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「……キース様。先ほどから、その書類の山と睨めっこして三十分。ペンが一度も動いていませんけれど、もしかしてゲシュタルト崩壊でも起こされましたか?」
騎士団宿舎の端に設けた「仮設事務所」――という名の、私の豪華なテント。
そこから訓練場を眺めていた私は、隣の執務スペースで頭を抱えるキース様に声をかけた。
キース様は、血走った目で私を睨みつけた。
その眉間の皺……。ううむ、皺によって寄る眉丘筋(びきゅうきん)の盛り上がりも、また乙なものですわね。
「アステリア公嬢……。君はなぜ、当たり前のように私の執務室の隣に陣取っているんだ」
「土地の権利者として、近隣住民(予定)と良好な関係を築くのは当然の義務です。それより、その書類。見せてごらんなさい。……ほう、備品の調達依頼書ですか」
私はキース様の手から、ひょいと紙を取り出した。
彼は「あ、おい!」と声を上げるが、私の目速(めぞく)は既に全体をスキャンし終えている。
「……酷い。これは書類ではなく、ただの落書きですわ。木剣の購入希望数が『いっぱい』、盾の修繕費が『たぶんこれくらい』。これを作成したのはどこの筋肉ダルマですか?」
「……うちの副団長だ。彼は腕はいいのだが、数字に弱くてな」
「筋肉を鍛えて脳まで筋肉にする必要はありません。キース様、貸してください。……パチパチパチ、パチパチ……」
私は懐から算盤を取り出すと、電光石火の速さで計算を開始した。
昨年度の予算、現在の在庫、そして騎士団員の増加率を脳内データベースから照合する。
「去年の摩耗率から逆算すれば、木剣は五十本で足ります。予備を含めて五十五本。業者はバルタス商会ではなく、こちらのケインズ工房に。あちらは今、過剰在庫でセール中です。……はい、これで二割のコストカットですわ」
私は数分で書き直した書類を、キース様の前に叩きつけた。
「な……。君、今、暗算でやったのか?」
「算盤を使いました。……それから、こちらの遠征報告書。無駄な形容詞が多すぎます。『空は青く、我らの士気は燃え上がっていた』なんて一文は、予算申請には不要です。『晴天、異常なし』。これで十分ですわ」
「しかし、それでは味気ないというか……」
「味気よりも利益です、キース様。報告書を読む文官の時間は有限。彼らの時給を考えれば、一行読むのに一秒短縮するだけで、国全体の経済効果は……パチパチ……年間で数千万ゴールドに上りますわ」
キース様は、呆然と私の手元を見つめていた。
その視線が私の指先に注がれているのを感じ、私はわざとしなやかに、かつ力強く算盤を弾いて見せる。
計算する指の動き、それは一種の舞踊。
そして、その正確性は、揺るぎない「力」の証明。
「アステリア公嬢……。君は、なぜこれほどの能力がありながら、セドリック殿下の影に隠れていたんだ?」
「影に隠れていたのではありませんわ。支えていたのです。……もっとも、あの底の抜けたバケツに水を注ぎ続ける作業には、ほとほと嫌気が差していましたが」
私はふぅ、と溜息をつき、キース様を真っ直ぐに見つめた。
「キース様。騎士団の皆様は、国の宝です。その宝が、こんな低レベルな事務作業で疲弊し、本来の訓練時間を削られるなど、国家的な損失ですわ。……決めました」
「何をだ」
「今日から私が、騎士団の『事務改善アドバイザー』に就任いたします。もちろん無償で。いえ、報酬は『訓練見学の自由権』と『キース様の筋肉の定点観測許可』で手を打ちましょう」
「定点……何だと?」
キース様が顔を引き攣らせる。
だが、私は構わず、執務室の机に散乱していた書類を次々と整理し始めた。
「さあ、キース様! まずはその、無駄に分厚い大胸筋を……あ、間違えました、無駄に分厚い報告書を整理しましょう! 効率化の先には、輝かしい筋肉の未来が待っていますわよ!」
「……君と話していると、自分の常識がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ」
そう言いながらも、キース様はどこか安心したようにペンを取った。
その太い腕が、私の整理した書類の上を滑っていく。
(ふふ……。仕事ができる男の筋肉は、より一層輝いて見えますわね)
私がパチパチと算盤を弾く音と、キース様がペンを走らせる音。
意外にも、その二つの音は心地よいリズムを刻み、静かな執務室に響き渡った。
……しかし。
そんな平和な時間は、長くは続かなかった。
「ジェーリカーーー! どこだジェリカ! 僕を差し置いて、こんな男と密会しているとはどういうつもりだ!」
執務室の扉が、勢いよく蹴破られた。
現れたのは、顔を真っ赤にしたセドリック殿下。
その後ろでは、リリアン様が申し訳なさそうに(でも目は笑いながら)付いてきている。
私は、算盤を弾く手を止めた。
……そして、深い深い、海底よりも深い溜息をついた。
「殿下。ここは神聖な騎士団の執務室です。不法侵入で算盤の角で殴られたいのですか?」
「誰が不法侵入だ! 僕は皇太子だぞ!」
「『元』婚約者の仕事場に許可なく押し入る人間を、世間ではストーカー、あるいは『往期見苦しい男』と呼びますわよ」
私の冷徹な一言に、セドリック殿下が「ぐぬっ」と言葉を詰まらせる。
