婚約破棄は蜜の味! ~追放された悪役令嬢〜

夏乃みのり

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小鳥のさえずりが、優しい目覚まし代わりだった。
ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から柔らかな日の光が差し込んでいる。
壁にかけられた時計の針は、とうに午前十時を回っていた。

「……素晴らしい」

誰に起こされることもなく、自分の好きな時間に起きられる。
王宮での生活では、決して考えられなかったことだ。
私はベッドの上でぐっと伸びをすると、心の底から満足のため息をついた。
これこそが、私が求めていた人生なのだ。

身支度を整えて階下へ降りると、遅めの朝食、というよりは早めの昼食が用意されていた。
焼きたてのパン、新鮮なサラダ、そして具沢山の温かいスープ。
一品一品をゆっくりと味わいながら、私はこれからの計画に思いを馳せる。

「さて、と」

食後のお茶を楽しみながら、私は書斎から拝借してきた北の領地の資料一式をテーブルに広げた。
大きな地図を中心に、特産品リスト、人口分布、主な産業などが記された書類が並ぶ。

「ふふ、ふふふ……。これから始まる夢のような日々のために、まずは綿密な計画を立てなければなりませんわね」

ペンを片手に、私は真剣な表情で地図に向き合った。
その顔つきは、さながら国の未来を憂う宰相のようだったかもしれない。
しかし、その実態は。

「第一に、領地の視察。これは領主代理としての、何より重要な責務ですわ」

私は厳かに呟き、地図に印をつけ始めた。

『湖畔にあるクリスチャン牧場の、搾りたて牛乳と自家製チーズ』
『東の森でしか採れないという、幻のゴールデンハニー』
『“森の恵み”亭の、一日限定十食の焼き立てアップルパイ』

……私のペンが示すのは、およそ領主代理の視察先とは思えない、美味しいものリストばかりだった。

(うふふ、どれもこれも外せませんわね。効率よく回るためのルートを考えなければ)

「次に、インフラの整備。領民が心豊かに暮らせる環境を整えるのも、わたくしの役目」

今度は真っ白な羊皮紙を取り出し、新たなリストを作成し始める。

【最高の昼寝スポット開拓計画】
・小川のせせらぎがBGMになる、柳の木陰(ハンモック設置推奨)
・日当たり良好で、冬でもぽかぽか過ごせる南向きの草原
・満点の星空を独り占めできる、見晴らしの良い丘(寝転がる用のふかふか絨毯必須)

(ええ、ええ、領民の憩いの場の確保は急務ですわ。もちろん、わたくしが率先してその安全性を確かめませんと)

自分の欲望を、見事なまでに公務へとすり替える。
これもまた、王太子妃教育で培った、ささやかな処世術の一つだった。

「――リーリア、ずいぶん熱心だな」

不意に声をかけられ、びくりと肩を揺らす。
いつの間にか、兄のアベルが背後に立っていた。

「お兄様! 驚かさないでくださいまし」

「はは、悪い悪い。どれ、未来の名君がどんな素晴らしい計画を立てているのか、この兄に見せてみろ」

アベルはそう言って、私の手元にある羊皮紙をひょいと覗き込んだ。
そして、数秒後。
彼の眉が、面白いようにひくひくと痙攣を始めた。

「……なあ、リーリア。この『領地活性化計画書』と書かれた書類の大部分が、お菓子のレシピと食材の産地で埋め尽くされているのは、俺の気のせいか?」

「気のせいではありませんわ、お兄様」

私は胸を張って答えた。

「『食』は文化の基本であり、人々の幸福の源泉です。領民の食生活を豊かにすることこそが、真の領地活性化に繋がるのですわ!」

「……その理屈でいくと、この『私専用おやつタイムを週七で確保する』という項目は、どう領民のためになるんだ?」

「それはもちろん、わたくしの機嫌が良ければ、良い統治が行われますでしょう? つまり、領民の幸せに直結する、非常に重要な政策ですのよ」

「……そうか」

兄は盛大に、それはもう、屋敷が揺れるほど盛大にため息をつくと、私の頭をぽんと叩いた。

「まあ、お前が楽しそうで何よりだ。北の領地へは、一番乗り心地の良い馬車と、腕利きの護衛を手配しておいた。せいぜい、食い倒れて太って帰ってくるがいい」

「ご心配には及びませんわ、お兄様。美味しいものを食べるためには、それなりのカロリーを消費するものですから」

私の意味不明な理屈に、兄はとうとう堪えきれなくなったように笑い出した。

それから数日後。
私のスローライフ計画は、完璧な準備と共に実行の時を迎えた。

玄関ホールには、父と母、そして兄が見送りに来てくれている。

「リーリア、体にだけは気をつけるんだぞ。何かあれば、すぐに知らせなさい」

「ええ、お父様。ありがとうございます」

「向こうに着いたら、美味しいものリストの最新版を送ってちょうだいね? 次に訪ねる時の参考にするから」

「はい、お母様。お任せくださいな」

家族一人一人と挨拶を交わし、私は軽やかな足取りで馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を軽く鳴らすと、車輪がゆっくりと軋み始める。

「それでは、行ってまいります!」

窓から顔を出し、大きく手を振る。
どんどん小さくなっていく我が家と、家族の姿。
寂しさよりも、これからはじまる新しい生活への期待で、胸がいっぱいだった。

(待ってなさい、わたくしの理想郷! 美味しいものたち! そして、最高の怠惰な毎日!)

北の大地への果てなき欲望と希望を胸に、リーリアの新たな冒険――という名の、食い倒れ旅行が今まさに始まろうとしていた。
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