28 / 28
28
しおりを挟む
茜色に染まる空。
眼下に広がるガレリアの街並みが、夕日の魔法にかかって黄金色に輝いている。
城の最も高い場所にあるバルコニー。
そこは、私たちが「秘密の作戦会議」と称して、夫婦の時間を持つための特等席だ。
「……ふぅ。ようやく静かになりましたね」
私は手すりに寄りかかり、ワイングラスを傾けた。
「ああ。レオンの寝かしつけは、ドラゴン討伐よりも難易度が高いな」
隣に立つアイザックも、やれやれと肩をすくめつつ、同じようにグラスを持った。
シャツの袖を捲り上げたその腕には、息子に噛みつかれた跡(甘噛みだが)が残っている。
「誰に似たのやら。体力が無尽蔵で、口が達者で、自分が一番偉いと思っている」
「君だな」
「貴方ですよ」
私たちは顔を見合わせて、同時に吹き出した。
風が吹き抜ける。
心地よい静寂。
書類の山も、貴族たちのマウント合戦も、魔王軍の襲来もない、穏やかな夕暮れ。
「……クリム」
アイザックが、ふと真面目な顔で私を見た。
その瞳は、出会った頃と変わらない、いや、あの頃よりも深く澄んだ青色をしていた。
「……後悔は、していないか?」
「はい? 何の話ですか?」
「君の人生だ。……もし、あの時。レジナルドとの婚約が破棄されず、そのまま王国の王妃になっていたら……という可能性を、考えたことはないか?」
彼は少し不安そうに問いかけた。
「ここは北国で寒いし、私は君に仕事を押し付けるし、息子はやんちゃだ。……あちらの方が、穏やかで幸せな人生だったかもしれない」
「……」
私はグラスを回し、中の液体が揺れるのを眺めた。
王妃になった私。
猫を被り、笑顔を貼り付け、レジナルド殿下の機嫌を取り、モモ様のワガママに耐え続ける日々。
想像しただけで、蕁麻疹が出そうだ。
「……ボス。いえ、あなた」
私はグラスを置き、彼に向き直った。
「貴方は本当に、時々ものすごい『節穴』になりますね」
「えっ?」
「私が『穏やかな幸せ』なんて退屈なものを求めているように見えますか?」
私は一歩近づき、彼のアスコットタイを指で弄んだ。
「毎日が戦場で、トラブル続きで、貴方という手のかかる猛獣の手綱を握って走り回る……。そんな『刺激的』な毎日のほうが、私の性に合っているとは思いませんか?」
「……まあ、確かに君は、暇だと死んでしまうマグロのような……」
「誰が回遊魚ですか」
私は軽く彼の胸を叩いた。
「それに」
私は空を見上げた。
太陽が地平線に沈みかけ、世界が一番美しい瞬間を迎えている。
「あの時。婚約破棄されたあの瞬間。……私の世界は、色を変えました」
「色?」
「ええ。それまでは、灰色でした。義務と、我慢と、諦めで塗り固められた灰色」
私は目を細めた。
「でも、貴方が笑い飛ばしてくれたあの日から。……私の世界は、こんな風に」
私は夕日を、街を、そして目の前の彼を指した。
「鮮やかで、騒がしくて、眩しい色に変わったんです」
アイザックが、息を呑んだ。
私は彼の手を取り、強く握りしめた。
「だから、言わせてください」
私は深呼吸をして、心の底からの言葉を紡いだ。
「……あの時、婚約破棄されて、本当によかった」
「……クリム」
「あそこで捨てられたから、私は自由になれた。自分らしくなれた。……そして、貴方に出会えた」
私はニッコリと微笑んだ。
毒舌家の冷笑でも、営業用のスマイルでもない。
ただのクリムとしての、飾らない笑顔を。
「ありがとう、アイザック。私を拾ってくれて。……私を、貴方の『毒舌姫』にしてくれて」
アイザックの目から、一筋の涙がこぼれた。
彼はグラスを放り出し(割れる音がしたが気にしない)、私を力一杯抱きしめた。
「……ああ、もう! 君には敵わない!」
「苦しいです、学習してください」
「愛してる! 世界中の誰よりも、過去のどの瞬間よりも、今の君が一番好きだ!」
「はいはい。私もですよ、バカボス」
私たちは夕日の中で、長くキスをした。
数年前、絶望の淵にいた悪役令嬢は、今、世界で一番幸せな「猛獣使い」としてここにいる。
これからも、トラブルはあるだろう。
息子は反抗期を迎えるだろうし、アイザックはまた変な銅像を作ろうとするだろう。
でも、大丈夫。
私には「毒舌」という最強の武器と、この「愛すべき家族」がいるのだから。
「……さあ、戻りましょうか。レオンが起きる頃です」
「そうだな。……明日の朝食は、俺が作るよ」
「黒焦げトーストは勘弁してくださいね?」
「努力する!」
私たちは手を繋ぎ、温かい光の溢れる城の中へと帰っていく。
これが、私のハッピーエンド。
そして、これからも続いていく、賑やかな日常のプロローグだ。
眼下に広がるガレリアの街並みが、夕日の魔法にかかって黄金色に輝いている。
城の最も高い場所にあるバルコニー。
そこは、私たちが「秘密の作戦会議」と称して、夫婦の時間を持つための特等席だ。
「……ふぅ。ようやく静かになりましたね」
私は手すりに寄りかかり、ワイングラスを傾けた。
「ああ。レオンの寝かしつけは、ドラゴン討伐よりも難易度が高いな」
隣に立つアイザックも、やれやれと肩をすくめつつ、同じようにグラスを持った。
シャツの袖を捲り上げたその腕には、息子に噛みつかれた跡(甘噛みだが)が残っている。
「誰に似たのやら。体力が無尽蔵で、口が達者で、自分が一番偉いと思っている」
「君だな」
「貴方ですよ」
私たちは顔を見合わせて、同時に吹き出した。
風が吹き抜ける。
心地よい静寂。
書類の山も、貴族たちのマウント合戦も、魔王軍の襲来もない、穏やかな夕暮れ。
「……クリム」
アイザックが、ふと真面目な顔で私を見た。
その瞳は、出会った頃と変わらない、いや、あの頃よりも深く澄んだ青色をしていた。
「……後悔は、していないか?」
「はい? 何の話ですか?」
「君の人生だ。……もし、あの時。レジナルドとの婚約が破棄されず、そのまま王国の王妃になっていたら……という可能性を、考えたことはないか?」
彼は少し不安そうに問いかけた。
「ここは北国で寒いし、私は君に仕事を押し付けるし、息子はやんちゃだ。……あちらの方が、穏やかで幸せな人生だったかもしれない」
「……」
私はグラスを回し、中の液体が揺れるのを眺めた。
王妃になった私。
猫を被り、笑顔を貼り付け、レジナルド殿下の機嫌を取り、モモ様のワガママに耐え続ける日々。
想像しただけで、蕁麻疹が出そうだ。
「……ボス。いえ、あなた」
私はグラスを置き、彼に向き直った。
「貴方は本当に、時々ものすごい『節穴』になりますね」
「えっ?」
「私が『穏やかな幸せ』なんて退屈なものを求めているように見えますか?」
私は一歩近づき、彼のアスコットタイを指で弄んだ。
「毎日が戦場で、トラブル続きで、貴方という手のかかる猛獣の手綱を握って走り回る……。そんな『刺激的』な毎日のほうが、私の性に合っているとは思いませんか?」
「……まあ、確かに君は、暇だと死んでしまうマグロのような……」
「誰が回遊魚ですか」
私は軽く彼の胸を叩いた。
「それに」
私は空を見上げた。
太陽が地平線に沈みかけ、世界が一番美しい瞬間を迎えている。
「あの時。婚約破棄されたあの瞬間。……私の世界は、色を変えました」
「色?」
「ええ。それまでは、灰色でした。義務と、我慢と、諦めで塗り固められた灰色」
私は目を細めた。
「でも、貴方が笑い飛ばしてくれたあの日から。……私の世界は、こんな風に」
私は夕日を、街を、そして目の前の彼を指した。
「鮮やかで、騒がしくて、眩しい色に変わったんです」
アイザックが、息を呑んだ。
私は彼の手を取り、強く握りしめた。
「だから、言わせてください」
私は深呼吸をして、心の底からの言葉を紡いだ。
「……あの時、婚約破棄されて、本当によかった」
「……クリム」
「あそこで捨てられたから、私は自由になれた。自分らしくなれた。……そして、貴方に出会えた」
私はニッコリと微笑んだ。
毒舌家の冷笑でも、営業用のスマイルでもない。
ただのクリムとしての、飾らない笑顔を。
「ありがとう、アイザック。私を拾ってくれて。……私を、貴方の『毒舌姫』にしてくれて」
アイザックの目から、一筋の涙がこぼれた。
彼はグラスを放り出し(割れる音がしたが気にしない)、私を力一杯抱きしめた。
「……ああ、もう! 君には敵わない!」
「苦しいです、学習してください」
「愛してる! 世界中の誰よりも、過去のどの瞬間よりも、今の君が一番好きだ!」
「はいはい。私もですよ、バカボス」
私たちは夕日の中で、長くキスをした。
数年前、絶望の淵にいた悪役令嬢は、今、世界で一番幸せな「猛獣使い」としてここにいる。
これからも、トラブルはあるだろう。
息子は反抗期を迎えるだろうし、アイザックはまた変な銅像を作ろうとするだろう。
でも、大丈夫。
私には「毒舌」という最強の武器と、この「愛すべき家族」がいるのだから。
「……さあ、戻りましょうか。レオンが起きる頃です」
「そうだな。……明日の朝食は、俺が作るよ」
「黒焦げトーストは勘弁してくださいね?」
「努力する!」
私たちは手を繋ぎ、温かい光の溢れる城の中へと帰っていく。
これが、私のハッピーエンド。
そして、これからも続いていく、賑やかな日常のプロローグだ。
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ワザとダサくしてたら婚約破棄されたので隣国に行きます!
satomi
恋愛
ワザと瓶底メガネで三つ編みで、生活をしていたら、「自分の隣に相応しくない」という理由でこのフッラクション王国の王太子であられます、ダミアン殿下であらせられます、ダミアン殿下に婚約破棄をされました。
私はホウショウ公爵家の次女でコリーナと申します。
私の容姿で婚約破棄をされたことに対して私付きの侍女のルナは大激怒。
お父様は「結婚前に王太子が人を見てくれだけで判断していることが分かって良かった」と。
眼鏡をやめただけで、学園内での手の平返しが酷かったので、私は父の妹、叔母様を頼りに隣国のリーク帝国に留学することとしました!
投資の天才”を名乗る臣民たちよ。 その全財産、確かに受け取った。 我が民のために活かそう』 〜虚飾を砕く女王の経済鉄槌〜
しおしお
恋愛
バブルに沸くアルビオン王国。
「エルドラド株」を持たぬ者は時代遅れ――
そう嘲笑いながら、実体のない海外権益へ全財産を注ぎ込む貴族たち。
自らを“投資の天才”と称し、増税に苦しむ民を見下す日々。
若き女王リリアーナは、その狂騒を静かに見つめていた。
やがて始まる王室監査。
暴かれる虚偽契約。
崩れ落ちる担保。
連鎖する破綻。
昨日まで「時代の勝者」を気取っていた特権階級は、一夜にして無一文へ。
泣きつく彼らに、女王はただ微笑む。
――“皆様の尊いご投資、確かに受け取りましたわ”
没収された富は国庫へ。
再配分された資源は民へ。
虚飾を砕き、制度を再設計し、王国を立て直す。
これは復讐譚ではない。
清算と再建の物語。
泡沫の王国に、女王の鉄槌が下される。
悪役令嬢まさかの『家出』
にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。
一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。
ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。
帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!
【完結】悪役令嬢の身代わりで処刑されかけた侍女、悪人面強面騎士にさらわれる。
雨宮羽那
恋愛
侍女リーリエは、処刑される予定の主・エリーゼと容姿がそっくりだったせいで、身代わりとして処刑台へ立たされていた。
(私はエリーゼ様じゃないわ!)と心の中で叫んだ瞬間、前世の記憶がよみがえり、ここが読みかけだった悪役令嬢ものの小説の世界だと気づく。
しかも小説ではエリーゼが処刑されるはずなのに、リーリエが処刑されかけているという最悪の展開。
絶体絶命の瞬間、リーリエの前に現れたのは強面で悪人面の騎士ガウェイン。
彼はなぜかリーリエを抱えあげ連れ去ってしまい――?
◇◇◇◇
※全5話
※AI不使用です。
※「小説家になろう」「エブリスタ」様にも掲載しております。
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る
小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」
政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。
9年前の約束を叶えるために……。
豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。
「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。
本作は小説家になろうにも投稿しています。
身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~
ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。
彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。
――死んだはずの彼女が、生きている?
同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。
「今さら、逃げ道があると思うなよ」
瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。
秘された皇子と、選び直した愛。
三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?
* * *
後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる