悪役令嬢の婚約破棄は先回り。断罪の時間も惜しいですわ。

夏乃みのり

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「……はぁ。やっと、王都の物流経路が最短距離(ダイレクト)で結ばれたわ」

深夜、静まり返った執務室。レーンはペンを置き、椅子の背もたれに深く体を預けた。

「お疲れ様、レーン。これ、淹れたてのハーブティーだ。
君の計算によれば、今の時間は最も集中力が切れるタイミングだろう?」

アリスティードが、音を立てないように静かにカップを置いた。

「……予定より五秒早いわ。でも、温度は完璧ね。
報酬として、あなたの今日の公務完了報告書、三秒で目を通してあげるわ」

レーンはカップを手に取り、ふぅ、と小さく息を吐いた。
窓の外には、彼女が整備した「無駄のない街灯」が規則正しく並び、王都を照らしている。

「……レーン。君は、今のこの景色をどう思う?」

「どうって……。
物流の遅延が解消され、治安維持のコストが二割削減された、極めて合理的な夜景だわ」

「そうじゃない。……綺麗だとは、思わないか?」

レーンは少しだけ動きを止め、それから再び茶を啜った。

「……『綺麗』という主観的な評価は、統計データには含まれないわ。
けれど……そうね。
計算通りに歯車が噛み合い、不要な摩擦が消えた世界というのは、見ていて不快ではないわね。
……誤差の範囲内で、充足感というものを感じなくもないわ」

「はは、君らしいな」

アリスティードは優しく微笑むと、机の横に立ち、じっと彼女を見つめた。

「何かしら。私の顔に、何か非効率な汚れでもついている?」

「いや。……契約書の第十五条を、覚えているか?」

レーンの体が、一瞬だけ硬直した。

「……『公務終了後、一日に一度、精神衛生上のメンテナンスを行う』。
それのことかしら」

「あぁ。三秒間でいい。……いいかな?」

レーンは視線を泳がせ、それから小さく、本当に小さく頷いた。
「……効率的な運用のためなら、拒否する理由はないわ」

アリスティードはゆっくりと手を伸ばし、彼女の頭にそっと触れた。
指先で、丁寧に、大切そうに、その髪を撫でる。

一秒。
二秒。
三秒。

「……終了よ。時間厳守、完璧ね」

レーンはパッと顔を上げ、即座に椅子を引いて距離を取った。
しかし、その頬は、彼女が「非効率な熱エネルギーの浪費」と呼ぶであろう朱色に染まっていた。

「……レーン? 顔が赤いぞ。体温が上昇しているんじゃないか?」

「……う、うるさいわね! 
これは、茶の温度による熱伝導の影響よ! 
あと、心拍数が十パーセントほど跳ね上がったけれど、これは脳の演算処理が一時的にオーバーヒートしただけだわ!
あなたのメンテナンスの仕方が、予想外に……その、不慣れだったせいよ!」

「不慣れだったかな。……でも、私の心拍数も、今、君と同じくらい速いんだ」

アリスティードが真っ直ぐに彼女を見つめると、レーンはついに書類の束に顔を埋めた。

「……バカね。二人で同時に動悸を起こすなんて、エネルギーの二重損失だわ。
……でも。……悪く、ないわね」

最後の一言は、紙の擦れる音に消えそうなほど小さかった。

「……聞こえていましたわよ! レーン様!」

突然、扉が爆速で開き、シャロンがメモ帳を片手に乱入してきた。

「今! 殿下の手によって、レーン様の論理回路が一時的にショートいたしましたわ!
あぁ、なんて効率的な『デレ』……! 
私、今の反応を分単位で記録して、家宝にいたしますわ!」

「シャロン!? いつからそこにいたの!」

「扉の隙間から、二酸化炭素の排出量を抑えて潜んでおりましたわ!
レーン様、もう一度! もう三秒だけ、殿下に撫でられてください! 
その時の瞳の収縮率を計測したいんですの!」

「却下よ! 業務外の観測は許可していないわ!」

レーンは慌てて立ち上がり、バタバタと書類を整理し始めた。

「殿下、今日のメンテナンスはこれで終了! 
シャロン、あなたも寝なさい! 睡眠不足は明日の入力速度に響くわよ!
さあ、解散! 全員、爆速で自室へ戻るのよ!」

追い出されるように廊下へ出されたアリスティードとシャロン。
バタン、と勢いよく閉まった扉の向こうで、レーンが自分の頬を両手で押さえているのを、彼らは想像して笑い合った。

「……殿下。お嬢様、あんなに顔を赤くして。
本当は、もっと撫でてほしかったんじゃないですかねぇ」

後ろから現れたアンが、呆れたように、しかし温かく微笑む。

「……そうだったら、嬉しいけどな。
明日は……四秒、挑戦してみようか」

「五秒は死守してくださいませ! それが私の限界観測値ですわ!」

執務室の中。
レーンは熱を持った頬を冷ますように、冷たい窓ガラスに額を押し当てていた。

「……アリスティード。……無駄なことを。
……本当に、計算が狂うじゃないの……」

独り言を呟く彼女の口元には、かつての「氷の令嬢」には見られなかった、
柔らかで、ほんのりと幸せそうな弧が描かれていた。

王国は今、最も効率的で、そして少しだけ「熱い」夜を迎えていた。
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