瞳を、まっすぐに射抜いた。その青い瞳の奥には、今までに見たこともないほどの、真剣な、そして熱い光が宿っていた。

「……俺には、君の淹れるコーヒーが、必要だ」

それは、いつもの、彼の不器用な誉め言葉のはずだった。

「そして……。それだけではないんだ」

「……え?」

「君自身が……。マリアン、君が、俺には必要なんだ」

それは、飾り気も、甘い言葉もない、あまりにも不器用で、けれど、どこまでも誠実な、魂からの告白だった。

「君がいないこの店など、考えられん。君のいない明日もだ」

マリアンの、翠色の瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。

それは、悲しみの涙ではない。今日一日、ずっと胸の中に溜まっていた、恐怖と、安堵と、感謝と、そして、彼への愛しさ、そのすべてが、一粒の雫となって、溢れ出したのだ。

彼女は、涙で濡れた顔のまま、今、一番美しい笑顔で、微笑んだ。

「……わたくしも、ですわ」

か細い、けれど、はっきりとした声だった。

「アレクシス様が、毎日飲みに来てくださらないこのお店など、わたくしには、考えられません。あなたのいない明日も、もう、考えられません」

その答えに、アレクシスの鉄仮面がほんのわずかに、驚きとそして深い喜びの色に緩んだ。

彼はそっと手を伸ばすと、その大きな武骨な親指で、マリアンの頬を伝う涙を優しく拭った。

その、あまりにも不慣れで、ぎこちない、けれどどこまでも温かい感触に、マリアンはそっと目を閉じた。

夕暮れの光が、静かなカフェで、寄り添う二人を、優しく優しく包み込んでいた。
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