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コトッ、と重厚な蓋が開けられる。
湯気と共に立ち上る、濃厚で官能的な赤ワインの香り。
鍋の中で艶やかに輝くのは、とろとろに煮込まれた牛肉の塊だ。
「……ゴクリ」
メモリーは喉を鳴らすと、差し出されたスプーンで躊躇なくスープと肉をすくい上げた。
初対面の不審な美青年からの「味見」の依頼。
普通なら警戒するところだが、目の前のビーフシチューが「私を食べて」と誘惑しているのだから仕方がない。
「では、遠慮なく……いただきます!」
パクッ。
口に含んだ瞬間、メモリーの動きが止まる。
青年は、値踏みするように冷ややかな視線で彼女を見下ろしていた。
「どうだ? 王宮の筆頭シェフが、俺の舌を唸らせるために三日三晩煮込んだ自信作らしいが」
「…………」
メモリーは目を閉じ、舌の上で転がすように味わう。
咀嚼し、飲み込み、そして余韻を確認する。
やがて、彼女はスプーンを置き、静かに口を開いた。
「……点数は、65点ですわね」
「ほう?」
青年の眉がピクリと動く。
「不味くはない。むしろ、技術的には完璧です。肉は繊維が解けるほど柔らかいですし、下処理も丁寧。灰汁の一つも見当たりません」
「だが?」
「『重い』です」
メモリーは鍋を指差して断言した。
「高級なヴィンテージワインを使いすぎですわ。高いお酒を使えば美味しくなると思っている典型的な成金趣味。そのせいで、お肉本来の甘みがワインの渋みに殺されています。これでは『肉料理』ではなく『食べる赤ワイン』です」
彼女は残念そうに肩をすくめる。
「一口目は美味しいけれど、三口目で飽きる。五口目には水が欲しくなる。……貴方様、これを一口食べて、スプーンを置いたのではありませんか?」
青年の目が、驚きで見開かれた。
その通りだったからだ。
「……正解だ。一口食べて、胸焼けがしてやめた」
「でしょうね。これは『俺の技術を見ろ!』というシェフの自己主張が強すぎる料理です。食べる相手への愛が足りません。料理とは、相手の胃袋に寄り添うものですのに」
言いながらも、メモリーはスプーンを止めない。
「まあ、私は胃袋が丈夫なので美味しくいただきますけれど! もったいないですし!」
文句を言いながらも、幸せそうに頬を膨らませ、次々と肉を口に運んでいく。
その食べっぷりは見ていて清々しいほどだった。
上品なマナーを守りつつも、凄まじい吸引力で鍋の中身が減っていく。
青年――シズル・ド・クリムゾン公爵は、その光景をまじまじと見つめていた。
普段、彼の周りには媚びへつらう人間ばかりだ。
食事一つとっても、最高級の食材を並べ立てるだけで、彼の好みを理解しようとする者はいなかった。
「氷の公爵」と恐れられる彼に対し、これほど辛辣に、かつ的確に料理を批評した人間は初めてだ。
そして何より。
「(……美味そうに食うな)」
彼女が食べていると、先ほど自分が捨て置いたはずの失敗作が、極上の宝石のように見えてくる。
見ているだけで、止まっていた自分の胃袋が動き出すような感覚。
「完食です! ごちそうさまでした!」
あっという間に鍋を空にしたメモリーが、満足げに手を合わせた。
そして、ハッと我に返る。
「あ! 申し訳ありません、味見のつもりが全部……」
「構わない。どうせ捨てるつもりだった」
シズルはポケットからハンカチを取り出すと、自然な動作でメモリーの口元についたソースを拭った。
「え?」
あまりに近い距離。
整った美貌が目の前に迫り、メモリーは初めてドキッとした。
(このハンカチ、高級なシルクの肌触り……!)
「君、名前は?」
「えっと……メモリー。メモリー・ガストロです」
「ガストロ……? ああ、あの食通で有名な侯爵家の」
シズルは納得したように頷くと、不敵な笑みを浮かべた。
「メモリー嬢。単刀直入に言おう。俺を買わないか?」
「はい? ……えっ、人身売買!?」
「違う。……いや、言葉を間違えた。俺が君を買おう。雇いたい」
シズルは一歩踏み出し、メモリーを壁際へと追い詰める。
いわゆる「壁ドン」の体勢だ。
厨房の片隅で、鍋と野菜に囲まれたロマンチックのかけらもない場所での壁ドンである。
「俺はシズル・ド・クリムゾン。隣国の公爵だ」
「クリムゾン公爵……!?」
メモリーでも知っている。
冷酷無慈悲、血も涙もない「氷の公爵」。
しかし、メモリーの認識は少し違った。
(確か、領地が海沿いで、新鮮な魚介類が美味しい国の人!)
