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今、なんと仰いました?
静寂が、辺りを支配した。
夜風に揺れる木の葉の音すら、今の私には爆音のように聞こえる。
「……あの、殿下。耳の調子が悪いのかもしれませんが、もう一度だけ伺っても?」
私は、右手に持った揚げパンを握りしめたまま問いかけた。
シナモンシュガーが指にまとわりついて、少しベタベタする。
「聞き間違いではない。ナジャ・ローレル、君を次期王太子妃候補として選別したと言ったのだ」
アリステア様は、大真面目な顔で腕を組んだ。
冗談を言っているようには見えないが、中身は冗談であってほしい。
「お、お待ちください、アリステア様! 冗談が過ぎますわ!」
叫んだのは、さっきまで「真実の愛のヒロイン」だったはずのルルさんだ。
彼女は私のドレス……というか、口の周りの砂糖を汚らわしいものでも見るような目で睨みつけている。
「そんな、どこの馬の骨ともしれない……いえ、よりによってそんな『食い意地しか取り柄がなさそうな女』を後任にするなんて、あり得ません!」
「失礼ですね。私には、足が速いという取り柄もありますよ。特に給食の時間が迫っている時は」
「黙りなさい、この揚げパン令嬢!」
揚げパン令嬢。
なんだか新しい爵位を授かったような気分だ。悪くない響きかもしれない。
「ルル、いい加減にしろ。私は本気だ」
アリステア様が、冷ややかな視線をルルさんに向けた。
その視線は、一国の王子としての威厳に満ちていて、彼女を縮み上がらせるには十分だった。
「私は権力に執着する女も、被害者ぶって周囲を操る女も、もう十分堪能した。だが、ナジャはどうだ? 国の運命を左右する断罪劇の最中に、彼女は一度でもこちらを見たか?」
「……いえ、見てませんわね。ずっと揚げパンの二口目をいついくか、真剣に悩んでいらっしゃいましたわ」
答えたのは、婚約破棄されたはずのユーフェミア様だった。
彼女はなぜか、扇子で口元を隠しながら、面白そうに私を観察している。
「だろう? 彼女の瞳には、王権も、富も、名誉も映っていない。ただ、黄金色に輝く糖分の塊だけが映っていた」
「それは、お腹が空いていたからでして……」
「それこそが信頼の証だ。欲望がシンプルであればあるほど、裏切りは計算しやすい。彼女なら、美味しいものさえ与えておけば、変な野心を出して政務の邪魔をすることもないだろう」
なんだろう。
めちゃくちゃ褒められている気がするのに、同時に人としての尊厳を削られているような気がするのは、私の被害妄想だろうか。
「そんな理由で一生を決められては困ります! 殿下、私はただのしがない男爵令嬢です。王宮のルールなんて、何一つ知りません!」
「構わん。ルールは後から覚えればいい。それより、そのパンはまだあるのか?」
「えっ? あ、はい。バスケットの中にまだ五つほど……」
アリステア様は迷わず歩み寄ると、バスケットの中から無造作にパンを一つ掴み、大きな口を開けてかじりついた。
王族とは思えない、実に豪快な食べっぷりだ。
「……ふむ。外側のカリカリ感と、中の気泡のバランスが絶妙だな。これを作った料理人を、後で王宮に引き抜こう」
「殿下、揚げパンの美味しさがわかる方に悪い人はいません。ですが、それと結婚は別問題です!」
「ナジャ、君は勘違いをしている。これは提案ではなく、決定事項だ」
アリステア様は、指についた砂糖をペロリと舐めとった。
その仕草が、不覚にも少しだけ色っぽく見えてしまった自分を殴りたい。
「ユーフェミア、君にも異論はないな?」
「もちろんですわ! むしろ感謝したいくらいです。これでやっと、私も自由になれますもの」
ユーフェミア様が、晴れやかな笑顔で一歩前に出た。
婚約破棄されたショックなど、微塵も感じられない。
「ナジャ様、おめでとう。これからはあなたが、この風変わりな王子の面倒を見て差し上げてね。私は明日から実家の領地に戻って、ひたすらスクワットに励みますわ」
「スクワット!? 公爵令嬢がすることじゃないですよ!」
「いいえ、筋肉は裏切りませんもの。……あ、そうだわ。お祝いに、私の予備のティアラを差し上げるわね」
ユーフェミア様は、自分の髪からキラキラと輝く宝石がついた飾りを外し、断る間もなく私の頭に載せた。
右手に揚げパン、頭にティアラ。
カオスすぎる。
「ちょっ、ユーフェミア様まで! 置いていかないでください!」
「さあ、ナジャ。夜会はもうおしまいだ。これからは、もっと美味しいものがたくさん待っている王宮へ行こうじゃないか」
アリステア様が、私の左手を強引に取った。
ルルさんは悔しさのあまり地団駄を踏んでいるが、誰も彼女を気に留めない。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 着替えも荷物も学園に……!」
「そんなものは明日、使いの者に運ばせればいい。今は、冷めないうちに次のパン……ではなく、未来の話をしに行こう」
「今、パンって言いましたよね!? 私を釣るための餌としてパンを使おうとしましたよね!?」
私の抗議も虚しく、私はそのまま王室専用の馬車へと引きずられていった。
人生、何が起こるか分からない。
まさか、一本の揚げパンが、私を国で最も高い場所へと連れて行くチケットになるとは。
走り出した馬車の中で、私はとりあえず、まだ右手に残っていたパンの最後の一口を口に放り込んだ。
甘い。
