13 / 28
13
しおりを挟む
時計の針は深夜二時を回っていた。
公爵邸は深い静寂に包まれている。
しかし、私の目は冴え渡っていた。
(……お腹が空いた)
晩餐会であれだけ食べたはずなのに。
興奮していたせいか、それともコルセットを外して胃が解放されたせいか、小腹が空いて眠れないのだ。
私はベッドを抜け出し、ガウンを羽織って部屋を出た。
目指すは聖域、厨房である。
廊下を音もなく進む。
月明かりが窓から差し込み、長い影を作っている。
(幽霊が出たらどうしよう)
(いや、幽霊よりも低血糖の方が怖い)
そんなことを考えながら厨房の重い扉を開けると。
「……む?」
先客がいた。
コンロの前に立ち、小鍋を温めている長身の影。
漆黒のナイトローブを纏ったその姿は、闇の魔術師か、はたまた……。
「……キース様?」
「ッ!?」
影がビクリと肩を震わせ、振り返った。
キース様だった。
しかも、いつもの整えられた髪を下ろし、少し幼い印象になっている。
手にはお玉。鍋からは甘い香りが漂っている。
「……ジンジャーか。脅かすな」
「すみません。こんな時間に何を?」
私は近づいて鍋を覗き込んだ。
そこには、温められたミルクが入っていた。
「……眠れなくてな。ホットミルクでも飲もうかと」
「あら、奇遇ですね。私もお腹が空いて眠れなくて」
「貴様、あれだけ食っておいてか?」
「別腹の概念は、時間経過と共にリセットされるのです」
私はキース様の隣に立った。
ただのホットミルク?
いいえ、せっかくの「深夜の背徳タイム」だ。もっと罪深い味にするべきだ。
「キース様、ちょっと貸してください」
「おい、何をする気だ」
「魔法をかけます」
私は棚からクーベルチュールチョコレート(カカオ分70%)と、とっておきのスパイスセットを取り出した。
「見ていてくださいね」
私は沸騰直前のミルクに、刻んだチョコレートを惜しげもなく投入した。
ドサッ。
「おい、そんなに入れるのか!?」
「深夜だからいいんです。カロリーは夜の闇に溶けてゼロになります」
「……すごい理論だ」
泡立て器でゆっくりと混ぜる。
ミルクが褐色に染まり、濃厚なカカオの香りが立ち上る。
そこに、シナモンスティックを一本、そして黒胡椒(ブラックペッパー)をひと挽き。
「胡椒だと?」
「これがミソです。甘さの中にピリッとした刺激が加わって、体が芯から温まるんです」
仕上げに、生クリームを少しだけ泡立てて、カップに注いだショコラの上に浮かべる。
「完成です。『真夜中のギルティ・ショコラ』」
「……名前が物騒だな」
キース様は呆れつつも、カップを受け取った。
私たちは調理台に並んで腰掛け、湯気を立てるカップを口にした。
ズズッ。
濃厚な液体が喉を通る。
チョコレートの甘み、ミルクのコク、そして後から追いかけてくるスパイスの刺激。
「……ふぅ」
二人同時に、深いため息が漏れた。
「……美味い」
キース様が呟く。
「胡椒が効いている。甘いのに、キレがある。……これは、眠る前に飲むには危険な味だな」
「目が覚めちゃいました?」
「いや。心が……解ける気がする」
キース様はカップを両手で包み込み、ぼんやりと湯気を見つめた。
その横顔は、昼間の「冷徹公爵」とはかけ離れた、無防備で穏やかなものだった。
「……ジンジャー」
「はい」
「俺は、夜が嫌いだった」
静かな声だった。
「静かすぎて、余計なことを考える。領地の問題、派閥争い、過去の失敗……。思考が堂々巡りして、朝まで眠れないことも多かった」
「キース様……」
「だが、今夜は違うな」
彼は私の方を向いた。
月明かりに照らされた瞳が、優しく揺れている。
「隣に貴様がいて、甘い匂いがして、口の中には美味いものがある。……悪くない夜だ」
「……それは良かったです」
私は照れ隠しに、ショコラを一口飲んだ。
「私も、王都にいた頃は夜が怖かったです。明日のダンスレッスンが嫌だなとか、お母様に怒られるなとか」
「フン、貴様にも悩みがあったのか」
「ありますよ! 主にダイエット関連ですけど」
「……だろうな」
キース様がくっくと笑った。
その笑顔を見て、私はふと思った。
この人、本当はすごく寂しがり屋なんじゃないだろうか。
強面で人を遠ざけているけど、誰かとこうして肩を並べて、温かいものを飲む時間をずっと求めていたんじゃないだろうか。
(……変なの)
私は自分の胸の奥が、ホットチョコレートのようにじんわりと温かくなるのを感じた。
「キース様」
「なんだ」
「眠れない夜は、いつでも呼んでください。私が世界一甘いホットミルクを作って差し上げますから」
「……毎回チョコを入れる気か?」
「当然です。チョコなしの人生なんて、クリープのないコーヒー……いえ、サビ抜きの寿司みたいなものです」
「例えが分からん」
キース様は苦笑し、残りのショコラを飲み干した。
そして、不意に私の肩に頭を預けてきた。
「えっ、キース様?」
「……少しだけ、このままで」
重みを感じる。
彼の髪から、ほのかにシャンプーの良い香りがした。
「……温かいな、貴様は」
「それは、脂肪が燃焼しているからですね」
「……ロマンのない奴だ」
キース様は私の肩に顔を埋めたまま、安心したように息を吐いた。
私の心臓が、早鐘を打っている。
これは糖分の過剰摂取による動悸だろうか。
それとも……。
深夜の厨房。
冷蔵庫のブーンという低い音だけが響く中、私たちはしばらくの間、言葉もなく寄り添っていた。
唇についたクリームを舐めるのも忘れて、私はこの不思議な「温かさ」を噛み締めていた。
これが、恋という名の「一番甘い劇薬」であることに気づくのは、もう少し先の話。
今はただ、この背徳的な夜食の時間が、永遠に続けばいいのにと思っていた。
公爵邸は深い静寂に包まれている。
しかし、私の目は冴え渡っていた。
(……お腹が空いた)
晩餐会であれだけ食べたはずなのに。
興奮していたせいか、それともコルセットを外して胃が解放されたせいか、小腹が空いて眠れないのだ。
私はベッドを抜け出し、ガウンを羽織って部屋を出た。
目指すは聖域、厨房である。
廊下を音もなく進む。
月明かりが窓から差し込み、長い影を作っている。
(幽霊が出たらどうしよう)
(いや、幽霊よりも低血糖の方が怖い)
そんなことを考えながら厨房の重い扉を開けると。
「……む?」
先客がいた。
コンロの前に立ち、小鍋を温めている長身の影。
漆黒のナイトローブを纏ったその姿は、闇の魔術師か、はたまた……。
「……キース様?」
「ッ!?」
影がビクリと肩を震わせ、振り返った。
キース様だった。
しかも、いつもの整えられた髪を下ろし、少し幼い印象になっている。
手にはお玉。鍋からは甘い香りが漂っている。
「……ジンジャーか。脅かすな」
「すみません。こんな時間に何を?」
私は近づいて鍋を覗き込んだ。
そこには、温められたミルクが入っていた。
「……眠れなくてな。ホットミルクでも飲もうかと」
「あら、奇遇ですね。私もお腹が空いて眠れなくて」
「貴様、あれだけ食っておいてか?」
「別腹の概念は、時間経過と共にリセットされるのです」
私はキース様の隣に立った。
ただのホットミルク?
いいえ、せっかくの「深夜の背徳タイム」だ。もっと罪深い味にするべきだ。
「キース様、ちょっと貸してください」
「おい、何をする気だ」
「魔法をかけます」
私は棚からクーベルチュールチョコレート(カカオ分70%)と、とっておきのスパイスセットを取り出した。
「見ていてくださいね」
私は沸騰直前のミルクに、刻んだチョコレートを惜しげもなく投入した。
ドサッ。
「おい、そんなに入れるのか!?」
「深夜だからいいんです。カロリーは夜の闇に溶けてゼロになります」
「……すごい理論だ」
泡立て器でゆっくりと混ぜる。
ミルクが褐色に染まり、濃厚なカカオの香りが立ち上る。
そこに、シナモンスティックを一本、そして黒胡椒(ブラックペッパー)をひと挽き。
「胡椒だと?」
「これがミソです。甘さの中にピリッとした刺激が加わって、体が芯から温まるんです」
仕上げに、生クリームを少しだけ泡立てて、カップに注いだショコラの上に浮かべる。
「完成です。『真夜中のギルティ・ショコラ』」
「……名前が物騒だな」
キース様は呆れつつも、カップを受け取った。
私たちは調理台に並んで腰掛け、湯気を立てるカップを口にした。
ズズッ。
濃厚な液体が喉を通る。
チョコレートの甘み、ミルクのコク、そして後から追いかけてくるスパイスの刺激。
「……ふぅ」
二人同時に、深いため息が漏れた。
「……美味い」
キース様が呟く。
「胡椒が効いている。甘いのに、キレがある。……これは、眠る前に飲むには危険な味だな」
「目が覚めちゃいました?」
「いや。心が……解ける気がする」
キース様はカップを両手で包み込み、ぼんやりと湯気を見つめた。
その横顔は、昼間の「冷徹公爵」とはかけ離れた、無防備で穏やかなものだった。
「……ジンジャー」
「はい」
「俺は、夜が嫌いだった」
静かな声だった。
「静かすぎて、余計なことを考える。領地の問題、派閥争い、過去の失敗……。思考が堂々巡りして、朝まで眠れないことも多かった」
「キース様……」
「だが、今夜は違うな」
彼は私の方を向いた。
月明かりに照らされた瞳が、優しく揺れている。
「隣に貴様がいて、甘い匂いがして、口の中には美味いものがある。……悪くない夜だ」
「……それは良かったです」
私は照れ隠しに、ショコラを一口飲んだ。
「私も、王都にいた頃は夜が怖かったです。明日のダンスレッスンが嫌だなとか、お母様に怒られるなとか」
「フン、貴様にも悩みがあったのか」
「ありますよ! 主にダイエット関連ですけど」
「……だろうな」
キース様がくっくと笑った。
その笑顔を見て、私はふと思った。
この人、本当はすごく寂しがり屋なんじゃないだろうか。
強面で人を遠ざけているけど、誰かとこうして肩を並べて、温かいものを飲む時間をずっと求めていたんじゃないだろうか。
(……変なの)
私は自分の胸の奥が、ホットチョコレートのようにじんわりと温かくなるのを感じた。
「キース様」
「なんだ」
「眠れない夜は、いつでも呼んでください。私が世界一甘いホットミルクを作って差し上げますから」
「……毎回チョコを入れる気か?」
「当然です。チョコなしの人生なんて、クリープのないコーヒー……いえ、サビ抜きの寿司みたいなものです」
「例えが分からん」
キース様は苦笑し、残りのショコラを飲み干した。
そして、不意に私の肩に頭を預けてきた。
「えっ、キース様?」
「……少しだけ、このままで」
重みを感じる。
彼の髪から、ほのかにシャンプーの良い香りがした。
「……温かいな、貴様は」
「それは、脂肪が燃焼しているからですね」
「……ロマンのない奴だ」
キース様は私の肩に顔を埋めたまま、安心したように息を吐いた。
私の心臓が、早鐘を打っている。
これは糖分の過剰摂取による動悸だろうか。
それとも……。
深夜の厨房。
冷蔵庫のブーンという低い音だけが響く中、私たちはしばらくの間、言葉もなく寄り添っていた。
唇についたクリームを舐めるのも忘れて、私はこの不思議な「温かさ」を噛み締めていた。
これが、恋という名の「一番甘い劇薬」であることに気づくのは、もう少し先の話。
今はただ、この背徳的な夜食の時間が、永遠に続けばいいのにと思っていた。
10
あなたにおすすめの小説
婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―
鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。
泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。
まだ八歳。
それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。
並ぶのは、かわいい雑貨。
そして、かわいい魔法の雑貨。
お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、
冷めないティーカップ、
時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。
静かに広がる評判の裏で、
かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。
ざまぁは控えめ、日常はやさしく。
かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。
---
この文面は
✔ アルファポリス向け文字数
✔ 女子読者に刺さるワード配置
✔ ネタバレしすぎない
✔ ほのぼの感キープ
を全部満たしています。
次は
👉 タグ案
👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字)
どちらにしますか?
ワンチャンあるかな、って転生先で推しにアタックしてるのがこちらの令嬢です
山口三
恋愛
恋愛ゲームの世界に転生した主人公。中世異世界のアカデミーを中心に繰り広げられるゲームだが、大好きな推しを目の前にして、ついつい欲が出てしまう。「私が転生したキャラは主人公じゃなくて、たたのモブ悪役。どうせ攻略対象の相手にはフラれて婚約破棄されるんだから・・・」
ひょんな事からクラスメイトのアロイスと協力して、主人公は推し様と、アロイスはゲームの主人公である聖女様との相思相愛を目指すが・・・。
【完結】メンヘラ製造機の侯爵令息様は、愛のない結婚を望んでいる
当麻リコ
恋愛
美しすぎるがゆえに嫉妬で嘘の噂を流され、それを信じた婚約者に婚約を破棄され人間嫌いになっていたシェリル。
過ぎた美貌で近付く女性がメンヘラストーカー化するがゆえに女性不信になっていたエドガー。
恋愛至上の社交界から遠ざかりたい二人は、跡取りを残すためという利害の一致により、愛のない政略結婚をすることに決めた。
◇お互いに「自分を好きにならないから」という理由で結婚した相手を好きになってしまい、夫婦なのに想いを伝えられずにいる両片想いのお話です。
※やや同性愛表現があります。
[完結]私を巻き込まないで下さい
シマ
恋愛
私、イリーナ15歳。賊に襲われているのを助けられた8歳の時から、師匠と一緒に暮らしている。
魔力持ちと分かって魔法を教えて貰ったけど、何故か全然発動しなかった。
でも、魔物を倒した時に採れる魔石。石の魔力が無くなると使えなくなるけど、その魔石に魔力を注いで甦らせる事が出来た。
その力を生かして、師匠と装具や魔道具の修理の仕事をしながら、のんびり暮らしていた。
ある日、師匠を訪ねて来た、お客さんから生活が変わっていく。
え?今、話題の勇者様が兄弟子?師匠が王族?ナニそれ私、知らないよ。
平凡で普通の生活がしたいの。
私を巻き込まないで下さい!
恋愛要素は、中盤以降から出てきます
9月28日 本編完結
10月4日 番外編完結
長い間、お付き合い頂きありがとうございました。
職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる