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リリアナ・ローズが王都から追放されて数日、街はすっかりと平穏を取り戻していた。
まるで、最初から彼女など存在しなかったかのように、人々の日常は穏やかに過ぎていく。
クライネルト公爵家の応接室で、アリアは、父である公爵から、一連の事件の顛末をようやく聞かされていた。
「――というわけだ。リリアナ嬢は国外追放、ローズ家は爵位剥奪。これで、お前の身を脅かす者は、もうおらん」
父が重々しくそう告げても、アリアの反応は、驚くほど薄かった。
彼女は、紅茶を一口飲むと、ふぅ、と息をついて、こう言った。
「まあ、リリアナ様ったら、そんな大変なことをしでかしていらっしゃったのですね。わたくし、全く気づきませんでしたわ」
その声には、憎しみも、怒りも、恐怖さえも含まれていない。
「国外は、場所によっては寒暖差が激しいと聞きますから。リリアナ様、お体を悪くしなければよろしいのですけれど……」
本気で、追放されたライバルの健康を気遣うその言葉に、父である公爵も、後ろに控えていた侍女も、もはや呆れるしかなかった。
しかし、次の瞬間、アリアの表情が、ぱあっと輝いた。
彼女は、何かとてつもなく素晴らしい事実に、今、気づいたのだ。
「と、いうことはですわよ?」
アリアは、ばっと勢いよく立ち上がった。
「もう、わたくしに未練がましく言い寄ってくる、元婚約者の王子様もいらっしゃらない!」
「うむ」
「わたくしに、陰湿な嫌がらせをしてくる令嬢もいらっしゃらない!」
「まあな」
「わたくしを、ストーカーのようにつけ回す団長様も……いえ、これは、まだいるかもしれませんけれど……」
「……何?」
「つまり、つまりですわよ、お父様!」
アリアは、感極まったように、両手を高々と掲げて叫んだ。
「わたくしの輝かしい自由を邪魔するものが、これで、本当に、何一つなくなったということですわね!」
彼女は「万歳! 自由最高!」と叫びながら、その場でくるくると嬉しそうに踊り始めた。
その姿は、長年の責務から解放された、妖精のようだった。
「ああ、なんて素晴らしい人生なのでしょう! これで心置きなく、一日中、朝から晩まで、お菓子作りと薬草栽培に打ち込めますわ!」
アリアの頭の中は、これから始まるであろう、趣味だけに満ち溢れた、完璧な引きこもりライフへの輝かしい希望で、いっぱいだった。
◇
そんなアリアの喜びが最高潮に達しているちょうどその時、クライネルト公爵家に、一本の来客の報せが入った。
相手は、ゼノン・ヴァーミリオンだった。
彼は、リリアナの一件が無事に解決したことを、アリア本人に直接報告するため、そして、これで二人の関係も、少しは進展するのではないかという、淡い期待を胸にこの屋敷を訪れていた。
己の恋心をはっきりと自覚して以来、彼はこの規格外の令嬢との距離の詰め方をずっと模索していたのだ。
応接室に通されたゼノンが待っていると、やがて、これ以上ないほどに目をキラキラと輝かせたアリアが弾むような足取りで入ってきた。
(……何か、よほど良いことでもあったのだろうか)
その無邪気な笑顔に、ゼノンの口元が無意識に少しだけ緩む。
「団長様! 聞いてくださいまし!」
アリアは、ゼノンが口を開くよりも早く興奮した様子で捲し立てた。
「わたくし、今後の人生における完璧な計画を立てたのですわ!」
「……人生計画?」
「はい! まず、午前中は庭の薬草畑で、新品種の『光る苔』の開発に勤しみますの! 上手くいけば、夜でも本が読めるようになりますわ!」
「ほう」
「そして午後は、厨房で、先日文献で見つけた古代の焼き菓子の再現に挑戦いたします! 蜂蜜と木の実をふんだんに使った、それはもう滋養に良いお菓子ですのよ!」
「……それは、少し興味があるな」
「夜は、書斎にこもって、まだ解読されていない古代語の薬草文献と格闘いたしますわ! そして週末は、護衛の方とご一緒に、王都の市場へ繰り出し、新しい食材とスパイスの発見に努めるのです!」
アリアは、どこまでも楽しそうに、自分の完璧な『趣味だけライフ』を語り続けた。
その輝かしい計画の中に、恋愛も結婚も貴族としての社交も一切入り込む隙間がないことに、彼女自身は全く気づいていない。
そんなアリアの言葉を聞いているうちに、ゼノンの顔からすうっと表情が消えていった。
そして、彼はようやく残酷な事実に気づいた。
この令嬢は、自分との関係の進展などこれっぽっちも望んでいない。
彼女の幸せは、彼女自身の趣味の世界の中で、完全に、美しく、完結してしまっている。
自分が恋人として、あるいは夫として、その世界に入り込む隙間が文字通り一ミリもない。
(…………まずい)
鉄壁の騎士団長が、これまでどんな強敵を前にしても感じたことのない、明確な、そして強烈な『焦り』という感情に初めて襲われた瞬間だった。
そんなゼノンの内心の激震など露知らず、アリアは最高の笑顔を彼に向けた。
「……というわけですの、団長様! これからも、わたくしの作る新作お菓子とポーションの、世界で一番優秀なテイスターとして、末永くよろしくお付き合いくださいましね!」
その言葉は、ゼノンを「生涯の友人(兼、便利なモルモット)」として、完全に位置づけるものだった。
(このままでは、本当に、ただの『餌付けされる犬』で、終わってしまう……!)
