婚約破棄、万歳!あとは推しを愛でるだけの簡単なお仕事です

夏乃みのり

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「……殿下。入室の際、扉を蹴破るという行為がどれほどの損失を生むか、ご存知ですか?」

私は算盤をデスクに置き、ゆっくりと立ち上がった。
目の前で肩を上下させているセドリック殿下は、額に青筋を浮かべて私とキース様を交互に指差している。

「うるさい! ジェリカ、貴様……あんなに潔く身を引いたふりをして、裏では騎士団長を誘惑していたのか! この破廉恥な女め!」

「誘惑? 心外ですわね。私はただ、この国で最も効率的に配置された『筋肉』という名の国家資産を保護し、その運用を円滑にするための事務補助を行っているだけです」

「何が資産だ! 言い訳はやめろ!」

セドリック殿下の怒声が執務室に響く。
その横で、リリアン様が「まあ、殿下……。ジェリカ様にもきっと、寂しさゆえの事情があるのですわ」と、油を注ぐような台詞を吐いた。

「リリアン様、お静かに。あなたのその『上目遣いで同情を誘う』際に使用される眼輪筋(がんりんきん)の動き、過剰すぎて筋肉痛になりませんこと?」

「え……? がんりん……?」

「それよりも殿下。先ほど蹴破られた扉ですが。マホガニー製の特注品、彫刻入り。修繕費と工期を合わせれば、およそ五万ゴールドの損害です。これは殿下の私費から差し引いてよろしいですね?」

「そんな端金、どうでもいい! それよりジェリカ、お前を連れ戻しに来てやったぞ。特別に、僕の『筆頭事務官』として王宮に戻ることを許してやる」

私は思わず、手に持っていた算盤を落としそうになった。
今、この男は何と言った?

「……失礼。聞き間違いでしょうか。今、『筆頭事務官』とおっしゃいましたか?」

「そうだ! リリアンが王妃教育で忙しい間、お前が実務をこなせばいい。僕の慈悲に感謝しろ」

私は深く、深ーく溜息をついた。
隣でキース様が「おい、殿下。それはあまりにも……」と口を出そうとしたが、私は手でそれを制した。

「パチ、パチパチパチ……」

私は無言で算盤を弾き始める。

「な、何だ、またその音か!」

「殿下。計算が終了しました。結論から申し上げます。……お断りしますわ。死んでも嫌です」

「なっ……!?」

「殿下、今の私の一秒は、金貨一枚に相当する価値があります。その貴重な時間を、一円の利益も生まないどころか、私のストレス値を急上昇させるだけのあなたの世話に充てるなど、国家的な損失という名の犯罪です」

私は一歩、殿下へと詰め寄った。

「第一、今の私は『自由』なのです。朝、誰に気兼ねすることなく騎士団の朝練を眺め、昼、キース様の美しい筋肉の動きに感嘆し、夜、帳簿を整理して眠る。この完璧な生活リズムを、なぜあなたの拙い書類の尻拭いのために破壊されねばならないのですか?」

「き、貴様……。僕よりも、その……騎士団長の筋肉の方が大事だと言うのか!」

「比較すること自体が、筋肉に対する冒涜ですわ」

私はキース様の背後に回り、その逞しい肩を勝手に指し示した。

「見てください。この僧帽筋(そうぼうきん)から広背筋(こうはいきん)にかけての流れるようなライン。これは長年の鍛錬と節制、そして高潔な精神が宿って初めて完成する芸術品です。対して、殿下のその……締まりのないわがままボディは、一体何を表しているのです?」

「わ、わがまま……!?」

「ええ。怠慢と、甘えと、非効率の塊ですわ。殿下、そんなに私が必要なら、まずはそのお腹周りの脂肪を三割カットしてから出直してきてください」

セドリック殿下は、顔を真っ白にしたり真っ赤にしたりと忙しい。
リリアン様に至っては、私の「筋肉講義」に圧倒されて半開きになった口が塞がらないようだ。

「……アステリア公嬢。気持ちは嬉しいが、私の筋肉を盾に殿下を煽るのはやめてくれないか」

キース様が困ったように、私の頭を軽く押さえて距離を取らせた。
その手のひらの厚み。硬いタコのできた指先。

(ああ……! この手の感触。これが『守るための手』……。素晴らしい、十点満点中、一億点ですわ!)

「キース……! 貴様、ジェリカとそんなに親密な仲なのか!」

「いえ、殿下。私はただ、彼女が勝手に私の周囲を測定し、数値を記録しているのを止められないだけで……」

「言い訳は無用だ! ジェリカ、覚悟しておけ。王家に逆らって、この国で生きていけると思うなよ!」

セドリック殿下は捨て台詞を吐くと、リリアン様の手を引いて嵐のように去っていった。
蹴破られた扉が、寂しげにギィ、と音を立てる。

静寂が戻った執務室で、私は再び算盤を手に取った。

「……やれやれ。非生産的な時間でしたわ。キース様、今の騒動で私の作業時間が十五分ロスしました。補填として、次の演習では是非とも『重装備なしの木登り訓練』を取り入れていただきたいのですが」

「……何のためにだ」

「広背筋の、よりダイレクトな収縮を確認するためです」

「却下だ」

キース様は深く溜息をつき、椅子に座り直した。
そして、少しだけ視線を逸らしながら、ボソリと呟いた。

「……さっきの言葉。本気か?」

「え? 脂肪を三割カットせよ、という話ですか?」

「違う。……私の方が、殿下より……その……価値があるという話だ」

私は、キース様の顔をまじまじと見つめた。
彫りの深い横顔。照れ隠しにペンを握りしめる、血管の浮いた手元。

「当たり前ではありませんか。比べるまでもありません。キース様、あなたは私の『推し』であり、この国の『至宝』なのですから」

「おし……? しほう……?」

キース様にはまだ私の語彙が理解できないようだが、その耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。

(ふふふ……。算盤の珠は嘘をつきません。私の心拍数、現在平常時の二割増し。これもすべて、目の前の良質な筋肉のおかげですわね)

私は上機嫌で、再び帳簿に向き合った。
元婚約者の嫌がらせなど、鍛え抜かれた筋肉の前では無力に等しい。
そう、筋肉こそが、この世の真理(ロジック)なのだから。
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