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クライネルト公爵家の朝は、いつも静かだ。
しかし、その日のアリアの寝室だけは、普段とは明らかに違う空気に満ちていた。
「ああ……! なんて素晴らしい朝なのかしら!」
天蓋付きのベッドから勢いよく起き上がったアリアは、大きく窓を開け放ち、春の柔らかな日差しと空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(聞こえる…! 小鳥たちのさえずりが、わたくしの自由を祝福しているのが聞こえるわ!)
実際には、庭師が手入れする植木の剪定音と遠くで犬が吠える声くらいしか聞こえないのだが、今の彼女にとっては全てが祝福の歌に聞こえるのだ。
いつもなら、この時間にはすでに侍女に叩き起こされ、息つく暇もなく王妃教育の準備に取り掛かっている頃だ。
しかし、今日のアリアには何の予定もない。
「自由……! なんて甘美な響きなのでしょう!」
アリアはベッドの上でごろごろと転がり、手足をばたつかせた。
誰に見せるわけでもない、純粋な喜びの表現だった。
「これからは、好きな時間に起きて、好きなだけ本を読んで、気が向いたらお菓子を焼いて……! 夢のようですわ!」
ひとしきり自由を噛み締めた後、アリアは昨日の騒動の後始末――という名の、卒業に必要な最後の雑務を片付けるため王立アカデミーへと向かうことにした。
もちろん、今のアカデミーはアリアの噂で持ちきりだろう。
婚約を破棄された哀れな公爵令嬢。きっと誰もが同情や好奇の目で見てくるに違いない。
(いいわ、いくらでもご覧なさい! そして語り継ぐがよい! 悲劇の悪役令嬢アリア・フォン・クライネルトの伝説を!)
アリアは、むしろその状況を楽しんですらいた。
アカデミーの廊下を歩けば、案の定、すれ違う生徒たちがひそひそと囁きを交わし遠巻きにこちらを眺めている。
アリアはそんな視線を浴びながらも、背筋をぴんと伸ばし完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。
その時、廊下の向こうから見慣れた二人の姿が現れた。
エリオット王子と、その隣で儚げに寄り添うリリアナ・ローズだ。
(まあ、噂をすれば!)
リリアナは、アリアの姿を認めると一瞬だけ目を見開いた後、すぐに悲しそうな同情的な表情を作った。
いかにも「あなたを心配していました」と言わんばかりの顔だ。
(あらあら、今日も健気にヒロインを演じていらっしゃること)
リリアナは、きっとこう思っているのだろう。
やつれて、憔悴しきったアリアが現れる。そこへ自分が優しく声をかけ心の広さを見せつける、と。
エリオットもどこかバツが悪そうな顔で、アリアから視線を逸らしている。
だがしかし、アリアはそんな彼らの予想を今日も盛大に裏切ることにした。
「まあ、リリアナさん! エリオット様もご一緒ですのね!」
アリアは、ぱあっと顔を輝かせるとドレスの裾を翻し二人の元へ駆け寄った。
そのあまりにも明るい登場に、エリオットとリリアナは完全に意表を突かれ唖然としている。
「昨日はわたくし、父に連れられ途中で退席してしまいご挨拶もできずに大変失礼いたしましたわ!」
アリアはそう言うと、リリアナの両手をがっしりと力強く握りしめた。
「リリアナさん!」
「は、はいっ!?」
あまりの勢いに、リリアナの背筋がぴんと伸びる。
「この度は、本当におめでとうございます! これから王太子妃としての道は大変なことも多いでしょうけれど、あなたならきっと大丈夫! エリオット様のことを、どうぞよろしくお願いいたしますね!」
それは、一点の曇りもない120%の善意と解放感から生まれた心からの祝福の言葉だった。
「え……あ……」
リリアナは、アリアの満面の笑みを前にして、気の利いた言葉一つ出てこない。
自分が用意していた「アリア様、お気の毒に…」というセリフはもはや何の効力も持たなかった。
周囲で遠巻きに見ていた生徒たちも、ざわざわと困惑の声を上げ始める。
「アリア様……昨日のショックで、お心が……」
「なんて痛々しい……」
「いや、しかし、あの表情……一点の曇りもないぞ……?」
エリオットに至っては、罪悪感よりも別の感情が心を支配し始めていた。
(私との婚約がなくなったことが、そんなにも嬉しいのか……? あの晴れやかな笑顔は、一体……)
彼の王子としてのプライドが、ほんの少しチクリと傷ついた。
アリアは、そんな三者三様の困惑には一切気づかない。
「ああ、本当によかった! これでわたくしも肩の荷が下りましたわ! お二人ならきっと素晴らしい国を築いていかれることでしょう!」
「は、はあ……ありがとうございます……」
やっとのことでそう絞り出すのが、リリアナの精一杯だった。
思い描いていたシナリオと、あまりにも違う。
アリア・フォン・クライネルトという存在が、自分の理解を完全に超えていることに、彼女は言い知れぬ苛立ちと、わずかな恐怖さえ感じ始めていた。
「それでは、わたくしはこれで失礼しますわ! どうぞ、末永くお幸せに!」
アリアは高らかにそう言い放つと、まるでスキップでもしそうな軽やかな足取りで鼻歌交じりにその場を去っていった。
残されたのは、凍りついたままの王子とヒロイン、そしてまたしてもアリアの奇行を目撃してしまった学友たち。
昨日の婚約破棄は、悲劇ではなかったのか。
もしかして、一番の被害者はアリアに振り回されている我々なのではないか。
アカデミーには、そんな新たな疑問が静かに広がり始めていた。
しかし、その日のアリアの寝室だけは、普段とは明らかに違う空気に満ちていた。
「ああ……! なんて素晴らしい朝なのかしら!」
天蓋付きのベッドから勢いよく起き上がったアリアは、大きく窓を開け放ち、春の柔らかな日差しと空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(聞こえる…! 小鳥たちのさえずりが、わたくしの自由を祝福しているのが聞こえるわ!)
