婚約破棄、万歳!あとは推しを愛でるだけの簡単なお仕事です

夏乃みのり

文字の大きさ
5 / 28

5

しおりを挟む
「……殿下。入室の際、扉を蹴破るという行為がどれほどの損失を生むか、ご存知ですか?」

私は算盤をデスクに置き、ゆっくりと立ち上がった。
目の前で肩を上下させているセドリック殿下は、額に青筋を浮かべて私とキース様を交互に指差している。

「うるさい! ジェリカ、貴様……あんなに潔く身を引いたふりをして、裏では騎士団長を誘惑していたのか! この破廉恥な女め!」

「誘惑? 心外ですわね。私はただ、この国で最も効率的に配置された『筋肉』という名の国家資産を保護し、その運用を円滑にするための事務補助を行っているだけです」

「何が資産だ! 言い訳はやめろ!」

セドリック殿下の怒声が執務室に響く。
その横で、リリアン様が「まあ、殿下……。ジェリカ様にもきっと、寂しさゆえの事情があるのですわ」と、油を注ぐような台詞を吐いた。

「リリアン様、お静かに。あなたのその『上目遣いで同情を誘う』際に使用される眼輪筋(がんりんきん)の動き、過剰すぎて筋肉痛になりませんこと?」

「え……? がんりん……?」

「それよりも殿下。先ほど蹴破られた扉ですが。マホガニー製の特注品、彫刻入り。修繕費と工期を合わせれば、およそ五万ゴールドの損害です。これは殿下の私費から差し引いてよろしいですね?」

「そんな端金、どうでもいい! それよりジェリカ、お前を連れ戻しに来てやったぞ。特別に、僕の『筆頭事務官』として王宮に戻ることを許してやる」

私は思わず、手に持っていた算盤を落としそうになった。
今、この男は何と言った?

「……失礼。聞き間違いでしょうか。今、『筆頭事務官』とおっしゃいましたか?」

「そうだ! リリアンが王妃教育で忙しい間、お前が実務をこなせばいい。僕の慈悲に感謝しろ」

私は深く、深ーく溜息をついた。
隣でキース様が「おい、殿下。それはあまりにも……」と口を出そうとしたが、私は手でそれを制した。

「パチ、パチパチパチ……」

私は無言で算盤を弾き始める。

「な、何だ、またその音か!」

「殿下。計算が終了しました。結論から申し上げます。……お断りしますわ。死んでも嫌です」

「なっ……!?」

「殿下、今の私の一秒は、金貨一枚に相当する価値があります。その貴重な時間を、一円の利益も生まないどころか、私のストレス値を急上昇させるだけのあなたの世話に充てるなど、国家的な損失という名の犯罪です」

私は一歩、殿下へと詰め寄った。

「第一、今の私は『自由』なのです。朝、誰に気兼ねすることなく騎士団の朝練を眺め、昼、キース様の美しい筋肉の動きに感嘆し、夜、帳簿を整理して眠る。この完璧な生活リズムを、なぜあなたの拙い書類の尻拭いのために破壊されねばならないのですか?」

「き、貴様……。僕よりも、その……騎士団長の筋肉の方が大事だと言うのか!」

「比較すること自体が、筋肉に対する冒涜ですわ」

私はキース様の背後に回り、その逞しい肩を勝手に指し示した。

「見てください。この僧帽筋(そうぼうきん)から広背筋(こうはいきん)にかけての流れるようなライン。これは長年の鍛錬と節制、そして高潔な精神が宿って初めて完成する芸術品です。対して、殿下のその……締まりのないわがままボディは、一体何を表しているのです?」

「わ、わがまま……!?」

「ええ。怠慢と、甘えと、非効率の塊ですわ。殿下、そんなに私が必要なら、まずはそのお腹周りの脂肪を三割カットしてから出直してきてください」

セドリック殿下は、顔を真っ白にしたり真っ赤にしたりと忙しい。
リリアン様に至っては、私の「筋肉講義」に圧倒されて半開きになった口が塞がらないようだ。

「……アステリア公嬢。気持ちは嬉しいが、私の筋肉を盾に殿下を煽るのはやめてくれないか」

キース様が困ったように、私の頭を軽く押さえて距離を取らせた。
その手のひらの厚み。硬いタコのできた指先。

(ああ……! この手の感触。これが『守るための手』……。素晴らしい、十点満点中、一億点ですわ!)