さて、この非効率極まりない不良債権を、どう処理して差し上げましょうか。
騎士団宿舎の端に設けた「仮設事務所」――という名の、私の豪華なテント。
そこから訓練場を眺めていた私は、隣の執務スペースで頭を抱えるキース様に声をかけた。
キース様は、血走った目で私を睨みつけた。
その眉間の皺……。ううむ、皺によって寄る眉丘筋(びきゅうきん)の盛り上がりも、また乙なものですわね。
「アステリア公嬢……。君はなぜ、当たり前のように私の執務室の隣に陣取っているんだ」
「土地の権利者として、近隣住民(予定)と良好な関係を築くのは当然の義務です。それより、その書類。見せてごらんなさい。……ほう、備品の調達依頼書ですか」
私はキース様の手から、ひょいと紙を取り出した。
彼は「あ、おい!」と声を上げるが、私の目速(めぞく)は既に全体をスキャンし終えている。
「……酷い。これは書類ではなく、ただの落書きですわ。木剣の購入希望数が『いっぱい』、盾の修繕費が『たぶんこれくらい』。これを作成したのはどこの筋肉ダルマですか?」
「……うちの副団長だ。彼は腕はいいのだが、数字に弱くてな」
「筋肉を鍛えて脳まで筋肉にする必要はありません。キース様、貸してください。……パチパチパチ、パチパチ……」
私は懐から算盤を取り出すと、電光石火の速さで計算を開始した。
昨年度の予算、現在の在庫、そして騎士団員の増加率を脳内データベースから照合する。
「去年の摩耗率から逆算すれば、木剣は五十本で足ります。予備を含めて五十五本。業者はバルタス商会ではなく、こちらのケインズ工房に。あちらは今、過剰在庫でセール中です。……はい、これで二割のコストカットですわ」
私は数分で書き直した書類を、キース様の前に叩きつけた。
「な……。君、今、暗算でやったのか?」
「算盤を使いました。……それから、こちらの遠征報告書。無駄な形容詞が多すぎます。『空は青く、我らの士気は燃え上がっていた』なんて一文は、予算申請には不要です。『晴天、異常なし』。これで十分ですわ」
「しかし、それでは味気ないというか……」
「味気よりも利益です、キース様。報告書を読む文官の時間は有限。彼らの時給を考えれば、一行読むのに一秒短縮するだけで、国全体の経済効果は……パチパチ……年間で数千万ゴールドに上りますわ」
キース様は、呆然と私の手元を見つめていた。
その視線が私の指先に注がれているのを感じ、私はわざとしなやかに、かつ力強く算盤を弾いて見せる。
計算する指の動き、それは一種の舞踊。
そして、その正確性は、揺るぎない「力」の証明。
「アステリア公嬢……。君は、なぜこれほどの能力がありながら、セドリック殿下の影に隠れていたんだ?」
「影に隠れていたのではありませんわ。支えていたのです。……もっとも、あの底の抜けたバケツに水を注ぎ続ける作業には、ほとほと嫌気が差していましたが」
私はふぅ、と溜息をつき、キース様を真っ直ぐに見つめた。
「キース様。騎士団の皆様は、国の宝です。その宝が、こんな低レベルな事務作業で疲弊し、本来の訓練時間を削られるなど、国家的な損失ですわ。……決めました」
「何をだ」
「今日から私が、騎士団の『事務改善アドバイザー』に就任いたします。もちろん無償で。いえ、報酬は『訓練見学の自由権』と『キース様の筋肉の定点観測許可』で手を打ちましょう」
「定点……何だと?」
キース様が顔を引き攣らせる。
だが、私は構わず、執務室の机に散乱していた書類を次々と整理し始めた。
「さあ、キース様! まずはその、無駄に分厚い大胸筋を……あ、間違えました、無駄に分厚い報告書を整理しましょう! 効率化の先には、輝かしい筋肉の未来が待っていますわよ!」
「……君と話していると、自分の常識がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ」
そう言いながらも、キース様はどこか安心したようにペンを取った。
その太い腕が、私の整理した書類の上を滑っていく。
(ふふ……。仕事ができる男の筋肉は、より一層輝いて見えますわね)
私がパチパチと算盤を弾く音と、キース様がペンを走らせる音。
意外にも、その二つの音は心地よいリズムを刻み、静かな執務室に響き渡った。
……しかし。
そんな平和な時間は、長くは続かなかった。
「ジェーリカーーー! どこだジェリカ! 僕を差し置いて、こんな男と密会しているとはどういうつもりだ!」
執務室の扉が、勢いよく蹴破られた。
現れたのは、顔を真っ赤にしたセドリック殿下。
その後ろでは、リリアン様が申し訳なさそうに(でも目は笑いながら)付いてきている。
私は、算盤を弾く手を止めた。
……そして、深い深い、海底よりも深い溜息をついた。
「殿下。ここは神聖な騎士団の執務室です。不法侵入で算盤の角で殴られたいのですか?」
「誰が不法侵入だ! 僕は皇太子だぞ!」
「『元』婚約者の仕事場に許可なく押し入る人間を、世間ではストーカー、あるいは『往期見苦しい男』と呼びますわよ」
私の冷徹な一言に、セドリック殿下が「ぐぬっ」と言葉を詰まらせる。
さて、この非効率極まりない不良債権を、どう処理して差し上げましょうか。
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