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一夜明け、私は久しぶりに味わう爽快な気分で目を覚ました。もはや王妃教育のために早起きする必要も、作り笑いを練習する必要もないのだ。
「おはよう、セバスチャン。今日の予定は?」
「おはようございます、お嬢様。本日は予定通り、城下の物件をいくつかご覧いただきます。こちらにお忍び用の衣装をご用意いたしました」
セバスチャンが差し出したのは、華美な装飾の一切ない、簡素なワンピースとフード付きのマントだった。公爵令嬢アルカ・フォン・クラインの姿では、街を歩くだけで騒ぎになってしまう。
「まあ、ずいぶん可愛らしい服ね」
「街のパン屋の看板娘、といったところでしょうか。お嬢様がお召しになれば、たちまち行列ができることでしょう」
「お世辞を言っても何も出ないわよ。……よし、と」
手早く着替えを済ませ、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、艶やかな金髪を三つ編みにした、ごく普通の街の娘だ。これなら誰も私だと気づかないだろう。
「では、行ってまいりますわ」
「お気をつけて。何かあれば、すぐにこの魔導具でお知らせください」
セバスチャンに見送られ、私は通用口からこっそりと屋敷を出た。
城下町は、朝の活気に満ち溢れていた。焼きたてのパンの香ばしい匂い、威勢のいい商人たちの声、子供たちのはしゃぐ声。すべてが新鮮で、私の心を躍らせる。
(ああ、なんて自由なのかしら!)
これまでずっと、馬車の窓から眺めるだけだった世界。自分の足で立ち、自分の意思で歩けることが、こんなにも素晴らしいなんて。
私は不動産屋から受け取った地図を片手に、いくつかの候補物件を見て回った。大通りに面した明るい店舗、蔦の絡まる趣のある建物、広々とした庭のある物件。どれも素敵だったけれど、私の理想とする「静かで、本の世界に没頭できる空間」というイメージとは、どこか少し違っていた。
(もう少し、静かな場所がいいわね……)
夢中になって歩き回るうち、私は地図にも載っていないような、細い路地裏へと迷い込んでしまった。石畳はところどころひび割れ、壁には蔦が伸び放題になっている。
(あら、ここはどこかしら……)
引き返そうとした、その時だった。
「よう、嬢ちゃん。一人でこんなところで何してんだ?」
建物の影から、下卑た笑いを浮かべた男たちが三人、ぬっと現れた。その目つきと服装から、まともな人間でないことは一目瞭然だった。
「……ごきげんよう。道に迷ってしまったようですの。失礼いたしますわ」
私は冷静にそう告げ、彼らの横を通り抜けようとする。だが、一人の男が私の行く手を阻んだ。
「まあまあ、そう急ぐなって。俺たちと少しお茶でもどうだい?」
「結構ですわ。わたくし、急いでおりますので」
きっぱりと断るが、男たちは面白そうににやにやと笑うばかりで、道を空けようとしない。
(……仕方ないわね)
私は内心でため息をつく。悪役令嬢を完璧に演じきるためには、護身術くらい嗜んでおかなければならない。私はスカートの下に隠し持っていた護身用の短杖を、そっと握りしめた。
「しつこい方は、嫌いですわよ」
私がそう言って、戦闘態勢に入ろうとした、まさにその瞬間。
どこからともなく現れた黒い影が、男たちと私の間に滑り込んだ。
「な、なんだてめえ!」
チンピラの一人が凄むが、黒い影――長身の男は、何も言わずにチンピラの腕を掴むと、いとも簡単に捻り上げた。ぎゃっ、という短い悲鳴が上がる。残りの二人も、一瞬のうちに地面に伸されていた。目にも留まらぬ速業だった。
あっという間の出来事に、私は短杖を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。
黒髪に、黒い瞳。鍛え上げられた体躯を、黒基調の旅装束に包んだその男は、氷のように冷たい雰囲気をまとっていた。
「……大丈夫か」
低く、感情の読めない声で、男が私に問いかけた。
「え、ええ……ありがとうございます。助かりましたわ」
私が慌ててお礼を言うと、男は私を上から下まで値踏みするように一瞥し、深くため息をついた。
「……軽率だ。一人でこんな場所に来るべきではない」
「は?」
予想外の言葉に、私は思わず眉をひそめる。助けてもらった恩義は感じるが、なぜ初対面の相手に説教されなければならないのか。
「ご忠告どうも。ですが、あなたに指図される謂れはございませんわ」
つい、いつもの公爵令嬢としての口調が出てしまう。男は少しだけ眉を動かした。
「……口だけは達者なようだな。その様子では、危機感というものを持ち合わせていないらしい」
「なんですって? 失礼ですわね! 私だって、自分の身くらい……」
「自分で守れる者が、こんな路地裏で絡まれたりしない」
ぐうの音も出ない正論だった。しかし、だからといって、この無愛想で高圧的な物言いを、素直に聞き入れることなどできなかった。
「助けていただいたことには、心から感謝いたします。ですが、そのものの言い方は、あまりに無礼ではありませんこと?」
「事実を言ったまでだ。礼は不要だ。それより、早く立ち去れ」
男はそれだけ言うと、私に背を向け、さっさと歩き去ろうとする。
「ちょっと、お待ちになって! あなたのお名前も伺っておりませんのに!」
呼び止める私の声など、まるで聞こえていないかのように、彼は一度も振り返ることなく、路地の角へと消えていった。
「……なんなのよ、あの人っ!」
一人残された私は、その場に立ち尽くし、憤慨に拳を握りしめた。
無愛想で、堅物で、高慢ちきで、人の親切心を無にする天才!
(史上最悪の出会いだわ……!)
