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隣国の使節団が、捨て台詞と共に砦を去ってから数時間後。
アルト砦の周囲は、季節外れの豪雨に見舞われていた。
「レオン様! あちらの食糧庫の屋根が……! このままでは、せっかく守った備蓄が台無しになってしまいますわ!」
マリエッタが、泥だらけの長靴でぬかるみを走りながら叫んだ。
かつての「ふわふわヒロイン」の面影はどこにもない。彼女の頭にはもはや本は乗っていないが、代わりに現場の「在庫リスト」が完璧に叩き込まれている。
「わかっている! 今、兵士たちと補強に向かう! マリエッタ、君は濡れない場所へ避難していろ!」
レオン王子が、麻袋……ではなく、本物の労働着を羽織って指示を飛ばす。
「嫌ですわ! 避難している間に、どれだけの『損失』が出ると思っていらして!? 計算によれば、食糧の三割が濡れれば、この冬の砦の維持費は三倍に跳ね上がりますのよ!」
マリエッタは、自らも土嚢(どのう)を抱え、ぬかるみに足を取られながらも食糧庫へと突き進んだ。
「……マリエッタ。君は、本当に変わったな」
レオンは一瞬、呆然と彼女の背中を見つめたが、すぐに自分も土嚢を担ぎ上げた。
「……ふんっ! 何を感傷に浸っている、レオン様! さっさと運ばないと、リコ様の『補習』が待っていますわよ!」
「わ、わかっている! あの人の『補習』だけは、戦争よりも恐ろしいからな!」
二人は泥にまみれ、雨に打たれながら、必死に土嚢を積み上げていった。
王子が重い荷物を運び、ヒロインが効率的な配置を指示する。
そこには「愛の囁き」など一つもなかったが、代わりに「そっちを持て!」「角度は十五度だ!」という、力強い信頼の言葉が飛び交っていた。
数時間後。雨が小降りになり、なんとか食糧の浸水を防ぎきった頃。
二人は砦の軒下で、泥だらけのまま座り込んでいた。
「……ははっ。レオン様。お顔が、まるで泥炭(でいたん)のパックをしたみたいに真っ黒ですわ」
マリエッタが、自分の顔の汚れも気にせず、お腹を抱えて笑った。
「君こそ……その、自慢の髪が、海藻のようになっているぞ」
レオンも、疲れ果てた顔に笑みを浮かべ、マリエッタの隣に腰を下ろした。
「……なあ、マリエッタ。私は今まで、王族というのは、高台から民を見下ろすものだと思っていた」
「……マリエッタも、お姫様というのは、お城で綺麗なドレスを着て、美味しいお菓子を食べているものだと思っていましたわ」
レオンは自分の、豆だらけになった掌を見つめた。
「でも、違ったんだな。泥を被り、雨に濡れ、同じ痛みを共有して初めて……私はこの国の『土』の匂いを知った気がする」
「……ええ。数字だけでは見えなかった、守るべきものの『重さ』。マリエッタ、ようやく理解できましたわ。……レオン様。マリエッタ、あなたと一緒にこの国を守れることが、誇らしいです」
マリエッタが、泥のついた手で、レオンの大きな手をぎゅっと握った。
それは、どんな舞踏会のダンスよりも、どんな口付けよりも、熱く、確かな絆の証だった。
「……あら。随分と、不衛生なカップルが誕生しましたわね」
背後から、冷徹な、だがどこか温かみを含んだ声が響いた。
「「リコ様(リコ)!」」
振り返ると、そこには完璧なまでに汚れ一つない傘を差し、セバスを従えたリコが立っていた。
「……交渉の成功、そして現場の死守。及第点ですわ」
「き、及第点……! リコ様、マリエッタ、頑張りましたわよ!」
「そうですわ、リコ! 今の私たちの働きを見て、文句の付け所があるなら言ってみろ!」
意気揚々と胸を張る二人に対し、リコは扇子で鼻を覆った。
「文句? ……ええ、ありますわ。その泥。そのまま王宮の廊下を歩いたら、清掃員の時給を三倍にして支払っていただきますからね」
「そ、そんなところを……!」
「ですが。……戦友として、少しは様になってきましたわね、お二人さん」
リコは、傘をセバスに預けると、自らのハンカチを取り出し、マリエッタの頬の泥をそっと拭った。
「お帰りなさい。……おバカさんたちの、本当の『自立』を見届けさせてもらいましたわ」
その瞬間のリコの微笑みは、どの令嬢よりも美しく、そして誰よりも「悪役」らしくない、優しさに満ちていた。
「さあ、王宮へ戻りますわよ。……明日は、婚約破棄を予定していた『あの日』ですもの。……最高に面白い『断罪劇(笑)』を、皆様に披露して差し上げましょう?」