「俺は偏食家でね。この国の料理は口に合わなくて死にそうなんだ。だが、君が『美味しい』と言って食べているのを見ると、不思議と食欲が湧く」
シズルは真剣な眼差しで、メモリーの手を取った。
「俺の専属『味見役』になってくれ。俺の食事の前に毒見をし、感想を言い、俺の目の前で美味そうに飯を食う。それが仕事だ」
「はぁ……」
「報酬は弾む。俺の屋敷のシェフは世界中から集めた精鋭だ。食材も最高級のものを使い放題。もちろん、三食おやつ付き、おかわり自由だ」
ピクッ。
メモリーの脳内に電流が走った。
『最高級食材』
『使い放題』
『おかわり自由』
それは、婚約破棄され、実家からも煙たがられている今の彼女にとって、あまりにも甘美な響き。
「……本当におかわり自由ですか? 私、牛一頭とか平気で食べますけれど」
「構わない。俺の財力を舐めるな」
「デザートは別腹ですが?」
「パティシエを三人常駐させよう」
「……採用です!」
メモリーはシズルの手をガシッと握り返した。
「その契約、お受けします! 謹んで、貴方様の胃袋(の余り物)を管理させていただきますわ!」
「交渉成立だな」
シズルは満足そうに微笑んだ。
それは獲物を捕らえた肉食獣の笑みだったが、今のメモリーには「親切な餌やり係」にしか見えていなかった。
こうして。
婚約破棄からわずか数十分。
メモリーは「傷心の追放令嬢」になるどころか、「隣国公爵の専属味見役(高待遇)」という謎のジョブチェンジを果たしたのである。
「では行こうか。私の馬車が待っている」
「はい! あ、その前に……そこの余ったパンも持って行っていいですか?」
「……好きにしろ」
メモリーはパンを抱え、シズルのエスコートで厨房を後にする。
入れ違いに、血相を変えたアラン王子が厨房に飛び込んでくるのは、その数分後のことである。
「おい! ここにメモリーが来なかったか!? 私の悪口を言いながらつまみ食いをしているはずだ!」
しかし、そこに残されていたのは、空っぽになった鍋と、綺麗に舐めとられた皿だけだった。
湯気と共に立ち上る、濃厚で官能的な赤ワインの香り。
鍋の中で艶やかに輝くのは、とろとろに煮込まれた牛肉の塊だ。
「……ゴクリ」
メモリーは喉を鳴らすと、差し出されたスプーンで躊躇なくスープと肉をすくい上げた。
初対面の不審な美青年からの「味見」の依頼。
普通なら警戒するところだが、目の前のビーフシチューが「私を食べて」と誘惑しているのだから仕方がない。
「では、遠慮なく……いただきます!」
パクッ。
口に含んだ瞬間、メモリーの動きが止まる。
青年は、値踏みするように冷ややかな視線で彼女を見下ろしていた。
「どうだ? 王宮の筆頭シェフが、俺の舌を唸らせるために三日三晩煮込んだ自信作らしいが」
「…………」
メモリーは目を閉じ、舌の上で転がすように味わう。
咀嚼し、飲み込み、そして余韻を確認する。
やがて、彼女はスプーンを置き、静かに口を開いた。
「……点数は、65点ですわね」
「ほう?」
青年の眉がピクリと動く。
「不味くはない。むしろ、技術的には完璧です。肉は繊維が解けるほど柔らかいですし、下処理も丁寧。灰汁の一つも見当たりません」
「だが?」
「『重い』です」
メモリーは鍋を指差して断言した。
「高級なヴィンテージワインを使いすぎですわ。高いお酒を使えば美味しくなると思っている典型的な成金趣味。そのせいで、お肉本来の甘みがワインの渋みに殺されています。これでは『肉料理』ではなく『食べる赤ワイン』です」
彼女は残念そうに肩をすくめる。
「一口目は美味しいけれど、三口目で飽きる。五口目には水が欲しくなる。……貴方様、これを一口食べて、スプーンを置いたのではありませんか?」
青年の目が、驚きで見開かれた。
その通りだったからだ。
「……正解だ。一口食べて、胸焼けがしてやめた」
「でしょうね。これは『俺の技術を見ろ!』というシェフの自己主張が強すぎる料理です。食べる相手への愛が足りません。料理とは、相手の胃袋に寄り添うものですのに」
言いながらも、メモリーはスプーンを止めない。
「まあ、私は胃袋が丈夫なので美味しくいただきますけれど! もったいないですし!」
文句を言いながらも、幸せそうに頬を膨らませ、次々と肉を口に運んでいく。