実際には、庭師が手入れする植木の剪定音と遠くで犬が吠える声くらいしか聞こえないのだが、今の彼女にとっては全てが祝福の歌に聞こえるのだ。
いつもなら、この時間にはすでに侍女に叩き起こされ、息つく暇もなく王妃教育の準備に取り掛かっている頃だ。
しかし、今日のアリアには何の予定もない。
「自由……! なんて甘美な響きなのでしょう!」
アリアはベッドの上でごろごろと転がり、手足をばたつかせた。
誰に見せるわけでもない、純粋な喜びの表現だった。
「これからは、好きな時間に起きて、好きなだけ本を読んで、気が向いたらお菓子を焼いて……! 夢のようですわ!」
ひとしきり自由を噛み締めた後、アリアは昨日の騒動の後始末――という名の、卒業に必要な最後の雑務を片付けるため王立アカデミーへと向かうことにした。
もちろん、今のアカデミーはアリアの噂で持ちきりだろう。
婚約を破棄された哀れな公爵令嬢。きっと誰もが同情や好奇の目で見てくるに違いない。
(いいわ、いくらでもご覧なさい! そして語り継ぐがよい! 悲劇の悪役令嬢アリア・フォン・クライネルトの伝説を!)
アリアは、むしろその状況を楽しんですらいた。
アカデミーの廊下を歩けば、案の定、すれ違う生徒たちがひそひそと囁きを交わし遠巻きにこちらを眺めている。
アリアはそんな視線を浴びながらも、背筋をぴんと伸ばし完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。
その時、廊下の向こうから見慣れた二人の姿が現れた。
エリオット王子と、その隣で儚げに寄り添うリリアナ・ローズだ。
(まあ、噂をすれば!)
リリアナは、アリアの姿を認めると一瞬だけ目を見開いた後、すぐに悲しそうな同情的な表情を作った。
いかにも「あなたを心配していました」と言わんばかりの顔だ。
(あらあら、今日も健気にヒロインを演じていらっしゃること)
リリアナは、きっとこう思っているのだろう。
やつれて、憔悴しきったアリアが現れる。そこへ自分が優しく声をかけ心の広さを見せつける、と。
エリオットもどこかバツが悪そうな顔で、アリアから視線を逸らしている。
だがしかし、アリアはそんな彼らの予想を今日も盛大に裏切ることにした。
「まあ、リリアナさん! エリオット様もご一緒ですのね!」
アリアは、ぱあっと顔を輝かせるとドレスの裾を翻し二人の元へ駆け寄った。
そのあまりにも明るい登場に、エリオットとリリアナは完全に意表を突かれ唖然としている。
「昨日はわたくし、父に連れられ途中で退席してしまいご挨拶もできずに大変失礼いたしましたわ!」
アリアはそう言うと、リリアナの両手をがっしりと力強く握りしめた。
「リリアナさん!」
「は、はいっ!?」
あまりの勢いに、リリアナの背筋がぴんと伸びる。
「この度は、本当におめでとうございます! これから王太子妃としての道は大変なことも多いでしょうけれど、あなたならきっと大丈夫! エリオット様のことを、どうぞよろしくお願いいたしますね!」
それは、一点の曇りもない120%の善意と解放感から生まれた心からの祝福の言葉だった。
「え……あ……」
リリアナは、アリアの満面の笑みを前にして、気の利いた言葉一つ出てこない。
自分が用意していた「アリア様、お気の毒に…」というセリフはもはや何の効力も持たなかった。
周囲で遠巻きに見ていた生徒たちも、ざわざわと困惑の声を上げ始める。
「アリア様……昨日のショックで、お心が……」
「なんて痛々しい……」
「いや、しかし、あの表情……一点の曇りもないぞ……?」
エリオットに至っては、罪悪感よりも別の感情が心を支配し始めていた。
(私との婚約がなくなったことが、そんなにも嬉しいのか……? あの晴れやかな笑顔は、一体……)
彼の王子としてのプライドが、ほんの少しチクリと傷ついた。
アリアは、そんな三者三様の困惑には一切気づかない。
「ああ、本当によかった! これでわたくしも肩の荷が下りましたわ! お二人ならきっと素晴らしい国を築いていかれることでしょう!」
「は、はあ……ありがとうございます……」
やっとのことでそう絞り出すのが、リリアナの精一杯だった。
思い描いていたシナリオと、あまりにも違う。
アリア・フォン・クライネルトという存在が、自分の理解を完全に超えていることに、彼女は言い知れぬ苛立ちと、わずかな恐怖さえ感じ始めていた。
「それでは、わたくしはこれで失礼しますわ! どうぞ、末永くお幸せに!」
アリアは高らかにそう言い放つと、まるでスキップでもしそうな軽やかな足取りで鼻歌交じりにその場を去っていった。
残されたのは、凍りついたままの王子とヒロイン、そしてまたしてもアリアの奇行を目撃してしまった学友たち。
昨日の婚約破棄は、悲劇ではなかったのか。
もしかして、一番の被害者はアリアに振り回されている我々なのではないか。
アカデミーには、そんな新たな疑問が静かに広がり始めていた。
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