リコの瞳に、物語の結末を見据えた、不敵な輝きが宿った。
アルト砦の周囲は、季節外れの豪雨に見舞われていた。
「レオン様! あちらの食糧庫の屋根が……! このままでは、せっかく守った備蓄が台無しになってしまいますわ!」
マリエッタが、泥だらけの長靴でぬかるみを走りながら叫んだ。
かつての「ふわふわヒロイン」の面影はどこにもない。彼女の頭にはもはや本は乗っていないが、代わりに現場の「在庫リスト」が完璧に叩き込まれている。
「わかっている! 今、兵士たちと補強に向かう! マリエッタ、君は濡れない場所へ避難していろ!」
レオン王子が、麻袋……ではなく、本物の労働着を羽織って指示を飛ばす。
「嫌ですわ! 避難している間に、どれだけの『損失』が出ると思っていらして!? 計算によれば、食糧の三割が濡れれば、この冬の砦の維持費は三倍に跳ね上がりますのよ!」
マリエッタは、自らも土嚢(どのう)を抱え、ぬかるみに足を取られながらも食糧庫へと突き進んだ。
「……マリエッタ。君は、本当に変わったな」
レオンは一瞬、呆然と彼女の背中を見つめたが、すぐに自分も土嚢を担ぎ上げた。
「……ふんっ! 何を感傷に浸っている、レオン様! さっさと運ばないと、リコ様の『補習』が待っていますわよ!」
「わ、わかっている! あの人の『補習』だけは、戦争よりも恐ろしいからな!」
二人は泥にまみれ、雨に打たれながら、必死に土嚢を積み上げていった。
王子が重い荷物を運び、ヒロインが効率的な配置を指示する。
そこには「愛の囁き」など一つもなかったが、代わりに「そっちを持て!」「角度は十五度だ!」という、力強い信頼の言葉が飛び交っていた。
数時間後。雨が小降りになり、なんとか食糧の浸水を防ぎきった頃。
二人は砦の軒下で、泥だらけのまま座り込んでいた。
「……ははっ。レオン様。お顔が、まるで泥炭(でいたん)のパックをしたみたいに真っ黒ですわ」
マリエッタが、自分の顔の汚れも気にせず、お腹を抱えて笑った。
「君こそ……その、自慢の髪が、海藻のようになっているぞ」
レオンも、疲れ果てた顔に笑みを浮かべ、マリエッタの隣に腰を下ろした。
「……なあ、マリエッタ。私は今まで、王族というのは、高台から民を見下ろすものだと思っていた」
「……マリエッタも、お姫様というのは、お城で綺麗なドレスを着て、美味しいお菓子を食べているものだと思っていましたわ」
レオンは自分の、豆だらけになった掌を見つめた。
「でも、違ったんだな。泥を被り、雨に濡れ、同じ痛みを共有して初めて……私はこの国の『土』の匂いを知った気がする」
「……ええ。数字だけでは見えなかった、守るべきものの『重さ』。マリエッタ、ようやく理解できましたわ。……レオン様。マリエッタ、あなたと一緒にこの国を守れることが、誇らしいです」
マリエッタが、泥のついた手で、レオンの大きな手をぎゅっと握った。
それは、どんな舞踏会のダンスよりも、どんな口付けよりも、熱く、確かな絆の証だった。
「……あら。随分と、不衛生なカップルが誕生しましたわね」
背後から、冷徹な、だがどこか温かみを含んだ声が響いた。
「「リコ様(リコ)!」」
振り返ると、そこには完璧なまでに汚れ一つない傘を差し、セバスを従えたリコが立っていた。
「……交渉の成功、そして現場の死守。及第点ですわ」
「き、及第点……! リコ様、マリエッタ、頑張りましたわよ!」
「そうですわ、リコ! 今の私たちの働きを見て、文句の付け所があるなら言ってみろ!」
意気揚々と胸を張る二人に対し、リコは扇子で鼻を覆った。
「文句? ……ええ、ありますわ。その泥。そのまま王宮の廊下を歩いたら、清掃員の時給を三倍にして支払っていただきますからね」
「そ、そんなところを……!」
「ですが。……戦友として、少しは様になってきましたわね、お二人さん」
リコは、傘をセバスに預けると、自らのハンカチを取り出し、マリエッタの頬の泥をそっと拭った。
「お帰りなさい。……おバカさんたちの、本当の『自立』を見届けさせてもらいましたわ」
その瞬間のリコの微笑みは、どの令嬢よりも美しく、そして誰よりも「悪役」らしくない、優しさに満ちていた。
「さあ、王宮へ戻りますわよ。……明日は、婚約破棄を予定していた『あの日』ですもの。……最高に面白い『断罪劇(笑)』を、皆様に披露して差し上げましょう?」
リコの瞳に、物語の結末を見据えた、不敵な輝きが宿った。
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