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悪徳商人クロムウェルを追い払ってから、数日が過ぎた。
領地はすっかり元の平穏を取り戻し、グレイも彼のことは「つまらない悪役だったわ」と、すでに過去の出来事として片付け、新しいお菓子のレシピ作りに没頭していた。
彼女の勝利は完璧だった。それゆえに、彼女は少しだけ油断していた。
三流悪党の執念深さと、そのプライドがいかに厄介なものであるかを、甘く見ていたのである。
その日、グレイは活気づいてきた町の市場の視察に出かけていた。カインも、いつも通り、数歩下がって彼女を護衛している。
領民たちが「グレイ様!」と親しげに声をかけ、自家製のパンや野菜を差し出してくる。その光景に、グレイも満更ではない様子で応えていた。
その時だった。
「あ、あのう……!」
人混みをかき分けるようにして、一人の少年がグレイの元へ駆け寄ってきた。年は十歳くらいだろうか。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「お、お願いです、グレイ様! お母さんが……! 路地裏で、お母さんが倒れて……!」
「なんですって!?」
グレイは、少年の切羽詰まった様子に、考えるより先に体が動いていた。
「すぐに案内なさい!」
「グレイ様、お待ちください」
カインが、冷静な声で制止した。その瞳には、鋭い警戒の色が浮かんでいる。
「何か、おかしい」
「人が倒れているのよ! おかしくても、放っておけるわけないでしょう!」
グレイは、カインの忠告を振り切ると、少年の後を追って走り出した。
「こっちです!」
少年が指さしたのは、建物と建物の間にある、薄暗く、人気のない路地裏だった。
グレイがそこに足を踏み入れた瞬間、背後で、先導していたはずの少年がさっと身を翻して走り去っていく。
罠だ。
そう気づいた時には、すでに遅かった。
路地の奥から、数人の、柄の悪い男たちが姿を現し、退路を塞ぐ。そして、その背後から、あの忌々しい顔が、下卑た笑みを浮かべてぬっと現れた。
「これはこれは、グレイ様。またお会いしましたな。今度は、あの恐ろしい番犬もご一緒ではないようで」
クロムウェル子爵だった。
「……あなたでしたの。懲りない方ね」
グレイは、内心の動揺を隠し、毅然として胸を張った。
「こんな猿芝居を打って、わたくしを誘い出すとは。悪役としても三流ですわね」
「なんとでも言えばいい。お嬢様、あんたがあの時、わしに恥をかかせてくれたおかげで、多額の投資が無駄になったんでな。その分は、きっちり補填してもらわねば」
男たちが、じり、と間合いを詰めてくる。
「大人しく、言うことを聞いてもらおうか。まずは、この領地の全商品の独占契約書に、サインを……」
クロムウェルが懐から羊皮紙を取り出した、その時。
路地の入り口に、一つの影が、音もなくすっと立った。
「……彼女に、何をしている」
地を這うような、低い声。
そこに立っていたのは、カインだった。その手には、鞘から抜き放たれた剣が、鈍い銀色の光を放っている。
彼の全身から放たれる、凍てつくような怒気の前に、チンピラ風情の男たちは、明らかに気圧されていた。
「な、なんだてめえは!」
虚勢を張って、一人の男がカインに斬りかかる。
だが、次の瞬間、男は悲鳴と共に、手にした剣を取り落として地面に転がっていた。
カインの動きは、あまりにも速く、そして正確無比だった。
彼は、決して命を奪うことはしない。ただ、剣の峰を使い、急所を的確に打ち据えることで、相手の戦闘能力を、一瞬にして奪い去っていく。
まるで、流れる水のように。あるいは、舞い散る吹雪のように。
あっという間に、全ての男たちは地面に無様に転がっていた。
残されたクロムウェルは、腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。
全ての脅威が無力化されたことを確認すると、カインは、倒れた男たちには目もくれず、まっすぐにグレイの元へと歩み寄った。
その氷の瞳には、今までグレイが見たこともないような、激しい感情の炎が揺らめいていた。
「グレイ様……!」
カインは、彼女の目の前でぴたりと足を止めると、その体を確かめるように、震える手を伸ばしかけ――寸前で、握りしめた。
グレイは、まだ胸の動悸が収まらないながらも、努めて平静を装った。
「お見事ね、カイン。まあ、少し到着が遅かったけれど、及第点をあげるわ」
その言葉を聞いた瞬間、カインは、絞り出すような声で言った。
「無茶は、しないでください」
「え……?」
それは、いつもの冷静な彼からは、想像もつかない声だった。怒りと、安堵と、そして、まるで懇願するような響きが、そこにはあった。
「貴女の御身に、もし万が一のことがあれば、俺は……!」
俺は。
普段の、冷静で他人行儀な「わたくし」ではない。彼の、魂からの叫び。
カインは、そこまで言うと、はっとしたように口を噤んだ。
しかし、その瞳に宿る、剥き出しの感情は、何よりも雄弁に、彼の心を物語っていた。
グレイは、ただ、言葉を失って彼を見つめることしかできなかった。
自分に向けられた、こんなにも真っ直ぐで、熱い感情。
それは、彼女が今まで経験したことのないもので、どう受け止めたらいいのか、分からなかった。
ただ、胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように、甘く痛んだ。
静寂の中、二人は、ただ見つめ合う。
その瞬間、二人の間を隔てていた、見えない壁が、また一つ、音を立てて崩れ落ちたのだった。