「キース……! 貴様、ジェリカとそんなに親密な仲なのか!」

「いえ、殿下。私はただ、彼女が勝手に私の周囲を測定し、数値を記録しているのを止められないだけで……」

「言い訳は無用だ! ジェリカ、覚悟しておけ。王家に逆らって、この国で生きていけると思うなよ!」

セドリック殿下は捨て台詞を吐くと、リリアン様の手を引いて嵐のように去っていった。
蹴破られた扉が、寂しげにギィ、と音を立てる。

静寂が戻った執務室で、私は再び算盤を手に取った。

「……やれやれ。非生産的な時間でしたわ。キース様、今の騒動で私の作業時間が十五分ロスしました。補填として、次の演習では是非とも『重装備なしの木登り訓練』を取り入れていただきたいのですが」

「……何のためにだ」

「広背筋の、よりダイレクトな収縮を確認するためです」

「却下だ」

キース様は深く溜息をつき、椅子に座り直した。
そして、少しだけ視線を逸らしながら、ボソリと呟いた。

「……さっきの言葉。本気か?」

「え? 脂肪を三割カットせよ、という話ですか?」

「違う。……私の方が、殿下より……その……価値があるという話だ」

私は、キース様の顔をまじまじと見つめた。
彫りの深い横顔。照れ隠しにペンを握りしめる、血管の浮いた手元。

「当たり前ではありませんか。比べるまでもありません。キース様、あなたは私の『推し』であり、この国の『至宝』なのですから」

「おし……? しほう……?」

キース様にはまだ私の語彙が理解できないようだが、その耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。

(ふふふ……。算盤の珠は嘘をつきません。私の心拍数、現在平常時の二割増し。これもすべて、目の前の良質な筋肉のおかげですわね)

私は上機嫌で、再び帳簿に向き合った。
元婚約者の嫌がらせなど、鍛え抜かれた筋肉の前では無力に等しい。
そう、筋肉こそが、この世の真理(ロジック)なのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

[完結]気付いたらザマァしてました(お姉ちゃんと遊んでた日常報告してただけなのに)

みちこ
恋愛
お姉ちゃんの婚約者と知らないお姉さんに、大好きなお姉ちゃんとの日常を報告してただけなのにザマァしてたらしいです 顔文字があるけどウザかったらすみません

王太子妃に興味はないのに

藤田菜
ファンタジー
眉目秀麗で芸術的才能もある第一王子に比べ、内気で冴えない第二王子に嫁いだアイリス。周囲にはその立場を憐れまれ、第一王子妃には冷たく当たられる。しかし誰に何と言われようとも、アイリスには関係ない。アイリスのすべきことはただ一つ、第二王子を支えることだけ。 その結果誰もが羨む王太子妃という立場になろうとも、彼女は何も変わらない。王太子妃に興味はないのだ。アイリスが興味があるものは、ただ一つだけ。

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

出来損ないの私がお姉様の婚約者だった王子の呪いを解いてみた結果→

AK
恋愛
「ねえミディア。王子様と結婚してみたくはないかしら?」 ある日、意地の悪い笑顔を浮かべながらお姉様は言った。 お姉様は地味な私と違って公爵家の優秀な長女として、次期国王の最有力候補であった第一王子様と婚約を結んでいた。 しかしその王子様はある日突然不治の病に倒れ、それ以降彼に触れた人は石化して死んでしまう呪いに身を侵されてしまう。 そんは王子様を押し付けるように婚約させられた私だけど、私は光の魔力を有して生まれた聖女だったので、彼のことを救うことができるかもしれないと思った。 お姉様は厄介者と化した王子を押し付けたいだけかもしれないけれど、残念ながらお姉様の思い通りの展開にはさせない。

殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね

さこの
恋愛
恋がしたい。 ウィルフレッド殿下が言った… それではどうぞ、美しい恋をしてください。 婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました! 話の視点が回毎に変わることがあります。 緩い設定です。二十話程です。 本編+番外編の別視点

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

彼は亡国の令嬢を愛せない

黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。 ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。 ※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。 ※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。

処理中です...