婚約破棄? 上等です! 悪役令嬢は、断罪よりも限定タルトが気になる!

夏乃みのり

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公爵邸は、氷点下の静寂に包まれていた。


ジンジャーが消えて、二日が経つ。


キース様の執務室は、まるで絶対零度の牢獄のようだった。


「報告します。王都の各所を探しましたが、王子の側近、セージ補佐官の足取りは依然掴めません」


護衛隊長が震える声で報告した。


キース様は、机に突っ伏したまま動かない。


目の前には、一口も手を付けられていない、苦いだけのブラックコーヒー。


「……貴様たち」


低い声が、喉の奥から絞り出された。


「はいっ!」


「まだ、貴様たちは……生きているのか?」


「ひっ!」


隊長は膝を折った。


キース様の背中から立ち上る黒いオーラは、二日間の糖分不足によって、これまで見たこともないほど濃く、禍々しい。


「俺の婚約者を奪っただけでなく、俺の『おやつ』の時間を二日連続で奪ったのだぞ。……どういうことか、分かっているのか」


「も、申し訳ございません! ですが、私どもの捜索網をもってしても……」


「無能め」


キース様が顔を上げた。


その瞳は血走り、隈が濃く、まさに『死神』の様相だ。


「貴様たちは、ただ目で見える場所を探しているだけだ。それでは見つからん」


「では、閣下……」


「俺が探す」


キース様は立ち上がると、そのまま何の指示もなく執務室を出て行った。


「あ、お待ちください閣下! どちらへ!」


「……嗅ぎに行く」


「嗅ぎに?」


キース様は、ジンジャーが残していった『バニラビーンズの残り香』と、犯人が残していった『安物クロロホルムの残り香』を追って、獣のような直感だけで王都の地下へ向かい始めた。


(許さん。絶対に許さん)


彼の心の中は、怒り、焦り、そして恐ろしいまでの依存心で満たされていた。


(あいつがいなくなってから、まともに眠れていない。食欲もない。頭も回らん。書類の処理どころではない!)


(あのバニラと、あのアーモンドプードルの香りが……二日も途絶えているのだぞ!)


(俺の生きる糧を奪った罪は、王族であろうと許されん!)


キース様の怒りの本質は、完全に「依存対象を失ったことによるパニック」だった。


彼は馬にも乗らず、黒いマントを翻しながら、人の目を避け、王都の裏通りを疾走した。


その姿は、まるで獲物を追う猛獣そのものだった。


          ◇


地下の食料庫。


ジンジャーは、古びた鉄板の上で、ジャガイモとチーズのクレープを焼いていた。


チーズは干し肉と一緒に貯蔵されていた固い保存食を削ったものだ。


「うーん、もう少しだけ塩気が欲しいわね。セージ様、岩塩はどこに置いてありますか?」


「し、知らない! 貴様は囚人だろう! なぜ私に調味料のありかを尋ねる!」


セージ補佐官は、椅子に座ってポテトパンケーキを食べるジンジャーに、ただただ翻弄されていた。


縛ってもすぐに解かれる。


食事を抜こうにも、囚人の方が勝手に食料庫の食材で料理を始める。


しかも、その料理が妙に美味い。


誘拐犯なのに、栄養指導を受けているような気分になってきた。


「いい加減にしろ! 貴様のレシピをさっさと書いてくれれば……!」


「ダメですよ。昨日お渡しした『栄養バランス改善計画』を読んでいませんね? 脳を活性化させるには、まずリラックス。そして適度な塩分補給が必要なのです!」


「私は誘拐犯だぞ! リラックスなんてできるか!」


その時。


ドンッ!


遠くで、地響きのような音がした。


「な、なんだ!?」


セージ補佐官が震え上がった。


その音は、急速に近づいてくる。


まるで、巨大な岩が転がってくるかのように。


ジンジャーは手を止めた。


「……おや?」


「まさか、軍か!? 王子の援軍か!?」


セージ補佐官が慌てて扉の鍵を確認する。


そして。


轟音と共に、背後の石壁が砕け散った。


ドォオオォン!!!


大量の土埃と、粉砕された石片が舞う中、黒いマントの影が、そこに立っていた。


逆光の中、その男の顔ははっきりとは見えないが、全身から発せられる威圧感と殺気は、この世の者とは思えないほどだ。


「な、なんだ……化け物か……」


セージ補佐官が尻餅をついた。


その男は、低い声で言った。


「……俺の婚約者を、こんなカビ臭い地下室に閉じ込めたのは、貴様か」


「き、キース……ビター……?」


セージ補佐官が、その名を口にした。


キース様は、舞い散る埃の中で、ゆっくりと前進する。


その視線はセージ補佐官ではなく、ジンジャーに向けられていた。


そして、調理台の前のジンジャーを見て、キース様の動きが一瞬止まった。


なぜなら、そこにいたジンジャーは、縛られているどころか、鉄板の前で優雅にクレープを焼き、少し機嫌が悪そうに(砂糖不足で)しているだけだったからだ。


「……お前、無事だったのか」


キース様が呟いた。


「はい、おかげさまで。ただ、砂糖とバターがなくて困っていました」


「……そうか」


キース様は安堵の息を吐き……そして、次の瞬間、再び魔王の顔に戻った。


彼の目は、ジンジャーの無事を確認したことで、最後のストッパーが外れたのだ。


怒りの矛先が、一気に犯人へと向けられる。


「貴様!」


キース様がセージ補佐官の襟首を掴み上げた。


「ひぃぃっ!?」


「貴様がジンジャーから奪ったのは、レシピではない。……俺の幸福な時間だ!」


キース様は、血走った目でセージ補佐官を睨みつける。


「二日間の低血糖状態が、俺をどれだけ苦しめたか……! 貴様ごときが、俺の至福の三時のおやつを奪った罪は、地獄に落ちても償えんぞ!」


「ま、待って! 私、ただ殿下の勝利のために……!」


「言い訳は聞かん!」


キース様はセージ補佐官を、まるで軽い布きれのように壁に叩きつけた。


ドォン!


セージ補佐官は眼鏡を吹き飛ばし、そのまま気を失った。


一瞬の出来事だった。


「……ふぅ」


キース様が息を整えた。


その顔は、極度の怒りの後の疲労と、まだ収まらない甘味への欲求で歪んでいた。


「キース様!」


私は慌てて、焼き上がったばかりのクレープを手に取り、駆け寄った。


「お疲れ様でした! これを!」


「……なんだ。甘くないぞ」


キース様は警戒心いっぱいの目で、クレープを見た。


「すみません、砂糖がなくて。でも、美味しいですよ! 自家製の保存チーズとジャガイモです!」


私は無理やり、クレープをキース様の口元に押し付けた。


「ほら、あーん!」


反射的に、キース様が口を開く。


パクり。


「……!」


キース様の目が、再び見開かれた。


「……悪くない。塩気と、チーズのコクが……美味い」


「でしょう? これで一旦、栄養補給を」


私は二枚目も押し付けた。


キース様はガツガツとそれを食べた。


その姿は、飢えた獣のようだ。


「……さて」


キース様がクレープを平らげると、ようやく落ち着きを取り戻した。


「この男はどうする」


「生かしておきましょう。彼の持つ王都の情報が必要です」


私はセージ補佐官を指差した。


「でも、王都に戻るには、どうしましょう。馬車は壊れたまま……」


「心配ない」


キース様は、砕けた壁の向こうを指差した。


そこには、彼の帰りを待っていた公爵家の屈強な護衛隊が、ずらりと並んでいた。


「お帰りなさいませ、閣下! ジンジャー様!」


「ガストン、バニラビーンズを積んでおけ! 帰城だ!」


「イエッサー!」


こうして、私の誘拐事件は、わずか二日で幕を閉じた。


犯人の要求は満たされず、逆にクレープを食べさせられるという珍事付きで。


キース様は私の手を握ると、力強く言った。


「もう二度と、貴様を俺の側から離さん。……特に、三時のおやつ時はな」


「はい、キース様!」


私は笑顔で頷いた。


地下室の隅で、気を失ったままのセージ補佐官が「……甘いものが……欲しい……」と呻いた声は、誰にも届かなかった。


そして、物語は決戦の地へ向かう。
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