6 / 28
6
しおりを挟む
「……なんだ、これは。新手の拷問か?」
レオン王子は、目の前にそびえ立つ「紙の塔」を見上げて呆然と呟いた。
そこは、王宮の一角にある静かな図書室。普段なら優雅に読書を楽しむ場所だが、今の机の上には殺風景な書類の束が、それこそ王子の身長に届かんばかりに積み上がっている。
「拷問だなんて人聞きの悪い。これは『愛の計算ドリル』ですわ。あ、タイトルは今私が決めました」
リコは、特注の細長い指示棒で、一番上の書類をコンコンと叩いた。
「レオン様。あなたが昨日、泥にまみれて稼いだ銅貨二十二枚。それが国全体で動くとき、どのような数字に化けるか……想像したことはありますの?」
「想像……? いや、それは会計官の仕事だろう。私はただ、その結果を聞いて頷くだけで……」
「だからおバカなんですわ。頷く先が『崖っぷち』だったらどうするおつもり?」
リコは、ドサリと一冊の分厚い台帳を広げた。
「これは、あなたが将来治めるはずの、北部領土の直近三年の収支報告書です。一言で言えば、真っ赤っか。血の海ですわね」
「血の海……!? 誰か怪我をしたのか!」
「財政が怪我をして死にかけてるんですわよ! この数字の羅列を見てください。無駄な街灯の設置、効果のないお祭りの主催、そして極め付けは――あなたの『趣味の馬券代』が雑費として紛れ込んでいますわ」
レオン王子の肩がビクッと跳ねた。
「リコ様、そんなに数字ばかり追っていては、心が乾いてしまいますわ! 愛は数字では測れないものですもの!」
傍らで、マリエッタがお茶を淹れようとしながら口を挟む。ちなみに彼女も、リコの指示で「一滴もこぼさず、音も立てない完璧な給仕」という名の苦行の最中だ。
「マリエッタさん。愛で税率が変わるなら、今すぐこの国をバラ色に染めて差し上げますわ。ですが、現実は非情です。パンを買うのも、兵士を雇うのも、すべてはこの『数字』にかかっているの」
リコは、冷酷な笑みを浮かべてレオンに羽根ペンを突きつけた。
「さあ、王子。この千枚の書類、すべて計算し直していただきます。一円の誤差も許しませんわよ。もし間違えたら、そのページは最初からやり直しです」
「せ、千枚……!? 終わる頃には私は老人になっているぞ!」
「大丈夫ですわ。人間、死ぬ気で計算すれば、脳が活性化して若返りますから。……あ、マリエッタさん」
「は、はいっ!」
「あなたは王子の隣で、彼が計算を間違えないように見張っていなさい。もし王子が寝落ちしたら、この冷たい氷水を彼の首筋に流し込むのが、あなたの今回のお仕事です」
リコが差し出したのは、キンキンに冷えた銀のピッチャーだった。
「ひ、氷水!? そんな、レオン様が風邪を引いてしまったらどうするんですの!」
「愛があるなら、王子の熱量で氷を溶かしてみせなさいな。……では、私はサロンで最新の経済紙を読んできますわ。セバス、監視をお願いね」
「畏まりました。……レオン様、羽根ペンが止まっております。早くしないと、夕食の時間はあっという間に過ぎ去りますよ」
リコが部屋を出ていくと、図書室には「カリカリ……」という羽根ペンの音と、王子の絶望的な溜息だけが響いた。
数時間後。
「ぐわぁぁ! 桁が! 桁が合わない! なぜだ、なぜあと銅貨三枚分だけ足りないんだ!」
「レオン様、しっかりしてください! ほら、この行の計算が……ああっ、マリエッタもわからなくなってきましたわ!」
「お二人とも、集中してください。……おや、レオン様、今、一瞬だけ瞼が閉じましたね?」
「待て、セバス! それは瞬きだ! 睡眠ではない!」
「容赦はいたしません。マリエッタ様、どうぞ」
「ご、ごめんなさいレオン様! えいっ!」
「ぎゃあああぁぁぁ! 冷たい! 心臓が止まる!」
冷水による強制再起動。図書室の窓からは、王子の悲鳴が夜の闇に吸い込まれていくのが見えた。
その様子を、外の廊下で聞いていたリコは、壁に背を預けて小さく息を吐いた。
「……お嬢様。やはり、ただの嫌がらせにしか見えませんよ、今の王子には」
背後から現れたセバスが、皮肉げに微笑む。
「いいのよ。彼は今まで、自分がサインする書類が『誰の人生』を決めているのか、考えたこともなかった。千枚の計算を終える頃には、その一枚一枚の重みが、嫌でも体に刻まれるはずだわ」
リコは、手に持った指示棒をぎゅっと握りしめた。
