「婚約破棄だ!二度と顔を見せるな!」と言われたので。

夏乃みのり

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「誘拐罪で訴えますよ。賠償金は、私の精神的苦痛と時間の損失を含めて金貨一万枚からスタートです」


走り出した馬車の中で、私は対面に座る男――宰相クラウス・ハミルトンを睨みつけました。

しかし、この『歩く冷蔵庫』は、私の脅しなどそよ風程度にしか感じていないようです。

彼は組んだ足を優雅に組み替え、窓の外を流れる夜景を眺めたまま口を開きました。


「君を『保護』したのだ。感謝されこそすれ、訴えられる筋合いはないな」


「保護? 拉致の間違いでは?」


「あのまま会場にいれば、君は興奮したギルバート殿下の親衛隊に囲まれていただろう。もしくは、君が提示した借用書を力尽くで奪い返そうとする輩が出たかもしれない」


「……む」


痛いところを突かれました。

確かに、あの場での勝利は確定しましたが、その後の撤退戦にはリスクがありました。

証拠書類を持っている私が襲撃される可能性は、計算に入れておくべきでした。


「それに、君には私の屋敷に来てもらう必要がある。王宮の執務室は、明日から使い物にならなくなるだろうからな」


「どういう意味ですか?」


「君が去った後の王宮だぞ? 想像がつくだろう」


クラウス様は、モノクルの奥の瞳をすっと細めました。

その目には、同情というよりは、これから起こる惨劇を楽しむような色が浮かんでいます。


「……まあ、確かに。明日になれば、財務省の役人たちが泣き叫びながら私の部屋を捜索することになるでしょうね。『あの書類はどこだ!』『予算の配分表がない!』と」


「そうだ。そして彼らは気づく。すべての業務が、君という一本の柱で支えられていたことに」


「ふん、自業自得です」


私は鼻を鳴らしました。

馬車は石畳を滑るように進み、やがて王宮の裏門――下級貴族や職員が使用する通用口へと近づいていきます。


「ところでクラウス様。私の荷物はどうしてくれるのですか? 着の身着のままで再就職などお断りですが」


「安心しろ。一度、君の部屋に寄る」


「部屋に?」


「ああ。必要なものをまとめろ。護衛をつけるから、手早く済ませるんだぞ。殿下が追いかけてくる前に」


「手早く、ですね。承知しました」


馬車が止まりました。

私がかつて与えられていた、王宮の離れにある自室の前です。

ここは『王太子の婚約者』としての部屋でしたが、実質的には『王宮の何でも屋』の作業場と化していました。


「三分待ってください」


「……は?」


クラウス様が眉をひそめました。


「三分だ。着替えや化粧道具、宝石類を選ぶだけで一時間はかかるだろう」


「いえ、三分で十分です」


私は馬車を飛び降り、呆れるクラウス様を放置して階段を駆け上がりました。

扉を開け、自室に入ります。


そこには、殺風景な空間が広がっていました。

壁に飾られていた絵画も、棚に並んでいた高価な置物も、クローゼットのドレスも、すでにありません。

部屋の中央に、木箱が三つ、整然と積まれているだけです。


「よし、予定通り」


私は懐から呼子笛を取り出し、短く吹きました。

すると、天井裏から黒装束の影が二つ、音もなく降りてきました。

私が個人的に雇っていた、情報収集用の密偵たちです。


「お嬢、合図が早すぎやしませんか?」


「予定が前倒しになったの。この木箱を下の馬車へ。一番上の箱は『重要書類と金塊』だから慎重に。下の二つは『着替えと洗面用具』だから多少雑でもいいわ」


「へいへい」


彼らは手慣れた様子で木箱を担ぎ上げると、窓から外へと飛び出していきました。

私は部屋をぐるりと見渡します。

机の上に、一枚の紙きれを残しました。

『退職届』と書かれたその紙の横に、部屋の鍵を置きます。


「さようなら、私のブラック労働時代」


感慨に浸ること、わずか二秒。

私は踵を返し、廊下へと出ました。


すると、角を曲がったところで、ばったりと遭遇してしまったのです。

よりによって、一番会いたくない人物たちに。


「あれぇ? メロメお姉様?」


間の抜けた声。

ミミ男爵令嬢と、その腰に手を回しているギルバート殿下でした。

パーティー会場から戻り、どうやらミミ嬢を部屋まで送る途中だったようです。


「……チッ」


「おい、今舌打ちしたな!?」


ギルバート殿下が即座に反応しました。


「空耳ですわ、殿下。お二人は、まだいちゃついて……いえ、愛を育んでおられたのですか? どうぞお構いなく、私はこれで」


「待て! 貴様、ここで何をしている! まさか、悔しくて泣きに戻ってきたのか?」


殿下がニヤリと笑いました。

借用書にサインさせられた屈辱を、少しでも晴らしたいのでしょう。


「それとも、私との思い出の品を持ち出そうとでも? 残念だったな、この部屋にあるものはすべて王家の所有物……」


ドスッ!!


