婚約破棄は蜜の味! ~追放された悪役令嬢〜

夏乃みのり

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建国記念式典の行事は、まだ続く。
今宵は、王宮主催の大規模な舞踏会だ。
きらびやかなドレスを纏った貴婦人と、仕立ての良い礼服に身を包んだ紳士たちが、優雅な音楽に合わせて踊っている。

(はぁ……。早く領地に帰って、パジャマに着替えて、ベッドの上でゴロゴロしたいですわ)

私はといえば、会場の隅にある長椅子の上が定位置。
壁の花に徹し、この面倒な時間が過ぎ去るのをひたすら待つことに決めていた。
しかし、昨夜の一件以来、私は良くも悪くも注目の的となってしまっている。
遠巻きに、何人もの若い貴族たちが、私をダンスに誘うタイミングを窺っているのが、視界の端で分かった。

(お願いですから、誰も来ないでくださいまし……)

私がそう念を送っていると、隣に立つ護衛騎士様から、なにやら凄まじい圧が放たれていることに気づいた。
アシュトン団長だ。
彼は、私に近づこうとする男たちを、一人残らず、その鋭い眼光だけで撃退していた。

(まあ、頼もしいこと。最高の虫除けですわね)

私がその仕事ぶりに感心していると、その団長様が、なにやらそわそわと落ち着かない様子で、何度も私をちらちらと見ていることに気づいた。
その顔は、なぜか少し赤い。

その時のアシュトン団長の頭の中は、一冊の本のことで埋め尽くされていた。
『第二章:女性を喜ばせる第一歩、それはダンスへのエスコートから。勇気を出して、彼女の手を取るのだ!』
例の、恋愛指南書の一節である。

(誘うべきか……? いや、しかし、俺は騎士団の剣の訓練しかしてこなかった男だ。ダンスなど、まともに踊れたためしがない……。リーリア様に恥をかかせてしまう)

(だが、ここで誘わなければ、あのハイエナのような男共に、リーリア様を奪われてしまう……! それだけは、断じてならん!)

彼の脳内で、二人のアシュトン(どちらも筋肉質)が、激しい戦いを繰り広げていた。

その葛藤に終止符を打ったのは、一人の勇敢な(あるいは、無謀な)青年貴族だった。
彼はアシュトン団長の威圧をものともせず、ついに私の方へと一歩、足を踏み出したのだ。

「クライネルト公爵令嬢、もしよろしければ、私と一――」

その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
青年貴族が言い終わる前に、アシュトン団長が、まるで瞬間移動したかのように、私の目の前に立ちはだかったのだ。

そして、彼は、これ以上ないほど必死の形相で、私に向かって叫んだ。

「リ、リーリア様! い、一曲、わ、私とお相手を、お、お願いできないでしょうかッ!」

声は見事に裏返り、顔は茹でダコのように真っ赤。
そのあまりにぎこちないお誘いに、私はぽかんと目を丸くした。
会場中のざわめきが、一瞬にして静まり返る。
誰もが「あの、鉄壁のバレタイン団長が!?」と、信じられないものを見るような目で、私たちに注目していた。

私は、彼の必死な顔を見ているうちに、なんだかおかしくなってきてしまった。
そして、ほんの少しだけ、愛おしい、と。そう思ってしまったのだ。

「ええ、喜んで。バレタイン団長」

私は悪戯っぽく微笑むと、彼が差し出した、硬直した手を取った。

優雅なワルツの音色が、ホールに響き渡る。
しかし、アシュトン団長のリードは、優雅とは程遠いものだった。
まるで、ネジの壊れたブリキの人形のように、動きがカクカクしている。

「も、も、申し訳、ありません……!」

案の定、彼は私のドレスの裾を思いっきり踏みつけた。

「ふふ、構いませんわ。わたくしが、リードして差し上げます」

私はくすりと笑うと、彼の腰に回した手に、そっと力を込めた。
妃教育で叩き込まれたダンスの技術は、完璧だ。
私が彼の次のステップを導くようにリードすると、ロボットのようだった彼の動きが、少しずつ、滑らかになっていく。

ぐっと近づいた互いの距離。
ふわりと、彼の纏う、清潔な石鹸と、微かな汗の匂いがした。
いつも厳しい表情ばかりしている彼の、真剣な横顔。
礼服の上からでも分かる、騎士らしい、鍛え上げられた体の硬さ。

(まあ……この方、こうしていると、案外……)

私の心臓が、とくん、と小さく跳ねたことに気づく。

一方のアシュトン団長は、もはや限界を超えていた。
花の香りがするリーリア様の髪。ドレスから覗く、滑らかなうなじ。腰に感じる、華奢な体の感触。
その全てが、彼の許容量を遥かに超えていた。
頭の中は真っ白で、ただ、目の前の美しい女性を落とさないように、と。その一心だった。

やがて、夢のような一曲が終わりを告げる。
私たちは、ホールの中央で、見つめ合ったまま、しばらく動けなかった。
周りの喧騒など、まるで聞こえない。

「……あ、ありがとうございました」

先に沈黙を破ったのは、アシュトン団長だった。

「こちらこそ。とても、楽しかったですわ、団長」

私の言葉は、決して社交辞令ではなかった。

その後のアシュトン団長は、完全に放心状態で、壁際まで戻ると、部下たちに「団長! やりましたな!」「男を見ましたぜ!」と肩を叩かれ、魂の抜けたように頷いている。

私もまた、自分の頬が、ほんのりと熱を持っていることに気づいた。
それを隠すように、そっと扇を開く。
面倒なだけだと思っていた舞踏会が、ほんの少しだけ、特別なものに変わった瞬間だった。

その光景を、会場の対極から、一人の男が、ギリッと音を立てて歯ぎしりしながら見つめていたことを、私たちはまだ知らなかった。
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