でも、なんだかこれからの生活は、もっと波乱万丈でしょっぱい味がしそうな予感がした。
静寂が、辺りを支配した。
夜風に揺れる木の葉の音すら、今の私には爆音のように聞こえる。
「……あの、殿下。耳の調子が悪いのかもしれませんが、もう一度だけ伺っても?」
私は、右手に持った揚げパンを握りしめたまま問いかけた。
シナモンシュガーが指にまとわりついて、少しベタベタする。
「聞き間違いではない。ナジャ・ローレル、君を次期王太子妃候補として選別したと言ったのだ」
アリステア様は、大真面目な顔で腕を組んだ。
冗談を言っているようには見えないが、中身は冗談であってほしい。
「お、お待ちください、アリステア様! 冗談が過ぎますわ!」
叫んだのは、さっきまで「真実の愛のヒロイン」だったはずのルルさんだ。
彼女は私のドレス……というか、口の周りの砂糖を汚らわしいものでも見るような目で睨みつけている。
「そんな、どこの馬の骨ともしれない……いえ、よりによってそんな『食い意地しか取り柄がなさそうな女』を後任にするなんて、あり得ません!」
「失礼ですね。私には、足が速いという取り柄もありますよ。特に給食の時間が迫っている時は」
「黙りなさい、この揚げパン令嬢!」
揚げパン令嬢。
なんだか新しい爵位を授かったような気分だ。悪くない響きかもしれない。
「ルル、いい加減にしろ。私は本気だ」
アリステア様が、冷ややかな視線をルルさんに向けた。
その視線は、一国の王子としての威厳に満ちていて、彼女を縮み上がらせるには十分だった。
「私は権力に執着する女も、被害者ぶって周囲を操る女も、もう十分堪能した。だが、ナジャはどうだ? 国の運命を左右する断罪劇の最中に、彼女は一度でもこちらを見たか?」
「……いえ、見てませんわね。ずっと揚げパンの二口目をいついくか、真剣に悩んでいらっしゃいましたわ」
答えたのは、婚約破棄されたはずのユーフェミア様だった。
彼女はなぜか、扇子で口元を隠しながら、面白そうに私を観察している。
「だろう? 彼女の瞳には、王権も、富も、名誉も映っていない。ただ、黄金色に輝く糖分の塊だけが映っていた」
「それは、お腹が空いていたからでして……」
「それこそが信頼の証だ。欲望がシンプルであればあるほど、裏切りは計算しやすい。彼女なら、美味しいものさえ与えておけば、変な野心を出して政務の邪魔をすることもないだろう」
なんだろう。
めちゃくちゃ褒められている気がするのに、同時に人としての尊厳を削られているような気がするのは、私の被害妄想だろうか。
「そんな理由で一生を決められては困ります! 殿下、私はただのしがない男爵令嬢です。王宮のルールなんて、何一つ知りません!」
「構わん。ルールは後から覚えればいい。それより、そのパンはまだあるのか?」
「えっ? あ、はい。バスケットの中にまだ五つほど……」
アリステア様は迷わず歩み寄ると、バスケットの中から無造作にパンを一つ掴み、大きな口を開けてかじりついた。
王族とは思えない、実に豪快な食べっぷりだ。
「……ふむ。外側のカリカリ感と、中の気泡のバランスが絶妙だな。これを作った料理人を、後で王宮に引き抜こう」
「殿下、揚げパンの美味しさがわかる方に悪い人はいません。ですが、それと結婚は別問題です!」
「ナジャ、君は勘違いをしている。これは提案ではなく、決定事項だ」
アリステア様は、指についた砂糖をペロリと舐めとった。
その仕草が、不覚にも少しだけ色っぽく見えてしまった自分を殴りたい。
「ユーフェミア、君にも異論はないな?」
「もちろんですわ! むしろ感謝したいくらいです。これでやっと、私も自由になれますもの」
ユーフェミア様が、晴れやかな笑顔で一歩前に出た。
婚約破棄されたショックなど、微塵も感じられない。
「ナジャ様、おめでとう。これからはあなたが、この風変わりな王子の面倒を見て差し上げてね。私は明日から実家の領地に戻って、ひたすらスクワットに励みますわ」
「スクワット!? 公爵令嬢がすることじゃないですよ!」
「いいえ、筋肉は裏切りませんもの。……あ、そうだわ。お祝いに、私の予備のティアラを差し上げるわね」
ユーフェミア様は、自分の髪からキラキラと輝く宝石がついた飾りを外し、断る間もなく私の頭に載せた。
右手に揚げパン、頭にティアラ。
カオスすぎる。
「ちょっ、ユーフェミア様まで! 置いていかないでください!」
「さあ、ナジャ。夜会はもうおしまいだ。これからは、もっと美味しいものがたくさん待っている王宮へ行こうじゃないか」
アリステア様が、私の左手を強引に取った。
ルルさんは悔しさのあまり地団駄を踏んでいるが、誰も彼女を気に留めない。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 着替えも荷物も学園に……!」
「そんなものは明日、使いの者に運ばせればいい。今は、冷めないうちに次のパン……ではなく、未来の話をしに行こう」
「今、パンって言いましたよね!? 私を釣るための餌としてパンを使おうとしましたよね!?」
私の抗議も虚しく、私はそのまま王室専用の馬車へと引きずられていった。
人生、何が起こるか分からない。
まさか、一本の揚げパンが、私を国で最も高い場所へと連れて行くチケットになるとは。
走り出した馬車の中で、私はとりあえず、まだ右手に残っていたパンの最後の一口を口に放り込んだ。
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