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夜の闇を切り裂くように走っていた馬車が、やがてゆっくりと速度を落とす。
見慣れた鉄の門をくぐり抜けると、そこは私の生まれた家、クライネルト公爵家の屋敷だった。
馬車が完全に停止し、従者が扉を開ける。
一歩外へ踏み出すと、懐かしい庭の草木の香りが鼻をくすぐった。
「お帰りなさいませ、リーリアお嬢様」
執事をはじめ、使用人たちがずらりと並んで私を出迎えてくれた。
皆、心配そうな、それでいてどこか同情するような複雑な表情を浮かべている。
まあ、そうだろう。彼らにとっては、主家の娘が婚約破棄されて帰ってきたのだから、一大事に違いない。
「ただいま戻りました」
私が小さなトランク一つで馬車を降りるのを見て、彼らの間に動揺が走るのがわかった。
きっと、泣きながら大量の荷物と共に帰ってくるとでも思っていたのだろう。
正面玄関の重厚な扉が開かれると、ホールには煌々と明かりが灯っていた。
そして、その中央には。
「おかえり、リーリア」
「お帰りなさい、可愛いリーリア」
「よお、ずいぶんあっさりしたお帰りだな」
父であるアルベルト・フォン・クライネルト公爵。
母であるセラフィーナ・フォン・クライネルト公爵夫人。
そして、三つ年上の兄、アベル・フォン・クライネルト。
家族全員が、こんな深夜にもかかわらず、私を待っていてくれたのだった。
「お父様、お母様、お兄様……。ただいま戻りました。この度は、わたくしの不行き届きにより、クライネルト家に多大なるご迷惑を……」
謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。
「何を言うんだ、リーリア」
厳格な顔つきの父が、ふっとその表情を和らげた。
「迷惑だなどと、誰が言った? 長年、王家のために尽くしてくれたお前を、我らは誇りに思っている。……ご苦労だったな。もう、何も背負う必要はないのだ」
その優しい言葉に、思わず目頭が熱くなる。
まさか、責められるどころか、労いの言葉をかけられるなんて。
「本当に! お父様の言う通りですわ!」
ふわりと花の香りをさせた母が、私を優しく抱きしめた。
「まあ、少しお痩せになったのではなくて? やはり王宮の暮らしは、あなたには合わなかったのね。大丈夫、これからは美味しいものをたくさん食べて、すぐにふっくらしますわ」
「お母様……」
「そうだぞ、リーリア」
兄が私の頭をくしゃりと撫でる。
「あの石頭王子と石頭だらけの王宮から、よくぞご帰還された。我が妹ながら、見事な引き際だったと褒めてやろう」
からかうような口調の中に、紛れもない優しさが滲んでいた。
どうやら、この家族は誰も、私の婚約破棄を嘆いてはいないらしい。
「さあ、立ち話もなんですし、食堂へ行きましょう。あなたのために、特別なものを用意させてありますのよ」
母に手を引かれ、私たちはダイニングホールへと向かった。
テーブルの中央には、見覚えのあるものが鎮座している。
「まあ……! お母様のお手製の、チョコレート・オペラ!」
それは、私がこの世で一番好きなケーキだった。
濃厚なチョコレートと、香り高いコーヒーバタークリームが何層にも重なった、芸術品のようなケーキ。
「ふふ、婚約破棄記念ですもの。盛大にお祝いしないと」
「記念……」
悪びれもなく言う母に、私は苦笑するしかなかった。
どうやら、私の「面倒くさがり」で「美味しいものが好き」な性格は、この母親譲りらしい。
切り分けられたケーキを一口頬張ると、とろけるような甘さが口いっぱいに広がる。
(ああ……美味しい……! これですわ、これ!)
王宮で出されるどんな高級菓子よりも、私の心を満たしてくれる味。
生き返る心地がした。
「それで、リーリア。これから、どうしたい?」
紅茶を一口すすり、父が穏やかな口調で尋ねた。
「はい、お父様。お願いがあるのですが」
私は一度ナイフとフォークを置くと、居住まいを正した。
「しばらくの間、北のクライネルト領で静養させていただくことは可能でしょうか。あそこの静かな環境で、のんびりと……心と体を休めたいのです」
これは本心だ。
王都の喧騒から離れ、美しい自然の中で、美味しいものを探求しながら生きていきたい。
私の提案に、家族は顔を見合わせ、そして全員がにこやかに頷いた。
「いい考えじゃないか。あそこの領民たちも、お前が来てくれると知ったら喜ぶだろう」
「あちらは美味しい果物や乳製品が豊富ですものね。何か新しいお菓子の着想が浮かぶかもしれませんわ」
「困ったことがあれば、いつでも言え。すぐに駆けつけてやる」
父、母、兄が、それぞれ私の背中を押してくれた。
「でも、よろしいのですか? 王家との関係が、その……」
「気にするな」
父は私の懸念を、一言で切り捨てた。
「婚約を反故にしたのは、あちらの方だ。むしろ、我が娘の心を深く傷つけられたことに対し、抗議したいくらいだ。しばらくは公爵家として、王家とは距離を置かせてもらうと、すでに伝えてある」
なんと頼もしいお父様……!
「だから、お前は何も心配することはない。ただ、己の望むままに、自由に生きなさい。それが、お前の権利だ」
その言葉が、私の胸に温かく染み渡った。
深夜の祝賀会が終わり、私は久しぶりに自分の部屋へと戻った。
王宮の部屋のような華美な装飾はないけれど、私の好きなものだけが置かれた、世界で一番落ち着く空間。
ふかふかのベッドに体を投げ出す。
ずしり、と心地よい重みで体が沈み込んだ。
(ああ……やっぱり、我が家が一番ですわ……)
窓の外では、静かな月が私を見下ろしている。
あの息苦しい王宮は、もう遠い。
明日からは、新しい生活が始まる。
誰にも縛られない、自由で、美味しくて、ちょっぴり怠惰な毎日。
そう考えただけで、自然と笑みがこぼれた。
私は幸せなため息をつくと、そのまま心地よい眠りの中へと落ちていった。
見慣れた鉄の門をくぐり抜けると、そこは私の生まれた家、クライネルト公爵家の屋敷だった。
馬車が完全に停止し、従者が扉を開ける。
一歩外へ踏み出すと、懐かしい庭の草木の香りが鼻をくすぐった。
「お帰りなさいませ、リーリアお嬢様」
執事をはじめ、使用人たちがずらりと並んで私を出迎えてくれた。
皆、心配そうな、それでいてどこか同情するような複雑な表情を浮かべている。
まあ、そうだろう。彼らにとっては、主家の娘が婚約破棄されて帰ってきたのだから、一大事に違いない。
「ただいま戻りました」
私が小さなトランク一つで馬車を降りるのを見て、彼らの間に動揺が走るのがわかった。
きっと、泣きながら大量の荷物と共に帰ってくるとでも思っていたのだろう。
正面玄関の重厚な扉が開かれると、ホールには煌々と明かりが灯っていた。
そして、その中央には。
「おかえり、リーリア」
「お帰りなさい、可愛いリーリア」
「よお、ずいぶんあっさりしたお帰りだな」
父であるアルベルト・フォン・クライネルト公爵。
母であるセラフィーナ・フォン・クライネルト公爵夫人。
そして、三つ年上の兄、アベル・フォン・クライネルト。
家族全員が、こんな深夜にもかかわらず、私を待っていてくれたのだった。
「お父様、お母様、お兄様……。ただいま戻りました。この度は、わたくしの不行き届きにより、クライネルト家に多大なるご迷惑を……」
謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。
「何を言うんだ、リーリア」
厳格な顔つきの父が、ふっとその表情を和らげた。
「迷惑だなどと、誰が言った? 長年、王家のために尽くしてくれたお前を、我らは誇りに思っている。……ご苦労だったな。もう、何も背負う必要はないのだ」
その優しい言葉に、思わず目頭が熱くなる。
まさか、責められるどころか、労いの言葉をかけられるなんて。
「本当に! お父様の言う通りですわ!」
ふわりと花の香りをさせた母が、私を優しく抱きしめた。
「まあ、少しお痩せになったのではなくて? やはり王宮の暮らしは、あなたには合わなかったのね。大丈夫、これからは美味しいものをたくさん食べて、すぐにふっくらしますわ」
「お母様……」
「そうだぞ、リーリア」
兄が私の頭をくしゃりと撫でる。
「あの石頭王子と石頭だらけの王宮から、よくぞご帰還された。我が妹ながら、見事な引き際だったと褒めてやろう」
からかうような口調の中に、紛れもない優しさが滲んでいた。
どうやら、この家族は誰も、私の婚約破棄を嘆いてはいないらしい。
「さあ、立ち話もなんですし、食堂へ行きましょう。あなたのために、特別なものを用意させてありますのよ」
母に手を引かれ、私たちはダイニングホールへと向かった。
テーブルの中央には、見覚えのあるものが鎮座している。
「まあ……! お母様のお手製の、チョコレート・オペラ!」
それは、私がこの世で一番好きなケーキだった。
濃厚なチョコレートと、香り高いコーヒーバタークリームが何層にも重なった、芸術品のようなケーキ。
「ふふ、婚約破棄記念ですもの。盛大にお祝いしないと」
「記念……」
悪びれもなく言う母に、私は苦笑するしかなかった。
どうやら、私の「面倒くさがり」で「美味しいものが好き」な性格は、この母親譲りらしい。
切り分けられたケーキを一口頬張ると、とろけるような甘さが口いっぱいに広がる。
(ああ……美味しい……! これですわ、これ!)
王宮で出されるどんな高級菓子よりも、私の心を満たしてくれる味。
生き返る心地がした。
「それで、リーリア。これから、どうしたい?」
紅茶を一口すすり、父が穏やかな口調で尋ねた。
「はい、お父様。お願いがあるのですが」
私は一度ナイフとフォークを置くと、居住まいを正した。
「しばらくの間、北のクライネルト領で静養させていただくことは可能でしょうか。あそこの静かな環境で、のんびりと……心と体を休めたいのです」
これは本心だ。
王都の喧騒から離れ、美しい自然の中で、美味しいものを探求しながら生きていきたい。
私の提案に、家族は顔を見合わせ、そして全員がにこやかに頷いた。
「いい考えじゃないか。あそこの領民たちも、お前が来てくれると知ったら喜ぶだろう」
「あちらは美味しい果物や乳製品が豊富ですものね。何か新しいお菓子の着想が浮かぶかもしれませんわ」
「困ったことがあれば、いつでも言え。すぐに駆けつけてやる」
父、母、兄が、それぞれ私の背中を押してくれた。
「でも、よろしいのですか? 王家との関係が、その……」
「気にするな」
父は私の懸念を、一言で切り捨てた。
「婚約を反故にしたのは、あちらの方だ。むしろ、我が娘の心を深く傷つけられたことに対し、抗議したいくらいだ。しばらくは公爵家として、王家とは距離を置かせてもらうと、すでに伝えてある」
なんと頼もしいお父様……!
「だから、お前は何も心配することはない。ただ、己の望むままに、自由に生きなさい。それが、お前の権利だ」
その言葉が、私の胸に温かく染み渡った。
深夜の祝賀会が終わり、私は久しぶりに自分の部屋へと戻った。
王宮の部屋のような華美な装飾はないけれど、私の好きなものだけが置かれた、世界で一番落ち着く空間。
ふかふかのベッドに体を投げ出す。
ずしり、と心地よい重みで体が沈み込んだ。
(ああ……やっぱり、我が家が一番ですわ……)
窓の外では、静かな月が私を見下ろしている。
あの息苦しい王宮は、もう遠い。
明日からは、新しい生活が始まる。
誰にも縛られない、自由で、美味しくて、ちょっぴり怠惰な毎日。
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