自分の恋が、始まる前に、フレンドゾーンという名の犬小屋に閉じ込められかねない。
その、絶望的な危機感。
ゼノンは、固く拳を握りしめた。
鉄壁の騎士団長が、人生で初めて本気で動くことを決意した。
まるで、最初から彼女など存在しなかったかのように、人々の日常は穏やかに過ぎていく。
クライネルト公爵家の応接室で、アリアは、父である公爵から、一連の事件の顛末をようやく聞かされていた。
「――というわけだ。リリアナ嬢は国外追放、ローズ家は爵位剥奪。これで、お前の身を脅かす者は、もうおらん」
父が重々しくそう告げても、アリアの反応は、驚くほど薄かった。
彼女は、紅茶を一口飲むと、ふぅ、と息をついて、こう言った。
「まあ、リリアナ様ったら、そんな大変なことをしでかしていらっしゃったのですね。わたくし、全く気づきませんでしたわ」
その声には、憎しみも、怒りも、恐怖さえも含まれていない。
「国外は、場所によっては寒暖差が激しいと聞きますから。リリアナ様、お体を悪くしなければよろしいのですけれど……」
本気で、追放されたライバルの健康を気遣うその言葉に、父である公爵も、後ろに控えていた侍女も、もはや呆れるしかなかった。
しかし、次の瞬間、アリアの表情が、ぱあっと輝いた。
彼女は、何かとてつもなく素晴らしい事実に、今、気づいたのだ。
「と、いうことはですわよ?」
アリアは、ばっと勢いよく立ち上がった。
「もう、わたくしに未練がましく言い寄ってくる、元婚約者の王子様もいらっしゃらない!」
「うむ」
「わたくしに、陰湿な嫌がらせをしてくる令嬢もいらっしゃらない!」
「まあな」
「わたくしを、ストーカーのようにつけ回す団長様も……いえ、これは、まだいるかもしれませんけれど……」
「……何?」
「つまり、つまりですわよ、お父様!」
アリアは、感極まったように、両手を高々と掲げて叫んだ。
「わたくしの輝かしい自由を邪魔するものが、これで、本当に、何一つなくなったということですわね!」
彼女は「万歳! 自由最高!」と叫びながら、その場でくるくると嬉しそうに踊り始めた。
その姿は、長年の責務から解放された、妖精のようだった。
「ああ、なんて素晴らしい人生なのでしょう! これで心置きなく、一日中、朝から晩まで、お菓子作りと薬草栽培に打ち込めますわ!」
アリアの頭の中は、これから始まるであろう、趣味だけに満ち溢れた、完璧な引きこもりライフへの輝かしい希望で、いっぱいだった。
◇
そんなアリアの喜びが最高潮に達しているちょうどその時、クライネルト公爵家に、一本の来客の報せが入った。
相手は、ゼノン・ヴァーミリオンだった。
彼は、リリアナの一件が無事に解決したことを、アリア本人に直接報告するため、そして、これで二人の関係も、少しは進展するのではないかという、淡い期待を胸にこの屋敷を訪れていた。
己の恋心をはっきりと自覚して以来、彼はこの規格外の令嬢との距離の詰め方をずっと模索していたのだ。
応接室に通されたゼノンが待っていると、やがて、これ以上ないほどに目をキラキラと輝かせたアリアが弾むような足取りで入ってきた。
(……何か、よほど良いことでもあったのだろうか)
その無邪気な笑顔に、ゼノンの口元が無意識に少しだけ緩む。
「団長様! 聞いてくださいまし!」
アリアは、ゼノンが口を開くよりも早く興奮した様子で捲し立てた。
「わたくし、今後の人生における完璧な計画を立てたのですわ!」
「……人生計画?」
「はい! まず、午前中は庭の薬草畑で、新品種の『光る苔』の開発に勤しみますの! 上手くいけば、夜でも本が読めるようになりますわ!」
「ほう」
「そして午後は、厨房で、先日文献で見つけた古代の焼き菓子の再現に挑戦いたします! 蜂蜜と木の実をふんだんに使った、それはもう滋養に良いお菓子ですのよ!」
「……それは、少し興味があるな」
「夜は、書斎にこもって、まだ解読されていない古代語の薬草文献と格闘いたしますわ! そして週末は、護衛の方とご一緒に、王都の市場へ繰り出し、新しい食材とスパイスの発見に努めるのです!」
アリアは、どこまでも楽しそうに、自分の完璧な『趣味だけライフ』を語り続けた。
その輝かしい計画の中に、恋愛も結婚も貴族としての社交も一切入り込む隙間がないことに、彼女自身は全く気づいていない。
そんなアリアの言葉を聞いているうちに、ゼノンの顔からすうっと表情が消えていった。
そして、彼はようやく残酷な事実に気づいた。
この令嬢は、自分との関係の進展などこれっぽっちも望んでいない。
彼女の幸せは、彼女自身の趣味の世界の中で、完全に、美しく、完結してしまっている。
自分が恋人として、あるいは夫として、その世界に入り込む隙間が文字通り一ミリもない。
(…………まずい)
鉄壁の騎士団長が、これまでどんな強敵を前にしても感じたことのない、明確な、そして強烈な『焦り』という感情に初めて襲われた瞬間だった。
そんなゼノンの内心の激震など露知らず、アリアは最高の笑顔を彼に向けた。
「……というわけですの、団長様! これからも、わたくしの作る新作お菓子とポーションの、世界で一番優秀なテイスターとして、末永くよろしくお付き合いくださいましね!」
その言葉は、ゼノンを「生涯の友人(兼、便利なモルモット)」として、完全に位置づけるものだった。
(このままでは、本当に、ただの『餌付けされる犬』で、終わってしまう……!)
自分の恋が、始まる前に、フレンドゾーンという名の犬小屋に閉じ込められかねない。
その、絶望的な危機感。
ゼノンは、固く拳を握りしめた。
鉄壁の騎士団長が、人生で初めて本気で動くことを決意した。
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