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建国記念式典での一件は、まるで乾いた草原に放たれた火のように、瞬く間に王都の社交界を駆け巡った。
一夜にして、サロンや茶会での話題は、たった一人の女性の名で独占されることとなった。
リーリア・フォン・クライネルト。
かつて「悪役令嬢」と蔑まれ、婚約破棄という屈辱を味わったはずの彼女の名は、今や賞賛と尊敬の響きを伴って、人々の口にのぼっていた。
「皆様、昨夜のリーリア様のあのお姿、ご覧になりました?」
「ええ、もちろん! 凍りついた場の空気を、たった一言で和ませてしまうあの知性! そして、あの堂々たるご様子! あれこそが、真の国母たる器ですわ!」
「それに比べて、エミリア様は……。お顔が可愛らしいだけでは、とても王太子妃殿下の大役は務まりませんわね」
「わたくし、今まで誤解しておりましたわ。リーリア様こそが、被害者だったのではなくて?」
「婚約破棄は、王太子殿下の完全なご早計だったということですわね」
手のひらを返したような、とは、まさにこのことだろう。
昨日までリーリアを非難していた者たちまでもが、今では彼女の最も熱心な擁護者となっていた。
皮肉なことに、彼女が社交界から姿を消し、そして再び現れたことで、人々は初めて、彼女がどれほど得難い存在であったかを思い知ったのだ。
しかし、そんな周囲の熱狂ぶりを、当の本人は全く意に介していなかった。
「うーん……。王都の土は、どうもハーブの栽培には向いていないようですわね。北の領地の、あの黒くてふかふかした土が恋しいですわ」
私はクライネルト公爵家の広大な庭の片隅で、小さなスコップを片手に、土いじりに勤しんでいた。
世間の評価など、私にとってはどこ吹く風。
それよりも、ミントの生育状況の方が、よほど重要案件だ。
「リーリア様」
背後から、少しだけ緊張をはらんだ声がした。
振り返ると、アシュトン団長が、どこか誇らしげな、それでいて少し照れたような、複雑な表情で立っていた。
「街では今、貴女様の噂で持ちきりでございます。誰もが、昨夜の貴女様のご対応を、心から称賛しておりました」
「まあ、暇な方たちですこと」
私は土のついた手をエプロンで拭うと、鉢植えのローズマリーの葉を指でつまんだ。
すん、と爽やかな香りを吸い込む。
「それより団長、この香りはいかがです? 今夜の羊肉料理のソースに使おうと思うのですが、香りが強すぎるかしら」
「は……はあ……。素晴らしい、香りかと存じます」
私のあまりのマイペースぶりに、アシュトン団長は少し拍子抜けしたようだった。
しかし、すぐにその瞳に、熱のこもった色が戻ってくる。
「……貴女様は、周りの評価など、全くお気になさらないのですね。その……なんと申しますか、実に、貴女様らしい。素晴らしいと、思います」
「?」
最近、この堅物騎士は、時々こうして、よく分からない褒め言葉をかけてくる。
私は不思議に思いながらも、「さあ、そろそろお茶の時間にいたしましょうか」と、彼を誘って母屋へと戻った。
私の関心は、すでに夕食後のデザートへと移っていた。
一方で、私の評価が上がれば上がるほど、奈落の底へと落ちていく男がいた。
王太子、ジークフリードだ。
彼の耳には、リーリアを称賛し、エミリアを批判し、そして暗に自分の決断を非難する声が、嫌でも届いていた。
「殿下。エミリア様には、妃殿下として、さらなる帝王学の教育が必要かと愚考いたします」
「左様ですな。リーリア様がいかに優れていらっしゃったか……」
側近や大臣たちからの、遠回しな、しかし容赦のない意見具申。
それは、ジークフリー-ドの焦りを煽るには、十分すぎた。
(くそっ、くそっ、くそっ! 俺の決定は間違っていなかったはずだ! なのに、なぜ誰もがリーリアばかりを褒めそやす!?)
焦りは、やがて怒りとなり、その矛先は、一番身近な存在へと向けられた。
「エミリア!」
ジークフリードは、その日の午後、エミリアを自室へ呼びつけた。
「お前も、もう少し妃としての自覚を持ったらどうだ! 昨夜の失態、どう弁解するつもりだ! 少しは、リーリアを見習え!」
言ってはならない言葉だった。
それを口にした瞬間、ジークフリード自身も、しまった、と後悔した。
案の定、エミリアの瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「リーリア、リーリア、リーリア! ジーク様は、まだあの女のことがお忘れになれないのですね! わたくしという婚約者がいながら、ひどいですわ!」
そう言って泣きじゃくるエミリアに、ジークフリードはもはや、かつてのような庇護欲を感じることはできなかった。
ただ、ひどく面倒くさい、と。そう思うだけだった。
追い詰められたジークフリードは、何とかして自分の決定の正しさを証明しようと、空回りな行動に出始める。
エミリアに無理やり公務を手伝わせ、彼女の「成長ぶり」を周囲にアピールしようとしたり。
茶会で、彼女に難しい政治の話題を振っては、その浅い知識を露呈させたり。
良かれと思っての行動が、全て裏目に出た。
エミリアの未熟さと無能さが、リーリアの有能さと比較され、さらに浮き彫りになるという、最悪の悪循環に陥ってしまったのだ。
その夜。
眠れずにいたジークフリードは、執務室で一人、頭を抱えていた。
自分の立場が、日に日に危うくなっていくのが分かる。
貴族たちの信頼も、民からの信望も、少しずつ失われていく。
(どうすればいい……。この状況を、どうすれば覆せる……)
そして、彼は、一つの結論にたどり着く。
(こうなれば……。リーリア本人に会い、直接話をするしかないというのか……?)
プライドの高い彼にとって、それは最も認めたくない、最終手段だった。
しかし、もはや、それ以外の道は残されていないように思えた。
彼の焦りは、ついに、後戻りのできない一線を越えようとしていた。
一夜にして、サロンや茶会での話題は、たった一人の女性の名で独占されることとなった。
リーリア・フォン・クライネルト。
かつて「悪役令嬢」と蔑まれ、婚約破棄という屈辱を味わったはずの彼女の名は、今や賞賛と尊敬の響きを伴って、人々の口にのぼっていた。
「皆様、昨夜のリーリア様のあのお姿、ご覧になりました?」
「ええ、もちろん! 凍りついた場の空気を、たった一言で和ませてしまうあの知性! そして、あの堂々たるご様子! あれこそが、真の国母たる器ですわ!」
「それに比べて、エミリア様は……。お顔が可愛らしいだけでは、とても王太子妃殿下の大役は務まりませんわね」
「わたくし、今まで誤解しておりましたわ。リーリア様こそが、被害者だったのではなくて?」
「婚約破棄は、王太子殿下の完全なご早計だったということですわね」
手のひらを返したような、とは、まさにこのことだろう。
昨日までリーリアを非難していた者たちまでもが、今では彼女の最も熱心な擁護者となっていた。
皮肉なことに、彼女が社交界から姿を消し、そして再び現れたことで、人々は初めて、彼女がどれほど得難い存在であったかを思い知ったのだ。
しかし、そんな周囲の熱狂ぶりを、当の本人は全く意に介していなかった。
「うーん……。王都の土は、どうもハーブの栽培には向いていないようですわね。北の領地の、あの黒くてふかふかした土が恋しいですわ」
私はクライネルト公爵家の広大な庭の片隅で、小さなスコップを片手に、土いじりに勤しんでいた。
世間の評価など、私にとってはどこ吹く風。
それよりも、ミントの生育状況の方が、よほど重要案件だ。
「リーリア様」
背後から、少しだけ緊張をはらんだ声がした。
振り返ると、アシュトン団長が、どこか誇らしげな、それでいて少し照れたような、複雑な表情で立っていた。
「街では今、貴女様の噂で持ちきりでございます。誰もが、昨夜の貴女様のご対応を、心から称賛しておりました」
「まあ、暇な方たちですこと」
私は土のついた手をエプロンで拭うと、鉢植えのローズマリーの葉を指でつまんだ。
すん、と爽やかな香りを吸い込む。
「それより団長、この香りはいかがです? 今夜の羊肉料理のソースに使おうと思うのですが、香りが強すぎるかしら」
「は……はあ……。素晴らしい、香りかと存じます」
私のあまりのマイペースぶりに、アシュトン団長は少し拍子抜けしたようだった。
しかし、すぐにその瞳に、熱のこもった色が戻ってくる。
「……貴女様は、周りの評価など、全くお気になさらないのですね。その……なんと申しますか、実に、貴女様らしい。素晴らしいと、思います」
「?」
最近、この堅物騎士は、時々こうして、よく分からない褒め言葉をかけてくる。
私は不思議に思いながらも、「さあ、そろそろお茶の時間にいたしましょうか」と、彼を誘って母屋へと戻った。
私の関心は、すでに夕食後のデザートへと移っていた。
一方で、私の評価が上がれば上がるほど、奈落の底へと落ちていく男がいた。
王太子、ジークフリードだ。
彼の耳には、リーリアを称賛し、エミリアを批判し、そして暗に自分の決断を非難する声が、嫌でも届いていた。
「殿下。エミリア様には、妃殿下として、さらなる帝王学の教育が必要かと愚考いたします」
「左様ですな。リーリア様がいかに優れていらっしゃったか……」
側近や大臣たちからの、遠回しな、しかし容赦のない意見具申。
それは、ジークフリー-ドの焦りを煽るには、十分すぎた。
(くそっ、くそっ、くそっ! 俺の決定は間違っていなかったはずだ! なのに、なぜ誰もがリーリアばかりを褒めそやす!?)
焦りは、やがて怒りとなり、その矛先は、一番身近な存在へと向けられた。
「エミリア!」
ジークフリードは、その日の午後、エミリアを自室へ呼びつけた。
「お前も、もう少し妃としての自覚を持ったらどうだ! 昨夜の失態、どう弁解するつもりだ! 少しは、リーリアを見習え!」
言ってはならない言葉だった。
それを口にした瞬間、ジークフリード自身も、しまった、と後悔した。
案の定、エミリアの瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「リーリア、リーリア、リーリア! ジーク様は、まだあの女のことがお忘れになれないのですね! わたくしという婚約者がいながら、ひどいですわ!」
そう言って泣きじゃくるエミリアに、ジークフリードはもはや、かつてのような庇護欲を感じることはできなかった。
ただ、ひどく面倒くさい、と。そう思うだけだった。
追い詰められたジークフリードは、何とかして自分の決定の正しさを証明しようと、空回りな行動に出始める。
エミリアに無理やり公務を手伝わせ、彼女の「成長ぶり」を周囲にアピールしようとしたり。
茶会で、彼女に難しい政治の話題を振っては、その浅い知識を露呈させたり。
良かれと思っての行動が、全て裏目に出た。
エミリアの未熟さと無能さが、リーリアの有能さと比較され、さらに浮き彫りになるという、最悪の悪循環に陥ってしまったのだ。
その夜。
眠れずにいたジークフリードは、執務室で一人、頭を抱えていた。
自分の立場が、日に日に危うくなっていくのが分かる。
貴族たちの信頼も、民からの信望も、少しずつ失われていく。
(どうすればいい……。この状況を、どうすれば覆せる……)
そして、彼は、一つの結論にたどり着く。
(こうなれば……。リーリア本人に会い、直接話をするしかないというのか……?)
プライドの高い彼にとって、それは最も認めたくない、最終手段だった。
しかし、もはや、それ以外の道は残されていないように思えた。
彼の焦りは、ついに、後戻りのできない一線を越えようとしていた。
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