せっかくの素晴らしい一日の始まりが、すっかり台無しにされてしまった。私は腹いせに、地面の小石を力いっぱい蹴り飛ばした。
「おはよう、セバスチャン。今日の予定は?」
「おはようございます、お嬢様。本日は予定通り、城下の物件をいくつかご覧いただきます。こちらにお忍び用の衣装をご用意いたしました」
セバスチャンが差し出したのは、華美な装飾の一切ない、簡素なワンピースとフード付きのマントだった。公爵令嬢アルカ・フォン・クラインの姿では、街を歩くだけで騒ぎになってしまう。
「まあ、ずいぶん可愛らしい服ね」
「街のパン屋の看板娘、といったところでしょうか。お嬢様がお召しになれば、たちまち行列ができることでしょう」
「お世辞を言っても何も出ないわよ。……よし、と」
手早く着替えを済ませ、鏡の前に立つ。そこに映っているのは、艶やかな金髪を三つ編みにした、ごく普通の街の娘だ。これなら誰も私だと気づかないだろう。
「では、行ってまいりますわ」
「お気をつけて。何かあれば、すぐにこの魔導具でお知らせください」
セバスチャンに見送られ、私は通用口からこっそりと屋敷を出た。
城下町は、朝の活気に満ち溢れていた。焼きたてのパンの香ばしい匂い、威勢のいい商人たちの声、子供たちのはしゃぐ声。すべてが新鮮で、私の心を躍らせる。
(ああ、なんて自由なのかしら!)
これまでずっと、馬車の窓から眺めるだけだった世界。自分の足で立ち、自分の意思で歩けることが、こんなにも素晴らしいなんて。
私は不動産屋から受け取った地図を片手に、いくつかの候補物件を見て回った。大通りに面した明るい店舗、蔦の絡まる趣のある建物、広々とした庭のある物件。どれも素敵だったけれど、私の理想とする「静かで、本の世界に没頭できる空間」というイメージとは、どこか少し違っていた。
(もう少し、静かな場所がいいわね……)
夢中になって歩き回るうち、私は地図にも載っていないような、細い路地裏へと迷い込んでしまった。石畳はところどころひび割れ、壁には蔦が伸び放題になっている。
(あら、ここはどこかしら……)
引き返そうとした、その時だった。
「よう、嬢ちゃん。一人でこんなところで何してんだ?」
建物の影から、下卑た笑いを浮かべた男たちが三人、ぬっと現れた。その目つきと服装から、まともな人間でないことは一目瞭然だった。
「……ごきげんよう。道に迷ってしまったようですの。失礼いたしますわ」
私は冷静にそう告げ、彼らの横を通り抜けようとする。だが、一人の男が私の行く手を阻んだ。
「まあまあ、そう急ぐなって。俺たちと少しお茶でもどうだい?」
「結構ですわ。わたくし、急いでおりますので」
きっぱりと断るが、男たちは面白そうににやにやと笑うばかりで、道を空けようとしない。
(……仕方ないわね)
私は内心でため息をつく。悪役令嬢を完璧に演じきるためには、護身術くらい嗜んでおかなければならない。私はスカートの下に隠し持っていた護身用の短杖を、そっと握りしめた。
「しつこい方は、嫌いですわよ」
私がそう言って、戦闘態勢に入ろうとした、まさにその瞬間。
どこからともなく現れた黒い影が、男たちと私の間に滑り込んだ。
「な、なんだてめえ!」
チンピラの一人が凄むが、黒い影――長身の男は、何も言わずにチンピラの腕を掴むと、いとも簡単に捻り上げた。ぎゃっ、という短い悲鳴が上がる。残りの二人も、一瞬のうちに地面に伸されていた。目にも留まらぬ速業だった。
あっという間の出来事に、私は短杖を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。
黒髪に、黒い瞳。鍛え上げられた体躯を、黒基調の旅装束に包んだその男は、氷のように冷たい雰囲気をまとっていた。
「……大丈夫か」
低く、感情の読めない声で、男が私に問いかけた。
「え、ええ……ありがとうございます。助かりましたわ」
私が慌ててお礼を言うと、男は私を上から下まで値踏みするように一瞥し、深くため息をついた。
「……軽率だ。一人でこんな場所に来るべきではない」
「は?」
予想外の言葉に、私は思わず眉をひそめる。助けてもらった恩義は感じるが、なぜ初対面の相手に説教されなければならないのか。
「ご忠告どうも。ですが、あなたに指図される謂れはございませんわ」
つい、いつもの公爵令嬢としての口調が出てしまう。男は少しだけ眉を動かした。
「……口だけは達者なようだな。その様子では、危機感というものを持ち合わせていないらしい」
「なんですって? 失礼ですわね! 私だって、自分の身くらい……」
「自分で守れる者が、こんな路地裏で絡まれたりしない」
ぐうの音も出ない正論だった。しかし、だからといって、この無愛想で高圧的な物言いを、素直に聞き入れることなどできなかった。
「助けていただいたことには、心から感謝いたします。ですが、そのものの言い方は、あまりに無礼ではありませんこと?」
「事実を言ったまでだ。礼は不要だ。それより、早く立ち去れ」
男はそれだけ言うと、私に背を向け、さっさと歩き去ろうとする。
「ちょっと、お待ちになって! あなたのお名前も伺っておりませんのに!」
呼び止める私の声など、まるで聞こえていないかのように、彼は一度も振り返ることなく、路地の角へと消えていった。
「……なんなのよ、あの人っ!」
一人残された私は、その場に立ち尽くし、憤慨に拳を握りしめた。
無愛想で、堅物で、高慢ちきで、人の親切心を無にする天才!
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