「無知は罪。そして、無関心は悪ですわ。……彼を、ただの『顔がいいだけの飾り物』で終わらせるわけにはいかないのよ」
彼女の瞳には、厳しさの裏に隠された、この国に対する切実な想いが宿っていた。
だが、部屋の中から聞こえてくる「マリエッタ、もう一杯氷水をくれ! 眠気が、眠気が来る……!」という王子の叫びを聞くと、やはり少しだけ、口角が吊り上がるのを抑えきれないリコであった。
レオン王子は、目の前にそびえ立つ「紙の塔」を見上げて呆然と呟いた。
そこは、王宮の一角にある静かな図書室。普段なら優雅に読書を楽しむ場所だが、今の机の上には殺風景な書類の束が、それこそ王子の身長に届かんばかりに積み上がっている。
「拷問だなんて人聞きの悪い。これは『愛の計算ドリル』ですわ。あ、タイトルは今私が決めました」
リコは、特注の細長い指示棒で、一番上の書類をコンコンと叩いた。
「レオン様。あなたが昨日、泥にまみれて稼いだ銅貨二十二枚。それが国全体で動くとき、どのような数字に化けるか……想像したことはありますの?」
「想像……? いや、それは会計官の仕事だろう。私はただ、その結果を聞いて頷くだけで……」
「だからおバカなんですわ。頷く先が『崖っぷち』だったらどうするおつもり?」
リコは、ドサリと一冊の分厚い台帳を広げた。
「これは、あなたが将来治めるはずの、北部領土の直近三年の収支報告書です。一言で言えば、真っ赤っか。血の海ですわね」
「血の海……!? 誰か怪我をしたのか!」
「財政が怪我をして死にかけてるんですわよ! この数字の羅列を見てください。無駄な街灯の設置、効果のないお祭りの主催、そして極め付けは――あなたの『趣味の馬券代』が雑費として紛れ込んでいますわ」
レオン王子の肩がビクッと跳ねた。
「リコ様、そんなに数字ばかり追っていては、心が乾いてしまいますわ! 愛は数字では測れないものですもの!」
傍らで、マリエッタがお茶を淹れようとしながら口を挟む。ちなみに彼女も、リコの指示で「一滴もこぼさず、音も立てない完璧な給仕」という名の苦行の最中だ。
「マリエッタさん。愛で税率が変わるなら、今すぐこの国をバラ色に染めて差し上げますわ。ですが、現実は非情です。パンを買うのも、兵士を雇うのも、すべてはこの『数字』にかかっているの」
リコは、冷酷な笑みを浮かべてレオンに羽根ペンを突きつけた。
「さあ、王子。この千枚の書類、すべて計算し直していただきます。一円の誤差も許しませんわよ。もし間違えたら、そのページは最初からやり直しです」
「せ、千枚……!? 終わる頃には私は老人になっているぞ!」
「大丈夫ですわ。人間、死ぬ気で計算すれば、脳が活性化して若返りますから。……あ、マリエッタさん」
「は、はいっ!」
「あなたは王子の隣で、彼が計算を間違えないように見張っていなさい。もし王子が寝落ちしたら、この冷たい氷水を彼の首筋に流し込むのが、あなたの今回のお仕事です」
リコが差し出したのは、キンキンに冷えた銀のピッチャーだった。
「ひ、氷水!? そんな、レオン様が風邪を引いてしまったらどうするんですの!」
「愛があるなら、王子の熱量で氷を溶かしてみせなさいな。……では、私はサロンで最新の経済紙を読んできますわ。セバス、監視をお願いね」
「畏まりました。……レオン様、羽根ペンが止まっております。早くしないと、夕食の時間はあっという間に過ぎ去りますよ」
リコが部屋を出ていくと、図書室には「カリカリ……」という羽根ペンの音と、王子の絶望的な溜息だけが響いた。
数時間後。
「ぐわぁぁ! 桁が! 桁が合わない! なぜだ、なぜあと銅貨三枚分だけ足りないんだ!」
「レオン様、しっかりしてください! ほら、この行の計算が……ああっ、マリエッタもわからなくなってきましたわ!」
「お二人とも、集中してください。……おや、レオン様、今、一瞬だけ瞼が閉じましたね?」
「待て、セバス! それは瞬きだ! 睡眠ではない!」
「容赦はいたしません。マリエッタ様、どうぞ」
「ご、ごめんなさいレオン様! えいっ!」
「ぎゃあああぁぁぁ! 冷たい! 心臓が止まる!」
冷水による強制再起動。図書室の窓からは、王子の悲鳴が夜の闇に吸い込まれていくのが見えた。
その様子を、外の廊下で聞いていたリコは、壁に背を預けて小さく息を吐いた。
「……お嬢様。やはり、ただの嫌がらせにしか見えませんよ、今の王子には」
