「婚約破棄?あら、おやつの時間なので失礼しますわ」

夏乃みのり

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「お嬢様、お着替えを」

「嫌よ」

わたくし、アフタヌーン・ダージリンは、別邸のソファにしがみついていた。

「どうしてせっかく着替えた楽なワンピースを脱いで、またコルセットを締めなければなりませんの? これは拷問よ、人権侵害だわ」

「隣の領主様がいらっしゃるのですよ。パジャマのような格好で会うわけにはいきません」

専属メイドのミルクが、無慈悲にドレスを突きつけてくる。

到着して早々、わたくしのスローライフ計画に暗雲が立ち込めていた。

お隣の領主、セイロン公爵。

噂によれば、彼の血は氷でできており、その眼光だけで泣く子も黙るという。

またの名を「歩くシベリア寒気団」。

そんな危険人物が、なぜわざわざ謹慎中の罪人(冤罪)に会いに来るのか。

「きっと、嫌がらせに違いありませんわ」

わたくしはブツブツと文句を言いながら、しぶしぶドレスに袖を通した。

「『罪人がちゃんと反省しているか監視してやる』とか言って、いびりに来たに決まっています。ああ、憂鬱。このストレスで肌が荒れたら、慰謝料として高級エステ券を請求してやるんですから」

「はいはい。さあ、準備ができましたよ。客間へどうぞ」

ミルクに背中を押され、わたくしは重い足取りで客間へと向かった。

ガチャリ。

扉を開けると、そこにはすでに「冬」が来ていた。

部屋の温度が、明らかに廊下より二度は低い。

ソファに腰掛けている男。

漆黒の髪に、鋭いアイスブルーの瞳。

整った顔立ちは彫刻のように美しいが、そこには一切の感情が浮かんでいない。

セイロン公爵その人である。

(うわぁ……噂通りですわね)

わたくしは心の中で感嘆した。

彼が座っているだけで、周囲の空気がピリピリと張り詰めている。

テーブルの上の湯気まで凍りつきそうだ。

「お待たせいたしました」

わたくしは努めて優雅にカーテシーをした。

「お初にお目にかかります。アフタヌーン・ダージリンでございます」

セイロン公爵がゆっくりとこちらを見る。

その視線は、まるで獲物を品定めする猛禽類のようだった。

「……セイロン・ウバだ」

声まで低い。

重低音が腹に響くようないい声だが、内容は挨拶のみ。

愛想笑いの一つもない。

「この度は、突然の訪問失礼した」

「いえいえ。このような辺境のあばら屋へようこそ。何もお構いできませんが」

「あばら屋? ここは元王族の別荘だったはずだが」

「わたくしにとっては、美味しいお菓子がなければ王宮もあばら屋と同義です」

「……そうか」

会話が続かない。

沈黙が痛い。

普通ならここで冷や汗をかくところだが、わたくしは別のことを考えていた。

(早く帰ってくれないかしら。厨房で焼いているパウンドケーキ、あと十分で焼き上がりなのよね……)

チラチラと時計を見るわたくしに、セイロン公爵が怪訝そうな顔をする。

「……貴嬢は、焦っているようだな」

「ええ、まあ。命に関わる問題ですので」

「命?」

公爵の眉がピクリと動く。

「俺が来たことで、何か身の危険でも感じているのか?」

「はい。焼き加減という名の寿命が刻一刻と迫っております」

「……は?」

「あ、いえ。こちらの話です」

わたくしは誤魔化すように微笑んだ。

公爵は腑に落ちない様子だが、気を取り直したように口を開いた。

「単刀直入に言おう。俺が今日ここに来たのは、貴嬢の様子を見るためだ」

「様子、ですか?」

「ああ。王都からの追放、そして婚約破棄。普通の令嬢ならば絶望し、泣き暮らしていると聞いた。隣人として、最低限の温情をかけるべきかとな」

なるほど。

やはり「可哀想な令嬢」を見に来たわけか。

「お気遣い、痛み入ります。ですが、ご覧の通りですわ」

わたくしは両手を広げてみせた。

「わたくしは元気です。むしろ、王都にいた頃より血色が良いと言われますの」

「……確かに」

公爵がわたくしをじっと観察する。

「悲壮感が全くないな。やつれているどころか、肌が艶々している」

「ええ。昨夜は十時間寝ましたから」

「十時間……」

「それに、ここへ来る馬車の中でも、ずっとジャーキーを齧っておりましたので、栄養状態も万全です」

公爵が呆気にとられたように口元を引きつらせる。

「貴嬢は……本当に悪役令嬢として断罪されたのか? 実は別人なのではないか?」

「正真正銘、アフタヌーン・ダージリンですわ。ただ、世間の皆様とは『幸せの基準』が少し違うだけです」

「幸せの基準?」

「ええ。わたくしにとって、王子の愛などマカロン一個の価値もありません。ですが、美味しい紅茶と平穏な時間があれば、それこそが至上の幸福なのです」

きっぱりと言い切ると、公爵はポカンとしていたが、やがて喉の奥でクックッと笑った。

「……面白い」

「はい?」

「いや。これほど欲に忠実で、清々しい令嬢は初めて見た」

公爵の雰囲気が、ふわりと緩んだ気がした。

氷が少しだけ溶けたような、そんな変化だ。

「これならば、心配は無用だな。……ところで、これを」

公爵が従者に合図を送ると、桐の箱がテーブルに置かれた。

「引っ越しの祝いだ。つまらないものだが」

「あら、お気遣いなく……と言いたいところですが、いただけるものは何でもいただきます」

わたくしは遠慮なく箱に手を伸ばした。

蓋を開ける。

その瞬間。

ふわっ。

高貴で、華やかで、どこか青々しい香りが鼻孔をくすぐった。

わたくしの動きが止まる。

「……こ、これは……」

「我が領地で採れた茶葉だ。口に合うかはわからんが」

わたくしは震える手で茶葉をひと摘みし、光にかざした。

銀色の産毛(うぶげ)をまとった、美しい新芽。

針のように鋭く、それでいて繊細な形状。

「『シルバー・チップス』……! それも、最高級の……!」

わたくしはガバッと顔を上げた。

瞳孔が開いていたかもしれない。

「公爵様! これは市場には出回らない、幻の茶葉ではありませんか!?」

「……よく知っているな。確かに、今年の収穫の中でも特に出来の良いものを持ってきた」

「なんということ……! こんな国宝級のものを、挨拶代わりに!?」

わたくしの中でのセイロン公爵の評価が、音を立てて爆上がりした。

『危険人物』から『神』へ。

垂直上昇である。

「公爵様!」

わたくしはテーブル越しに身を乗り出した。

「もしかして、貴方様の領地は、あの有名な紅茶の産地『ウバ地方』なのですか!?」

「ああ、そうだ。我が領の主要産業だからな」

「素晴らしい……! なんて素晴らしいのでしょう!」

わたくしは思わず公爵の手を取りそうになり、寸前で思いとどまって自分の頬を包んだ。

「わたくし、決めましたわ」

「な、何をだ?」

公爵が若干引き気味に尋ねる。

「わたくし、貴方様と仲良くさせていただきます」

「は?」

「こんな素晴らしい茶葉を作れる方が、悪い人であるはずがありません! 貴方様は今日から、わたくしの『親愛なるお茶友達(ティー・フレンド)』です!」

「……はあ」

「早速淹れましょう! いえ、淹れさせてください! この茶葉のポテンシャルを最大限に引き出す自信が、わたくしにはあります!」

わたくしはミルクに向かって叫んだ。

「ミルク! お湯を! 温度は九十五度! 抽出時間は三分半よ! 一秒の狂いも許さないわ!」

「はいはい、ただいま」

ミルクが慣れた手つきで準備を始める。

その様子を、セイロン公爵は目を丸くして見ていた。

「……俺を恐れない女は初めてだ」

「恐れる? 何をです?」

わたくしは茶器を温めながら振り返った。

「貴方様がどれほど冷徹だろうと、お茶が美味しければ全てチャラです」

「……ふっ」

公爵が、今度ははっきりと笑った。

それは、氷の彫刻が微笑んだような、息を呑むほど美しい笑顔だった。

「変わった女だ。……いいだろう。その手並み、拝見させてもらおうか」

「お任せください。貴方様の舌を、とろけさせて差し上げますわ」

こうして。

わたくしと「冷徹公爵」とのファーストコンタクトは、恐怖ではなく、芳醇な紅茶の香りによって幕を開けた。

わたくしはまだ気づいていなかった。

この瞬間、彼がわたくしを見る目が、単なる「観察対象」から「興味深い獲物」へと変化したことに。

そして、焼き上がったパウンドケーキの存在を、完全に忘れてしまっていたことにも。
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