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王太子の執務室は、静寂に包まれていた。私、エドワード・フォン・エルクハルトは、山と積まれた書類の処理に追われていた。アルカとの婚約を破棄し、愛するリリアを未来の妃として隣に置いてから、数週間が経つ。
最初は、何もかもが輝いて見えた。リリアの屈託のない笑顔は、凝り固まった私の心を癒してくれた。彼女と共に歩む未来こそが、この国の、そして私自身の幸せだと信じて疑わなかった。
しかし、最近の私は、どうだ。
ペンを走らせる手を止め、ため息と共に書類の隅に目をやる。そこには、小さな花の可愛らしい落書きがあった。リリアが、私が仕事をしている間にこっそり描いたものだ。以前の私なら、彼女の無邪気さに頬を緩ませていただろう。だが、今の私は、その落書きにさえ、言いようのない疲労を感じていた。
この書類は、隣国との重要な通商協定に関する最終草案なのだ。そんなものに落書きをするなど、王太子妃となる者として、あってはならないことではないか。
先日の晩餐会での出来事が、脳裏をよぎる。東方から来た厳格な特使に対し、リリアは彼の立派な顎髭を見て、にこやかにこう言ったのだ。
「まあ、お髭がもじゃもじゃで、まるで森のクマさんみたいですわ!」
場が、一瞬で凍りついた。私が慌てて取り繕ったものの、特使の機嫌を損ねたのは明らかだった。
(……アルカなら、どうしただろうか)
ふと、そんな考えが頭をよぎり、私はかぶりを振った。あの嫉妬深く、傲慢な女のことを、なぜ今思い出す必要がある? だが、脳裏に浮かぶのは、どんな国の要人を前にしても、完璧な外交辞令と知性的な会話で、相手を魅了していたかつての婚約者の姿だった。彼女がいれば、晩餐会はもっと和やかに、そして有意義に進んだに違いない。
「……いかん、いかん」
私は自分の思考を打ち消すように、席を立った。そうだ、気分転換が必要だ。リリアの笑顔を見れば、こんな憂鬱な気分も吹き飛ぶだろう。
「リリア、いるかい?」
「はーい、殿下!」
隣室で刺繍をしていたリリアは、私の呼びかけに、小鳥のように駆け寄ってきた。
「城下町へ、お忍びで出かけないか? 美味しいものでも食べに行こう」
「本当ですの!? わーい! 殿下、大好きです!」
私の胸に飛び込んでくるリリアを抱きしめると、ようやく心が少し安らぐのを感じた。
簡素な服に着替え、私たちは護衛を遠巻きに配置させて、城下町を歩いた。リリアは、見るものすべてが珍しいのか、目をきらきらと輝かせている。
「殿下、あれは何ですの?」「まあ、綺麗な飴細工!」「あちらの布、ドレスにしたら素敵ですわ!」
彼女の無邪気さにつられて、私の口元にも自然と笑みが浮かぶ。だが、その笑顔も、彼女が豪奢な宝石店を指差して、「殿下、わたくし、あのお首飾りが欲しいですわ」とねだった時には、少し引きつってしまった。お忍びで来ているのだ、そんな高価なものを買えるわけがないだろう。
休憩できるカフェでも探そうかと辺りを見回していると、若い女性たちの弾んだ会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、聞いた? 『魔導書のしおり』の新しいクッキーが出たんですって!」
「もちろん! 今度は『集中力が高まる』っていう文字らしいわよ! これで試験勉強もばっちりね!」
「あそこの店主さん、本当にすごいわよね。優しくて、綺麗で、それに魔法の知識が半端じゃないんだもの!」
『魔導書のしおり』? 聞き慣れない店名だ。
すると、私の隣で、リリアがその会話に目を輝かせていた。
「殿下! 今の、聞きました? 魔法のクッキーですって! わたくし、行ってみたいですわ!」
「……ただの流行りだろう。それに、我々は身分を隠しているのだから、あまり目立つ行動は……」
「まあ、少しくらいよろしいではありませんか! ね、殿下、お願いですわ!」
うるうるとした瞳で見上げられ、私は弱い。結局、リリアに押し切られる形で、近くを歩いていた少女に、その店の場所を尋ねることになった。
「ええと、『魔導書のしおり』ですか? それなら、あの角を曲がって、貴族街へ向かう静かな路地にありますよ。レンガ造りの、蔦が絡まった素敵な建物です!」
少女は親切に教えてくれた。だが、その場所を聞いて、私の胸は妙にざわついた。貴族街に近い、静かな路地……。その辺りには確か、かつてアルカが読書用の離れとして使っていた、クライン公爵家の小さな別邸があったはずだ。
「さあ、殿下、参りましょう!」
リリアが私の腕を引く。しかし、私の足は、なぜか鉛のように重かった。
「……リリア、今日はもう遅い。それに、少し疲れただろう。またの機会にしよう」
「えー、そんなあ……」
不満そうに頬を膨らませるリリアを無理やり説得し、私はその場を足早に離れた。
王宮へと戻る馬車の中、リリアは拗ねてしまったのか、窓の外を眺めて黙り込んでいる。その横顔を見ながら、私の頭の中は混乱していた。
なぜ、あの店の場所を聞いただけで、アルカの顔が浮かんだ? なぜ、胸がこんなに騒ぐのだ?
婚約破棄は、正義のためだった。リリアとの未来こそが、私が選んだ真実のはずだ。
なのに、この言いようのない不安はなんだ。
私の脳裏に、あの断罪の夜、最後に私に向けられたアルカの瞳が蘇る。そこにあったのは、悲しみではなく、むしろ挑戦的で、何かを確信したような強い光だった。
自分が選んだはずの未来に、今、初めて一筋の影が差したのを私は感じていた。
最初は、何もかもが輝いて見えた。リリアの屈託のない笑顔は、凝り固まった私の心を癒してくれた。彼女と共に歩む未来こそが、この国の、そして私自身の幸せだと信じて疑わなかった。
しかし、最近の私は、どうだ。
ペンを走らせる手を止め、ため息と共に書類の隅に目をやる。そこには、小さな花の可愛らしい落書きがあった。リリアが、私が仕事をしている間にこっそり描いたものだ。以前の私なら、彼女の無邪気さに頬を緩ませていただろう。だが、今の私は、その落書きにさえ、言いようのない疲労を感じていた。
この書類は、隣国との重要な通商協定に関する最終草案なのだ。そんなものに落書きをするなど、王太子妃となる者として、あってはならないことではないか。
先日の晩餐会での出来事が、脳裏をよぎる。東方から来た厳格な特使に対し、リリアは彼の立派な顎髭を見て、にこやかにこう言ったのだ。
「まあ、お髭がもじゃもじゃで、まるで森のクマさんみたいですわ!」
場が、一瞬で凍りついた。私が慌てて取り繕ったものの、特使の機嫌を損ねたのは明らかだった。
(……アルカなら、どうしただろうか)
ふと、そんな考えが頭をよぎり、私はかぶりを振った。あの嫉妬深く、傲慢な女のことを、なぜ今思い出す必要がある? だが、脳裏に浮かぶのは、どんな国の要人を前にしても、完璧な外交辞令と知性的な会話で、相手を魅了していたかつての婚約者の姿だった。彼女がいれば、晩餐会はもっと和やかに、そして有意義に進んだに違いない。
「……いかん、いかん」
私は自分の思考を打ち消すように、席を立った。そうだ、気分転換が必要だ。リリアの笑顔を見れば、こんな憂鬱な気分も吹き飛ぶだろう。
「リリア、いるかい?」
「はーい、殿下!」
隣室で刺繍をしていたリリアは、私の呼びかけに、小鳥のように駆け寄ってきた。
「城下町へ、お忍びで出かけないか? 美味しいものでも食べに行こう」
「本当ですの!? わーい! 殿下、大好きです!」
私の胸に飛び込んでくるリリアを抱きしめると、ようやく心が少し安らぐのを感じた。
簡素な服に着替え、私たちは護衛を遠巻きに配置させて、城下町を歩いた。リリアは、見るものすべてが珍しいのか、目をきらきらと輝かせている。
「殿下、あれは何ですの?」「まあ、綺麗な飴細工!」「あちらの布、ドレスにしたら素敵ですわ!」
彼女の無邪気さにつられて、私の口元にも自然と笑みが浮かぶ。だが、その笑顔も、彼女が豪奢な宝石店を指差して、「殿下、わたくし、あのお首飾りが欲しいですわ」とねだった時には、少し引きつってしまった。お忍びで来ているのだ、そんな高価なものを買えるわけがないだろう。
休憩できるカフェでも探そうかと辺りを見回していると、若い女性たちの弾んだ会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、聞いた? 『魔導書のしおり』の新しいクッキーが出たんですって!」
「もちろん! 今度は『集中力が高まる』っていう文字らしいわよ! これで試験勉強もばっちりね!」
「あそこの店主さん、本当にすごいわよね。優しくて、綺麗で、それに魔法の知識が半端じゃないんだもの!」
『魔導書のしおり』? 聞き慣れない店名だ。
すると、私の隣で、リリアがその会話に目を輝かせていた。
「殿下! 今の、聞きました? 魔法のクッキーですって! わたくし、行ってみたいですわ!」
「……ただの流行りだろう。それに、我々は身分を隠しているのだから、あまり目立つ行動は……」
「まあ、少しくらいよろしいではありませんか! ね、殿下、お願いですわ!」
うるうるとした瞳で見上げられ、私は弱い。結局、リリアに押し切られる形で、近くを歩いていた少女に、その店の場所を尋ねることになった。
「ええと、『魔導書のしおり』ですか? それなら、あの角を曲がって、貴族街へ向かう静かな路地にありますよ。レンガ造りの、蔦が絡まった素敵な建物です!」
少女は親切に教えてくれた。だが、その場所を聞いて、私の胸は妙にざわついた。貴族街に近い、静かな路地……。その辺りには確か、かつてアルカが読書用の離れとして使っていた、クライン公爵家の小さな別邸があったはずだ。
「さあ、殿下、参りましょう!」
リリアが私の腕を引く。しかし、私の足は、なぜか鉛のように重かった。
「……リリア、今日はもう遅い。それに、少し疲れただろう。またの機会にしよう」
「えー、そんなあ……」
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王宮へと戻る馬車の中、リリアは拗ねてしまったのか、窓の外を眺めて黙り込んでいる。その横顔を見ながら、私の頭の中は混乱していた。
なぜ、あの店の場所を聞いただけで、アルカの顔が浮かんだ? なぜ、胸がこんなに騒ぐのだ?
婚約破棄は、正義のためだった。リリアとの未来こそが、私が選んだ真実のはずだ。
なのに、この言いようのない不安はなんだ。
私の脳裏に、あの断罪の夜、最後に私に向けられたアルカの瞳が蘇る。そこにあったのは、悲しみではなく、むしろ挑戦的で、何かを確信したような強い光だった。
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