その時、窓の外から鈍い音が響きました。

私の密偵たちが、うっかり木箱の一つを馬車の屋根に落としてしまったようです。


「な、なんだ今の音は!?」


「ただの引越し作業です。私の私物はすべて搬出済みですので、ご安心を」


「は? 搬出済み?」


殿下が部屋の中を覗き込み、絶句しました。

あまりにも空っぽだったからです。


「い、いつの間に……?」


「いつの間にと言われましても。殿下が『婚約破棄する』と仰る三ヶ月前から、徐々に荷物を実家や隠れ家に送っておりましたので」


「さ、三ヶ月前……!?」


「リスクヘッジは基本です」


私は懐中時計を確認しました。


「おっと、あと三十秒しかありません」


「すっごーい! お姉様、忍法みたいですね!」


ミミ嬢がパチパチと手を叩きました。

その目はキラキラと輝いており、嫌味の欠片も感じさせません。


「私、荷造り苦手なんですぅ。いつもパンツとか忘れちゃってぇ。お姉様はどうやってそんなに早くできるんですかぁ?」


「……秘訣は、余計な執着を捨てることです。思い出も、パンツも」


「パンツは捨てちゃダメですよぉ!」


「例え話です」


ミミ嬢の会話のレベルに合わせている暇はありません。

私は殿下に向き直りました。


「それでは殿下、今度こそ失礼いたします。あ、そうそう。机の引き出しに入っている『マニュアル』ですが、あれを読まないと明日の朝礼で恥をかきますよ」


「マニュアルだと?」


「『王太子のための、一から始める公務入門』です。私が手書きで作っておきました。漢字にはルビを振っておきましたので、殿下でも読めるはずです」


「き、貴様ぁ……!! 最後まで私を馬鹿にして……!!」


「感謝こそすれ、怒られる筋合いはありませんわ」


私は先ほどのクラウス様の台詞を借用し、優雅にカーテシーをしました。

そして、怒髪天を突く勢いの殿下と、なぜか「お姉様かっこいい~」と手を振るミミ嬢を背に、階段を駆け下ります。


馬車の前では、クラウス様が時計を見ていました。


「……二分五十八秒」


「間に合いましたね」


私が涼しい顔で戻ると、クラウス様は少しだけ目を丸くし、それから喉の奥でクックッと笑いました。


「まさか、本当に終わらせるとはな。あの木箱がすべてか?」


「はい。私の全財産であり、私の武器です」


「中身は?」


「教えません。企業秘密です」


嘘です。

一番上の箱には、王宮の裏帳簿の写しと、貴族たちの弱みリストがぎっしり詰まっています。

これを宰相に見られたら、即座に没収されるでしょう。


「まあいい。乗れ」


私は再び馬車に乗り込みました。

今度こそ、王宮とはおさらばです。

馬車が動き出すと、窓の外に遠ざかっていく王城が見えました。


「寂しいか?」


クラウス様が不意に尋ねてきました。


「まさか。清々しています」


「強がりには聞こえないな」


「当然です。あそこは私にとって、職場であり戦場でしたから。愛着なんて、これっぽっちも湧きません」


私は指先で、ほんの少しの隙間を作って示しました。


「ドライな女だ」


「合理的と言ってください」


「だが、これからは私の屋敷が君の職場になる。覚悟しておけよ、我が家の執務量は王宮の比ではない」


「……条件闘争をさせてください。まず、週休二日制の導入を」


「却下だ」


「では、残業代の割増率を五割増しに」


「検討しよう」


「有給休暇は?」


「成果次第だ」


馬車の中での攻防戦は続きます。

しかし不思議と、不快ではありませんでした。

会話が成立する。

言葉が通じる。

それだけのことが、こんなにも心地よいとは。


ギルバート殿下との会話は、常に壁に向かってボールを投げているようなものでしたから。


「到着だ」


しばらくして、馬車が重厚な鉄格子の門をくぐりました。

王宮に次ぐ威容を誇る、ハミルトン公爵邸。

ここが、私の新しい戦場――いいえ、就職先です。


「ようこそ、我が家へ。歓迎するよ、メロメ」


クラウス様が手を差し出しました。

その手を取るかどうか、一瞬悩みましたが、私はビジネスライクに握手に応じることにしました。


「お世話になります、雇い主様(ボス)。……で、今日の夕食は出ますか? 経費で」


クラウス様は、こらえきれないように吹き出しました。


「ああ、最高級のディナーを用意させよう。君のその、素晴らしい守銭奴精神に敬意を表して」
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