婚約破棄? 上等です! 悪役令嬢は、断罪よりも限定タルトが気になる!

夏乃みのり

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「ジンジャー、離れるなよ」


「はいはい、分かってます。迷子にはなりません」


今夜、公爵邸では隣国の貴族たちを招いた晩餐会が開かれていた。


シャンデリアが煌めき、楽団が優雅なワルツを奏でている。


ホストであるキース様は、漆黒の正装に身を包み、その精悍な顔立ちと圧倒的なオーラで会場の注目を集めていた。


一方、私もまた「公爵の婚約者」として、キース様にあつらえてもらったドレスを着ている。


色は、焼きたてのタルトのような黄金色(アプリコット・ゴールド)。


レースは、繊細な飴細工をイメージしたデザインだ。


「似合っている」


キース様がボソッと言った。


「ありがとうございます。でもキース様、このコルセット、少しきつくないですか? これではケーキが十個しか入りません」


「普通は一個も入らん。諦めろ」


そんな軽口を叩きながら、私たちは会場を練り歩く。


挨拶回りが一段落し、キース様が他の貴族と話し込んだ隙に、私はそそくさと壁際の特等席へ移動した。


そう、ビュッフェ台の前だ。


「おおっ……素晴らしい眺め!」


そこには、私が監修し、ガストンたちが血涙を流しながら作り上げた珠玉のスイーツたちが並んでいた。


宝石のようなフルーツゼリー。


濃厚なガトーショコラ。


そして、中央に鎮座するのは『愛のクロカンブッシュ(シュークリームの塔)』だ。


「完璧ね」


私は満足げに頷き、皿を手に取った。


その時だった。


「あら、お久しぶりですわね、キース様」


鈴を転がすような、甘ったるい声が聞こえた。


ふと見ると、会場の中央で、赤いドレスを着た美しい女性がキース様に絡みついていた。


(誰?)


私はフォークを止めた。


燃えるような赤髪。豊満なプロポーション。


扇子で口元を隠しながら、上目遣いでキース様を見つめている。


「……ローズマリー嬢か」


キース様の声が、少し硬い。


「ええ。お会いできて光栄ですわ。以前、夜会でダンスをご一緒して以来ですわね」


「……そうだったか?」


「酷いですわ、お忘れになるなんて。あの時、私の足を踏んで『邪魔だ』と仰ったじゃありませんか」


「事実を述べたまでだ」


「ふふっ、そういう冷たいところも素敵……」


会話が噛み合っているようで噛み合っていない。


ローズマリーと呼ばれた女性は、さらに一歩、キース様に近づいた。


その距離、わずか三十センチ。


香水の匂いがこちらまで漂ってきそうだ。


「ねえ、キース様。向こうのテラスで涼みませんこと? わたくし、珍しい『愛の媚薬入りチョコレート』を手に入れたのですけれど……」


彼女が懐から小さな小箱を取り出し、妖艶に微笑む。


その瞬間。


ドクン。


私の胸の奥で、何かが跳ねた。


(……ん?)


なんだろう、この感覚。


胸がムカムカするというか、チリチリするというか。


胃がキリキリするような、不快な感じ。


私は自分の腹部をさすった。


(まさか、空腹?)


いや、さっきカナッペを五個食べたばかりだ。


(じゃあ、食べ過ぎ?)


まさか。私の胃袋はブラックホールだ。


(……分かった。これは『糖分不足』だわ!)


私は結論づけた。


脳が砂糖を欲しているのに、供給が追いついていないから、イライラして神経が過敏になっているに違いない。


「いけない、早く補給しないと」


私は目の前のガトーショコラを口に運ぼうとした。


しかし。


視界の端で、ローズマリー嬢がキース様の腕に手を触れようとしているのが見えた。


「さあ、行きましょうキース様ぁ~」


「……触るな」


「そんなこと仰らずにぃ」


イラッ。


フォークを持つ手が止まる。


ガトーショコラが美味しく見えない。


なぜだ。


なぜ、あの赤いドレスの女がキース様に近づくと、私の血糖値が乱高下するような気分になるのか。


(ああもう! うっとうしい!)


私は皿をテーブルに叩き置いた。


糖分不足のせいで(思い込み)、私の情緒は不安定になっていた。


気がつけば、私はビュッフェ台を離れ、二人の元へと大股で歩み寄っていた。


カツカツカツ!


ヒールの音が響く。


「お待ちになって!」


私が声を張り上げると、ローズマリー嬢とキース様が振り返った。


「……ジンジャー?」


キース様が目を丸くする。


ローズマリー嬢は、私の姿を見て眉をひそめた。


「あら、どなた? 給仕の方かしら?」


「いいえ。キース様の胃袋を管理している者です」


私は仁王立ちした。


そして、ローズマリー嬢が手に持っている小箱を指差す。


「そのチョコレート、ちょっと見せていただけます?」


「は? な、何よ急に。これはキース様に差し上げる特別な……」


「いいから!」


私は半ば強引に小箱を奪い取った。


蓋を開ける。


中には、いびつな形のトリュフが入っていた。


鼻を近づけてクンクンと嗅ぐ。


「……カカオの香りが飛んでるわ。保存状態が悪すぎます」


「なっ!?」


「それにこの艶のなさ。テンパリング(温度調整)に失敗して、ブルーム(白く変色)が出ているじゃないですか。こんな劣化したチョコをキース様に食べさせるおつもり?」


私は箱をパタンと閉じて、突き返した。


「やり直し!」


「……はぁ!?」


ローズマリー嬢が顔を真っ赤にして震えだした。


「失礼な! これは有名なショコラティエの……!」


「有名かどうかは関係ありません! 今の状態が全てです!」


私はキース様の前に立ち塞がり、背中で彼を庇った。


「キース様の舌は肥えているんです。そんな雑味のあるチョコを食べさせたら、不機嫌になって眉間の皺が三本増えますよ! 責任取れるんですか!?」


「み、三本……?」


「そうです! ただでさえ怖い顔が、魔王級になってしまうんです! 世界の平和のために、そのチョコは回収してください!」


私の剣幕に、ローズマリー嬢はたじろいだ。


「な、なんなのよ、この女……! キース様、こんな失礼なメイド、追い出してくださいまし!」


彼女がキース様に助けを求める。


しかし、キース様は私の背後で、肩を震わせていた。


そして、低い声で言った。


「……断る」


「え?」


「彼女の言う通りだ。俺の舌は、彼女の菓子によって甘やかされすぎた」


キース様が私の方へ歩み寄り、私の腰に手を回した。


ぎゅっと引き寄せられる。


「きゃっ」


「紹介しよう。俺の婚約者、ジンジャーだ」


「こ、婚約者ぁ!?」


ローズマリー嬢が素っ頓狂な声を上げて後ずさる。


「そ、そんな……キース様は女性嫌いじゃ……」


「前言撤回した。彼女の作る菓子以外の甘味など、もはや俺の喉を通らん」


キース様はそう言うと、私の手から皿(いつの間にか回収していた)を取り上げ、フォークでガトーショコラを一口食べた。


「……うん、やはりこれだ。この濃厚さと、ほろ苦さ。貴様のチョコレートこそが至高だ」


「キース様……」


私の作ったものを褒められて、悪い気はしない。


というか、すごく嬉しい。


胸のムカムカが、スーッと消えていくのを感じた。


「ふ、ふん! 何よ! お似合いだわ、変わり者同士!」


ローズマリー嬢は捨て台詞を吐いて、逃げるように去っていった。


周囲の貴族たちが「おお、閣下が女性を追い払った……しかもお惚気付きで……」とざわめいている。


私はほっと息をついた。


「あー、すっきりした」


「……ジンジャー」


キース様が私の顔を覗き込む。


その瞳が、なんだか楽しそうに輝いている。


「なんだか嬉しそうですね、キース様」


「ああ。……貴様、妬いたのか?」


「焼いた? 何をです? クッキーなら今朝焼きましたけど」


「そうじゃない。嫉妬だ」


「嫉妬?」


私はキョトンとした。


「まさか。私が怒ったのは、あの方のチョコレート管理がお粗末だったからです。チョコへの冒涜です」


「……それだけか?」


「はい。あと、キース様があんなまずそうなチョコを食べて、お腹を壊したら困るなーと思って」


「…………」


キース様がガクッと項垂れた。


「……そこは『他の女に取られたくなかった』と言うところだろう……」


「え? あ、なるほど! 専属パティシエとしては、他店の味に浮気されるのは悔しいですからね! その通りです!」


「……もういい。意味が違うが、結果オーライだ」


キース様はため息をつきつつ、私の頭をポンポンと撫でた。


「とりあえず、俺を守ってくれて礼を言う」


「はい! キース様の胃袋は私が守ります!」


私は胸を張った。


胸の痛みはすっかり消え、代わりに甘いガトーショコラの味が口いっぱいに広がった。


(やっぱり、糖分不足だったのね)


そう結論づけて、私は再びビュッフェ台へと突撃した。


背後でキース様が「本当に鈍いな……」と呟いた声は、楽団の演奏にかき消されて聞こえなかった。


こうして、恋のライバル(?)出現イベントは、私の食い意地と職人気質によって瞬殺されたのだった。


だが、この一件がきっかけで、社交界に「冷徹公爵には、狂犬のような婚約者がついている」という新たな噂が広まることになるとは、まだ知る由もなかった。
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