その食べっぷりは見ていて清々しいほどだった。
上品なマナーを守りつつも、凄まじい吸引力で鍋の中身が減っていく。
青年――シズル・ド・クリムゾン公爵は、その光景をまじまじと見つめていた。
普段、彼の周りには媚びへつらう人間ばかりだ。
食事一つとっても、最高級の食材を並べ立てるだけで、彼の好みを理解しようとする者はいなかった。
「氷の公爵」と恐れられる彼に対し、これほど辛辣に、かつ的確に料理を批評した人間は初めてだ。
そして何より。
「(……美味そうに食うな)」
彼女が食べていると、先ほど自分が捨て置いたはずの失敗作が、極上の宝石のように見えてくる。
見ているだけで、止まっていた自分の胃袋が動き出すような感覚。
「完食です! ごちそうさまでした!」
あっという間に鍋を空にしたメモリーが、満足げに手を合わせた。
そして、ハッと我に返る。
「あ! 申し訳ありません、味見のつもりが全部……」
「構わない。どうせ捨てるつもりだった」
シズルはポケットからハンカチを取り出すと、自然な動作でメモリーの口元についたソースを拭った。
「え?」
あまりに近い距離。
整った美貌が目の前に迫り、メモリーは初めてドキッとした。
(このハンカチ、高級なシルクの肌触り……!)
「君、名前は?」
「えっと……メモリー。メモリー・ガストロです」
「ガストロ……? ああ、あの食通で有名な侯爵家の」
シズルは納得したように頷くと、不敵な笑みを浮かべた。
「メモリー嬢。単刀直入に言おう。俺を買わないか?」
「はい? ……えっ、人身売買!?」
「違う。……いや、言葉を間違えた。俺が君を買おう。雇いたい」
シズルは一歩踏み出し、メモリーを壁際へと追い詰める。
いわゆる「壁ドン」の体勢だ。
厨房の片隅で、鍋と野菜に囲まれたロマンチックのかけらもない場所での壁ドンである。
「俺はシズル・ド・クリムゾン。隣国の公爵だ」
「クリムゾン公爵……!?」
メモリーでも知っている。
冷酷無慈悲、血も涙もない「氷の公爵」。
しかし、メモリーの認識は少し違った。
(確か、領地が海沿いで、新鮮な魚介類が美味しい国の人!)
「俺は偏食家でね。この国の料理は口に合わなくて死にそうなんだ。だが、君が『美味しい』と言って食べているのを見ると、不思議と食欲が湧く」
シズルは真剣な眼差しで、メモリーの手を取った。
「俺の専属『味見役』になってくれ。俺の食事の前に毒見をし、感想を言い、俺の目の前で美味そうに飯を食う。それが仕事だ」
「はぁ……」
「報酬は弾む。俺の屋敷のシェフは世界中から集めた精鋭だ。食材も最高級のものを使い放題。もちろん、三食おやつ付き、おかわり自由だ」
ピクッ。
メモリーの脳内に電流が走った。
『最高級食材』
『使い放題』
『おかわり自由』
それは、婚約破棄され、実家からも煙たがられている今の彼女にとって、あまりにも甘美な響き。
「……本当におかわり自由ですか? 私、牛一頭とか平気で食べますけれど」
「構わない。俺の財力を舐めるな」
「デザートは別腹ですが?」
「パティシエを三人常駐させよう」
「……採用です!」
メモリーはシズルの手をガシッと握り返した。
「その契約、お受けします! 謹んで、貴方様の胃袋(の余り物)を管理させていただきますわ!」
「交渉成立だな」
シズルは満足そうに微笑んだ。
それは獲物を捕らえた肉食獣の笑みだったが、今のメモリーには「親切な餌やり係」にしか見えていなかった。
こうして。
婚約破棄からわずか数十分。
メモリーは「傷心の追放令嬢」になるどころか、「隣国公爵の専属味見役(高待遇)」という謎のジョブチェンジを果たしたのである。
「では行こうか。私の馬車が待っている」
「はい! あ、その前に……そこの余ったパンも持って行っていいですか?」
「……好きにしろ」
メモリーはパンを抱え、シズルのエスコートで厨房を後にする。
入れ違いに、血相を変えたアラン王子が厨房に飛び込んでくるのは、その数分後のことである。
「おい! ここにメモリーが来なかったか!? 私の悪口を言いながらつまみ食いをしているはずだ!」
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