領地はすっかり元の平穏を取り戻し、グレイも彼のことは「つまらない悪役だったわ」と、すでに過去の出来事として片付け、新しいお菓子のレシピ作りに没頭していた。
彼女の勝利は完璧だった。それゆえに、彼女は少しだけ油断していた。
三流悪党の執念深さと、そのプライドがいかに厄介なものであるかを、甘く見ていたのである。
その日、グレイは活気づいてきた町の市場の視察に出かけていた。カインも、いつも通り、数歩下がって彼女を護衛している。
領民たちが「グレイ様!」と親しげに声をかけ、自家製のパンや野菜を差し出してくる。その光景に、グレイも満更ではない様子で応えていた。
その時だった。
「あ、あのう……!」
人混みをかき分けるようにして、一人の少年がグレイの元へ駆け寄ってきた。年は十歳くらいだろうか。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「お、お願いです、グレイ様! お母さんが……! 路地裏で、お母さんが倒れて……!」
「なんですって!?」
グレイは、少年の切羽詰まった様子に、考えるより先に体が動いていた。
「すぐに案内なさい!」
「グレイ様、お待ちください」
カインが、冷静な声で制止した。その瞳には、鋭い警戒の色が浮かんでいる。
「何か、おかしい」
「人が倒れているのよ! おかしくても、放っておけるわけないでしょう!」
グレイは、カインの忠告を振り切ると、少年の後を追って走り出した。
「こっちです!」
少年が指さしたのは、建物と建物の間にある、薄暗く、人気のない路地裏だった。
グレイがそこに足を踏み入れた瞬間、背後で、先導していたはずの少年がさっと身を翻して走り去っていく。
罠だ。
そう気づいた時には、すでに遅かった。
路地の奥から、数人の、柄の悪い男たちが姿を現し、退路を塞ぐ。そして、その背後から、あの忌々しい顔が、下卑た笑みを浮かべてぬっと現れた。
「これはこれは、グレイ様。またお会いしましたな。今度は、あの恐ろしい番犬もご一緒ではないようで」
クロムウェル子爵だった。
「……あなたでしたの。懲りない方ね」
グレイは、内心の動揺を隠し、毅然として胸を張った。
「こんな猿芝居を打って、わたくしを誘い出すとは。悪役としても三流ですわね」
「なんとでも言えばいい。お嬢様、あんたがあの時、わしに恥をかかせてくれたおかげで、多額の投資が無駄になったんでな。その分は、きっちり補填してもらわねば」
男たちが、じり、と間合いを詰めてくる。
「大人しく、言うことを聞いてもらおうか。まずは、この領地の全商品の独占契約書に、サインを……」
クロムウェルが懐から羊皮紙を取り出した、その時。
路地の入り口に、一つの影が、音もなくすっと立った。
「……彼女に、何をしている」
地を這うような、低い声。
そこに立っていたのは、カインだった。その手には、鞘から抜き放たれた剣が、鈍い銀色の光を放っている。
彼の全身から放たれる、凍てつくような怒気の前に、チンピラ風情の男たちは、明らかに気圧されていた。
「な、なんだてめえは!」
虚勢を張って、一人の男がカインに斬りかかる。
だが、次の瞬間、男は悲鳴と共に、手にした剣を取り落として地面に転がっていた。
カインの動きは、あまりにも速く、そして正確無比だった。
彼は、決して命を奪うことはしない。ただ、剣の峰を使い、急所を的確に打ち据えることで、相手の戦闘能力を、一瞬にして奪い去っていく。
まるで、流れる水のように。あるいは、舞い散る吹雪のように。
あっという間に、全ての男たちは地面に無様に転がっていた。
残されたクロムウェルは、腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。
全ての脅威が無力化されたことを確認すると、カインは、倒れた男たちには目もくれず、まっすぐにグレイの元へと歩み寄った。
その氷の瞳には、今までグレイが見たこともないような、激しい感情の炎が揺らめいていた。
「グレイ様……!」
カインは、彼女の目の前でぴたりと足を止めると、その体を確かめるように、震える手を伸ばしかけ――寸前で、握りしめた。
グレイは、まだ胸の動悸が収まらないながらも、努めて平静を装った。
「お見事ね、カイン。まあ、少し到着が遅かったけれど、及第点をあげるわ」
その言葉を聞いた瞬間、カインは、絞り出すような声で言った。
「無茶は、しないでください」
「え……?」
それは、いつもの冷静な彼からは、想像もつかない声だった。怒りと、安堵と、そして、まるで懇願するような響きが、そこにはあった。
「貴女の御身に、もし万が一のことがあれば、俺は……!」
俺は。
普段の、冷静で他人行儀な「わたくし」ではない。彼の、魂からの叫び。
カインは、そこまで言うと、はっとしたように口を噤んだ。
しかし、その瞳に宿る、剥き出しの感情は、何よりも雄弁に、彼の心を物語っていた。
グレイは、ただ、言葉を失って彼を見つめることしかできなかった。
自分に向けられた、こんなにも真っ直ぐで、熱い感情。
それは、彼女が今まで経験したことのないもので、どう受け止めたらいいのか、分からなかった。
ただ、胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように、甘く痛んだ。
静寂の中、二人は、ただ見つめ合う。
その瞬間、二人の間を隔てていた、見えない壁が、また一つ、音を立てて崩れ落ちたのだった。
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