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ガタゴトと揺れる馬車の振動が、お腹の中に溜まった揚げパンに響く。
豪華な革張りのシート、ふかふかのクッション、そして目の前には絶世の美男子。
普通なら乙女が夢見るシチュエーションだが、今の私にあるのは「どうしてこうなった」という困惑だけだ。
「……あの、殿下。もう一度だけ確認させてください。私は今、どこへ向かっているのでしょうか」
私は、膝の上に大事に抱えたままの揚げパンバスケットをぎゅっと握りしめた。
アリステア様は、窓の外を眺めながら平然と答える。
「王宮だと言っただろう。あそこなら君がどれだけ食べても枯れない備蓄がある」
「備蓄の問題ではありません! 私は男爵家の娘ですよ? 王宮になんて行ったら、門番の方に不審者として捕まってしまいます!」
「その時は私が『私の婚約者候補だ』と言ってやろう。それとも、もっと情熱的な紹介が望みか? 『私の心を揚げパンと共に盗んだ泥棒猫だ』とか」
「絶対やめてください。末代までの恥です」
この王子、顔は最高に整っているのに、言うことなすこと全部がずれている。
私が溜息をつくと、アリステア様がこちらをじっと見つめてきた。
その切れ長の瞳に見つめられると、蛇に睨まれた蛙、あるいはシェフに睨まれた食材のような気分になる。
「……何ですか。私の顔に、まだ砂糖がついていますか?」
「いや。君は本当に、この状況で私の顔に見惚れないのだなと思ってな。ルルや他の令嬢なら、今頃は頬を染めて私の腕に縋り付いている頃合いだ」
「残念ながら、私の心拍数は殿下の美貌ではなく、この馬車の揺れでパンが逆流しないかという不安によって上がっております」
私が真顔で返すと、アリステア様は「くくっ」と喉を鳴らして笑った。
本当に楽しそうだ。この人、絶対に性格が悪い。
「ますます気に入った。ナジャ、王宮に着いたらまず君の情報を『婚約者候補名簿』に登録する。これは決定事項だ」
「登録って、そんなに簡単なんですか!? もっとこう、家同士の話し合いとか、国王陛下の御裁可とか……」
「そんな面倒な手続きを待っていたら、他の勢力が君を排除しようとするだろう? 拉致は迅速に、既成事実は速やかに。これが私のモットーだ」
「そんな物騒なモットー、初めて聞きましたよ……」
馬車が大きな門をくぐり、石畳を叩く馬蹄の音が一段と高くなる。
窓から外を覗くと、そこにはおとぎ話でしか見たことがないような、白亜の巨大な城がそびえ立っていた。
「……わあ、大きい」
「ほう、少しは興味が湧いたか?」
「はい。あの中に、どれだけの数のオーブンと料理人がいるのかと思うと、胸が熱くなります」
「期待の方向がぶれないな。いいだろう、特別に私の専属料理長を君につけてやろう」
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
アリステア様は鮮やかな所作で先に降りると、私に向かって優雅に手を差し伸べた。
その姿は、夜の月明かりに照らされて、まるで一枚の絵画のように美しい。
「さあ、おいで。ナジャ・ローレル。君の新しい食卓……いや、居場所はここだ」
「……殿下、今、言い直しましたよね?」
「気のせいだ。ほら、足元に気をつけろ。その揚げパンを落としたら、君は泣くだろう?」
私は渋々その手を取り、馬車を降りた。
豪華な装飾が施されたエントランスには、夜中だというのに数十人の侍女や役人たちが整列して待機していた。
彼らの視線が、一斉に私……というか、私が抱えているバスケットに注がれる。
「殿下、お帰りなさいませ。……して、そちらの御方は?」
初老の執事らしき男性が、怪訝そうな顔で私を見た。
当然だ。卒業パーティー帰りのボロボロのドレスを着て、頭にはなぜか前婚約者のティアラ、両手には揚げパンのバスケットを持った女が王子に連れられてきたのだから。
「私の新しい婚約者候補、ナジャだ。今日からここに住む。客室ではなく、私の離宮の一室を用意しろ」
広間に、ざわめきが広がった。
しかし、アリステア様はそれを無視して、ぐいぐいと私の背中を押して歩き出す。
「ちょっと、殿下! 皆さんの目が怖いです! 『あの揚げパン女は何だ』って目で見てます!」
「気にするな。明日になれば、彼らは君が何を食べるのかを当てる賭けに夢中になっているはずだ」
「どんな職場ですか、ここは!」
こうして私は、人生最大の「巻き込まれ」により、深夜の王宮へと足を踏み入れた。
翌朝、私の目の前に現れたのは、優雅なティーセット……ではなく、山のような書類と、なぜか「筋肉」の二文字を背負って帰ってきたあの令嬢だった。
豪華な革張りのシート、ふかふかのクッション、そして目の前には絶世の美男子。
普通なら乙女が夢見るシチュエーションだが、今の私にあるのは「どうしてこうなった」という困惑だけだ。
「……あの、殿下。もう一度だけ確認させてください。私は今、どこへ向かっているのでしょうか」
私は、膝の上に大事に抱えたままの揚げパンバスケットをぎゅっと握りしめた。
アリステア様は、窓の外を眺めながら平然と答える。
「王宮だと言っただろう。あそこなら君がどれだけ食べても枯れない備蓄がある」
「備蓄の問題ではありません! 私は男爵家の娘ですよ? 王宮になんて行ったら、門番の方に不審者として捕まってしまいます!」
「その時は私が『私の婚約者候補だ』と言ってやろう。それとも、もっと情熱的な紹介が望みか? 『私の心を揚げパンと共に盗んだ泥棒猫だ』とか」
「絶対やめてください。末代までの恥です」
この王子、顔は最高に整っているのに、言うことなすこと全部がずれている。
私が溜息をつくと、アリステア様がこちらをじっと見つめてきた。
その切れ長の瞳に見つめられると、蛇に睨まれた蛙、あるいはシェフに睨まれた食材のような気分になる。
「……何ですか。私の顔に、まだ砂糖がついていますか?」
「いや。君は本当に、この状況で私の顔に見惚れないのだなと思ってな。ルルや他の令嬢なら、今頃は頬を染めて私の腕に縋り付いている頃合いだ」
「残念ながら、私の心拍数は殿下の美貌ではなく、この馬車の揺れでパンが逆流しないかという不安によって上がっております」
私が真顔で返すと、アリステア様は「くくっ」と喉を鳴らして笑った。
本当に楽しそうだ。この人、絶対に性格が悪い。
「ますます気に入った。ナジャ、王宮に着いたらまず君の情報を『婚約者候補名簿』に登録する。これは決定事項だ」
「登録って、そんなに簡単なんですか!? もっとこう、家同士の話し合いとか、国王陛下の御裁可とか……」
「そんな面倒な手続きを待っていたら、他の勢力が君を排除しようとするだろう? 拉致は迅速に、既成事実は速やかに。これが私のモットーだ」
「そんな物騒なモットー、初めて聞きましたよ……」
馬車が大きな門をくぐり、石畳を叩く馬蹄の音が一段と高くなる。
窓から外を覗くと、そこにはおとぎ話でしか見たことがないような、白亜の巨大な城がそびえ立っていた。
「……わあ、大きい」
「ほう、少しは興味が湧いたか?」
「はい。あの中に、どれだけの数のオーブンと料理人がいるのかと思うと、胸が熱くなります」
「期待の方向がぶれないな。いいだろう、特別に私の専属料理長を君につけてやろう」
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
アリステア様は鮮やかな所作で先に降りると、私に向かって優雅に手を差し伸べた。
その姿は、夜の月明かりに照らされて、まるで一枚の絵画のように美しい。
「さあ、おいで。ナジャ・ローレル。君の新しい食卓……いや、居場所はここだ」
「……殿下、今、言い直しましたよね?」
「気のせいだ。ほら、足元に気をつけろ。その揚げパンを落としたら、君は泣くだろう?」
私は渋々その手を取り、馬車を降りた。
豪華な装飾が施されたエントランスには、夜中だというのに数十人の侍女や役人たちが整列して待機していた。
彼らの視線が、一斉に私……というか、私が抱えているバスケットに注がれる。
「殿下、お帰りなさいませ。……して、そちらの御方は?」
初老の執事らしき男性が、怪訝そうな顔で私を見た。
当然だ。卒業パーティー帰りのボロボロのドレスを着て、頭にはなぜか前婚約者のティアラ、両手には揚げパンのバスケットを持った女が王子に連れられてきたのだから。
「私の新しい婚約者候補、ナジャだ。今日からここに住む。客室ではなく、私の離宮の一室を用意しろ」
広間に、ざわめきが広がった。
しかし、アリステア様はそれを無視して、ぐいぐいと私の背中を押して歩き出す。
「ちょっと、殿下! 皆さんの目が怖いです! 『あの揚げパン女は何だ』って目で見てます!」
「気にするな。明日になれば、彼らは君が何を食べるのかを当てる賭けに夢中になっているはずだ」
「どんな職場ですか、ここは!」
こうして私は、人生最大の「巻き込まれ」により、深夜の王宮へと足を踏み入れた。
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