背後から現れたセバスが、皮肉げに微笑む。
「いいのよ。彼は今まで、自分がサインする書類が『誰の人生』を決めているのか、考えたこともなかった。千枚の計算を終える頃には、その一枚一枚の重みが、嫌でも体に刻まれるはずだわ」
リコは、手に持った指示棒をぎゅっと握りしめた。
「無知は罪。そして、無関心は悪ですわ。……彼を、ただの『顔がいいだけの飾り物』で終わらせるわけにはいかないのよ」
彼女の瞳には、厳しさの裏に隠された、この国に対する切実な想いが宿っていた。
だが、部屋の中から聞こえてくる「マリエッタ、もう一杯氷水をくれ! 眠気が、眠気が来る……!」という王子の叫びを聞くと、やはり少しだけ、口角が吊り上がるのを抑えきれないリコであった。
11
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
第二王女と次期公爵の仲は冷え切っている
山法師
恋愛
グレイフォアガウス王国の第二王女、シャーロット。
フォーサイス公爵家の次期公爵、セオドア。
二人は婚約者であるけれど、婚約者であるだけだった。
形だけの婚約者。二人の仲は冷め切っているし冷え切っている。
そもそも温度など、最初から存在していない。愛も恋も、友情も親しみも、二人の間には存在しない。
周知の事実のようなそれを、シャーロットもセオドアも否定しない。
お互いにほとんど関わりを持とうとしない、交流しようとしない、シャーロットとセオドアは。
婚約者としての親睦を深める茶会でだけ、顔を合わせる。
親睦を深める茶会だというのに、親睦は全く深まらない。親睦を深めるつもりも深める意味も、二人にはない。
形だけの婚約者との、形だけの親睦を深める茶会。
今日もまた、同じように。
「久しぶりに見る君が、いつにも増して愛らしく見えるし愛おしく思えて、僕は今にも天に召されそうなほどの幸福を味わっている。──?!」
「あたしのほうこそセオ様とお顔を合わせること、夢みたいに思ってるんですからね。大好きなセオ様を独り占めしているみたいに思えるんですよ。はっ?!」
顔を合わせて確認事項を本当に『確認』するだけの茶会が始まるはずが、それどころじゃない事態に陥った。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
婚約破棄イベントが壊れた!
秋月一花
恋愛
学園の卒業パーティー。たった一人で姿を現した私、カリスタ。会場内はざわつき、私へと一斉に視線が集まる。
――卒業パーティーで、私は婚約破棄を宣言される。長かった。とっても長かった。ヒロイン、頑張って王子様と一緒に国を持ち上げてね!
……って思ったら、これ私の知っている婚約破棄イベントじゃない!
「カリスタ、どうして先に行ってしまったんだい?」
おかしい、おかしい。絶対におかしい!
国外追放されて平民として生きるつもりだったのに! このままだと私が王妃になってしまう! どうしてそうなった、ヒロイン王太子狙いだったじゃん!
2021/07/04 カクヨム様にも投稿しました。
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始
訳あり侯爵様に嫁いで白い結婚をした虐げられ姫が逃亡を目指した、その結果
柴野
恋愛
国王の側妃の娘として生まれた故に虐げられ続けていた王女アグネス・エル・シェブーリエ。
彼女は父に命じられ、半ば厄介払いのような形で訳あり侯爵様に嫁がされることになる。
しかしそこでも不要とされているようで、「きみを愛することはない」と言われてしまったアグネスは、ニヤリと口角を吊り上げた。
「どうせいてもいなくてもいいような存在なんですもの、さっさと逃げてしまいましょう!」
逃亡して自由の身になる――それが彼女の長年の夢だったのだ。
あらゆる手段を使って脱走を実行しようとするアグネス。だがなぜか毎度毎度侯爵様にめざとく見つかってしまい、その度失敗してしまう。
しかも日に日に彼の態度は温かみを帯びたものになっていった。
気づけば一日中彼と同じ部屋で過ごすという軟禁状態になり、溺愛という名の雁字搦めにされていて……?
虐げられ姫と女性不信な侯爵によるラブストーリー。
※小説家になろうに重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる