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最近、どうも体の調子が悪い。
特に、胸のあたりが、時折きゅっと締め付けられるように痛むのだ。
騎士として日々鍛錬を欠かさず、これまで病気一つしたことのなかった俺、アシュトン・バレタインにとって、それは不可解な症状だった。
「――よって、以上の理由から、警備兵の巡回ルートを一部変更する。以上だ」
騎士団の詰所での定例会議。
俺はいつも通りに指示を出しているはずなのに、なぜか部下たちの視線が生温かい。
「……何か言いたいことがあるのか」
俺が低い声で問うと、副官のダニエルがおずおずと手を挙げた。
「いえ、団長。本日のご指示は、実に明快で的確でございました。ただ……」
「ただ、なんだ」
「報告書の宛名の部分に、『拝啓、リーリア様』と書かれそうになっていたのが、少し気になっただけであります」
「なっ……!?」
俺は自分の手元にある羊皮紙を見て、絶句した。
確かにそこには、美しい(と、思う)女性の名前の書きかけが、インクの染みとなって残っていた。
「き、貴様ら! 弛んでいるぞ! 会議の後に、全員グラウンド十周だ!」
顔に集まる熱を隠すように、俺は怒鳴った。
部下たちが「ひえっ」「やっぱり……」と、ひそひそ囁き合っているのが聞こえて、さらに頭に血が上る。
そう、俺のこの原因不明の体調不良は、決まって、あの公爵令嬢、リーリア・フォン・クライネルト様のことを考えた時に起こるのだ。
彼女が子供たちに見せた、慈愛に満ちた笑顔。
動物たちに囲まれている時の、無防備な横顔。
そして、彼女の作る、信じられないほど優しくて、温かい味がするお菓子。
(くそっ、仕事に集中できん……!)
俺は自分の気持ちを振り払うように、警備という名目で、リーリア様の様子を見に行くことにした。
もちろん、あくまで任務の一環だ。断じて、個人的な感情ではない。
ちょうど先日、待ちに待ったお菓子工房が完成し、本格的に稼働を始めていた。
俺が工房の窓からそっと中を覗うと、リーリア様がエプロン姿で、楽しそうに生地をこねているのが見えた。
鼻の頭に、白い小麦粉がついている。
時折、味見だろうか、指先についたクリームをぺろりと舐めている。
そのあまりにも家庭的で、無防備な姿。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
胸の痛みが、今までで一番強く、俺を襲う。
(……! なんだ、この破壊力は……! これが、あの高慢と噂された公爵令嬢の姿だというのか……!?)
違う。
俺の目の前にいるのは、ただ、お菓子作りを心から楽しむ、一人の愛らしい女性だ。
そう認識した瞬間、俺の頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
(まさか。俺が、リーリア様に……恋、だと……?)
ありえない。
身分が違いすぎる。性格も、価値観も、まるで正反対だ。
だいたい、俺はこれまで、恋愛などという軟弱なものとは無縁に生きてきたのだ。
女性とまともに話した経験など、母親と妹くらいしか……。
混乱のあまり、その場で固まっていると、不意に、工房の中から声がかかった。
「あら、団長。またそのような所で、隠れて何をしていらっしゃるのですか?」
リーリア様が、窓を開けて俺に気づいたのだ。
しまった、と後ずさる俺に、彼女はにこりと微笑んだ。
「ちょうど、新作のアップルパイが焼きあがったところですのよ。一番乗りのお客様に、味見をしていただきたいのですが、いかがかしら?」
甘く、香ばしい香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
それは、とてつもなく魅力的な誘いだった。
しかし。
今の俺には、彼女の笑顔を直視することすら、困難だった。
「け、結構です!」
自分でも驚くほど、裏返った声が出た。
「わ、私は、任務の遂行中でありまして! 馴れ合いは、職務の妨げとなりますので、失礼!」
俺はカチコチの動きで敬礼すると、文字通り、その場から逃げ出した。
背後で、リーリア様が「変な方ですわねぇ……」と、不思議そうに呟いているのが聞こえた気がした。
詰所に戻った俺は、机に突っ伏して、深く、深ーく、うめいた。
(馬鹿者! 俺の馬鹿! なぜあんな、木石のような態度しかとれんのだ!)
絶好の機会を、自ら台無しにしてしまった。
自己嫌悪で、床に穴を掘って埋まりたい気分だ。
「だーんちょ」
そんな俺の背中に、気の抜けた声がかかった。
副官のダニエルが、呆れたような、同情するような顔で立っている。
「……それ、俗に言う『恋の病』ってやつじゃないスか?」
「なっ、こ、恋だと!? 馬鹿を言え! これは、疲労による、ただの動悸だ!」
「へいへい。まあ、そう思うんなら、それでもいいですけど」
ダニエルはそう言うと、ぽん、と俺の机の上に、一冊の古びた本を置いた。
『堅物騎士のための実践恋愛入門 ~その鎧、心にも着ていませんか?~』
「な、なんだこれは! 不埒な!」
「まあまあ。悩める男たちの、いわばバイブルみたいなもんです。きっと、団長のお役にも立ちますぜ」
そう言い残して、ダニエルはニヤニヤしながら部屋を出ていった。
一人残された俺は、しばらくその怪しげな本を睨みつけていたが……やがて、恐る恐る、その表紙に手を伸ばした。
その夜。
詰所の明かりが、いつまでも消えることはなかった。
俺が蝋燭の灯りを頼りに、『第一章:全ての基本は笑顔での挨拶から』というページを、血走った目で真剣に読み込んでいたことを、まだ誰も知らない。
不器用すぎる堅物騎士の恋は、かくして、あまりにも滑稽に、そして静かに始まってしまったのだった。
特に、胸のあたりが、時折きゅっと締め付けられるように痛むのだ。
騎士として日々鍛錬を欠かさず、これまで病気一つしたことのなかった俺、アシュトン・バレタインにとって、それは不可解な症状だった。
「――よって、以上の理由から、警備兵の巡回ルートを一部変更する。以上だ」
騎士団の詰所での定例会議。
俺はいつも通りに指示を出しているはずなのに、なぜか部下たちの視線が生温かい。
「……何か言いたいことがあるのか」
俺が低い声で問うと、副官のダニエルがおずおずと手を挙げた。
「いえ、団長。本日のご指示は、実に明快で的確でございました。ただ……」
「ただ、なんだ」
「報告書の宛名の部分に、『拝啓、リーリア様』と書かれそうになっていたのが、少し気になっただけであります」
「なっ……!?」
俺は自分の手元にある羊皮紙を見て、絶句した。
確かにそこには、美しい(と、思う)女性の名前の書きかけが、インクの染みとなって残っていた。
「き、貴様ら! 弛んでいるぞ! 会議の後に、全員グラウンド十周だ!」
顔に集まる熱を隠すように、俺は怒鳴った。
部下たちが「ひえっ」「やっぱり……」と、ひそひそ囁き合っているのが聞こえて、さらに頭に血が上る。
そう、俺のこの原因不明の体調不良は、決まって、あの公爵令嬢、リーリア・フォン・クライネルト様のことを考えた時に起こるのだ。
彼女が子供たちに見せた、慈愛に満ちた笑顔。
動物たちに囲まれている時の、無防備な横顔。
そして、彼女の作る、信じられないほど優しくて、温かい味がするお菓子。
(くそっ、仕事に集中できん……!)
俺は自分の気持ちを振り払うように、警備という名目で、リーリア様の様子を見に行くことにした。
もちろん、あくまで任務の一環だ。断じて、個人的な感情ではない。
ちょうど先日、待ちに待ったお菓子工房が完成し、本格的に稼働を始めていた。
俺が工房の窓からそっと中を覗うと、リーリア様がエプロン姿で、楽しそうに生地をこねているのが見えた。
鼻の頭に、白い小麦粉がついている。
時折、味見だろうか、指先についたクリームをぺろりと舐めている。
そのあまりにも家庭的で、無防備な姿。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
胸の痛みが、今までで一番強く、俺を襲う。
(……! なんだ、この破壊力は……! これが、あの高慢と噂された公爵令嬢の姿だというのか……!?)
違う。
俺の目の前にいるのは、ただ、お菓子作りを心から楽しむ、一人の愛らしい女性だ。
そう認識した瞬間、俺の頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
(まさか。俺が、リーリア様に……恋、だと……?)
ありえない。
身分が違いすぎる。性格も、価値観も、まるで正反対だ。
だいたい、俺はこれまで、恋愛などという軟弱なものとは無縁に生きてきたのだ。
女性とまともに話した経験など、母親と妹くらいしか……。
混乱のあまり、その場で固まっていると、不意に、工房の中から声がかかった。
「あら、団長。またそのような所で、隠れて何をしていらっしゃるのですか?」
リーリア様が、窓を開けて俺に気づいたのだ。
しまった、と後ずさる俺に、彼女はにこりと微笑んだ。
「ちょうど、新作のアップルパイが焼きあがったところですのよ。一番乗りのお客様に、味見をしていただきたいのですが、いかがかしら?」
甘く、香ばしい香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
それは、とてつもなく魅力的な誘いだった。
しかし。
今の俺には、彼女の笑顔を直視することすら、困難だった。
「け、結構です!」
自分でも驚くほど、裏返った声が出た。
「わ、私は、任務の遂行中でありまして! 馴れ合いは、職務の妨げとなりますので、失礼!」
俺はカチコチの動きで敬礼すると、文字通り、その場から逃げ出した。
背後で、リーリア様が「変な方ですわねぇ……」と、不思議そうに呟いているのが聞こえた気がした。
詰所に戻った俺は、机に突っ伏して、深く、深ーく、うめいた。
(馬鹿者! 俺の馬鹿! なぜあんな、木石のような態度しかとれんのだ!)
絶好の機会を、自ら台無しにしてしまった。
自己嫌悪で、床に穴を掘って埋まりたい気分だ。
「だーんちょ」
そんな俺の背中に、気の抜けた声がかかった。
副官のダニエルが、呆れたような、同情するような顔で立っている。
「……それ、俗に言う『恋の病』ってやつじゃないスか?」
「なっ、こ、恋だと!? 馬鹿を言え! これは、疲労による、ただの動悸だ!」
「へいへい。まあ、そう思うんなら、それでもいいですけど」
ダニエルはそう言うと、ぽん、と俺の机の上に、一冊の古びた本を置いた。
『堅物騎士のための実践恋愛入門 ~その鎧、心にも着ていませんか?~』
「な、なんだこれは! 不埒な!」
「まあまあ。悩める男たちの、いわばバイブルみたいなもんです。きっと、団長のお役にも立ちますぜ」
そう言い残して、ダニエルはニヤニヤしながら部屋を出ていった。
一人残された俺は、しばらくその怪しげな本を睨みつけていたが……やがて、恐る恐る、その表紙に手を伸ばした。
その夜。
詰所の明かりが、いつまでも消えることはなかった。
俺が蝋燭の灯りを頼りに、『第一章:全ての基本は笑顔での挨拶から』というページを、血走った目で真剣に読み込んでいたことを、まだ誰も知らない。
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