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45.奪いに来た理由
扉が閉まる。ぱたり、と音が消えた瞬間、応接室は不自然なほど静かになった。
私は深く息を吐く。
「ジェフリー、片付けをお願い」
「かしこまりました」
「アクセサリー選びは、また今度にするわ。商会長にそう伝えて」
気持ちが、どうにも落ち着かない。
「そちらも、かしこまりました」
私はそのまま部屋へ戻り、日記の入っている箱を開けた。取り出した日記を手に取る。
ページをめくる指が、止まらない。
ラルを妊娠し、白い結婚が認められる三年、伯爵夫人になる夢を、指折り数えていたララ。
『やっとよ。ここまで我慢したんだから。三年よ、三年』
だが、元妻の妊娠を知った途端、彼女の筆致は一変する。レオナール様への非難が、紙面を埋め尽くしていった。
『ちょっと待って。何それ。今さら妊娠? 聞いてないんだけど。それじゃ、私どうなるの? 伯爵夫人になれないってこと?』
『妻が失踪ってどういうこと。最低でも、あと三年なんてふざけないで!』
その一文の下には、殴り書きのような文字が重なっている。
「ありえない。計画が全部狂う。こんなの聞いてないし。ちゃんと約束守ってよ』
文字は次第に荒れ、感情のままに叩きつけられていく。
元妻への罵倒。そして、クラリスへの露骨な悪意。
『邪魔。ほんと邪魔。あの女とあの子さえいなかったら、全部うまくいったのに。どうして私が、他人のせいで我慢しなきゃいけないの』
筆跡は乱れ、インクが紙に滲んでいる。
そこに並ぶ言葉のすべてが、「予定通りに進まなかった」ことへの不満と逆恨みだった。
私は間違ってない。
悪いのは、全部そっち。
ページは、その自己正当化で埋め尽くされていた。
まだ使うには早い暖炉に日記を投げ入れ火を放つ。
日記を読み返しても、直接的にマリセラと接触した記録は見当たらなかった。少なくとも、文字の上では。こっそり見に行ったのだろうか。
マリセラ自身、白い結婚を目指していたとはいえ、私の存在が社交界で彼女の立場を悪くしていたのは事実だろう。
……気に入らなかったのでしょうね。
思わず、乾いた苦笑がこぼれる。だが、マリセラは自分のことは棚に上げている。
幼なじみの庭師と結婚式を挙げたくせに。
その事実から目を逸らし、責任をすべて他人に押しつけている。ならば彼女が今さらクラリスを求める理由は、母性などではない。
重たい思考を断ち切ろうとしていると、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
ノックの音とほぼ同時に、扉が開く。
息を切らしたまま、レオナール様が姿を現した。
ジェフリーがすぐに使いを出したのだろう。普段の落ち着いた様子は影を潜め、顔には明らかな焦りが浮かんでいた。
「アイラ、大丈夫だったかい?」
「ええ」
私は短く答える。
「……その、申し訳なかった」
「なぜ、あなたが謝るのです?」
問い返すと、彼は言葉に詰まった。
「いや、でも……」
「座りましょう」
それ以上のやり取りを遮り、向かい合う椅子を示す。
二人で腰を下ろした途端、張り詰めていた気が抜け、思わずため息が漏れた。
「マリセラのこと、どのくらいご存知でした?」
問いかけると、レオナール様は少し考えてから答える。
「隣国へ駆け落ちし、とある貴族の家でメイド長をしていることは知っていた」
視線を伏せ、続ける。
「夫は同じ貴族の家で庭師として働いているとも……。もう、この国に戻ってくることはないと思っていた」
メイド長。
出自を考えれば、侍女長として迎えられても不思議ではない。だが、姓を持たぬ平民である以上、メイド長という立場は、むしろ恵まれている部類だ。
「……クラリスを渡せ、と言われました」
「クラリスを?」
その言葉に、レオナール様は眉を寄せ、深く考え込む。
「……心当たりが、ある。マリセラの父が、何度も“引き取る”と言ってきた」
低く、重い声だった。言葉に、わずかな苦味が混じる。
「娘の代わりに、政略結婚をさせるつもりだったんだろう。自分のための駒として」
「……当然、断ったのですね」
「もちろんだ」
即答だった。私は静かに頷く。
「それなら、なぜ、本人が来たのでしょう」
その問いには、答えがない。リズを守るため――そうであってほしい。けれど、不安は、どうしても拭えなかった。
重い沈黙が、ようやく落ち着きかけた、そのときだった。
再び、廊下を急ぐ足音。
そして、執事のジェフリーが慌ただしく姿を現す。
「……旦那様、奥様。また、来ました」
「また?」
レオナール様が顔を上げる。
「マリセラか?」
返事を待つ間もなく扉が、乱暴に開いた。
無理やり押し入ってきたのは先ほど追い返したはずの、マリセラだった。
どこから入り込んだのか。正規の来客用通路ではないことは、その乱れた息と、焦燥に歪んだ表情が物語っている。
「レオナールが帰ってきたのでしょう! なら話は早いわ!」
甲高い声が応接室に響き渡る。
「……っ、部屋に無断で入るなんて、常識がありませんわ」
「マリセラ、君は一体――」
レオナール様の制止を遮るように、彼女は叫んだ。
「クラリスはどこ!? クラリスを返して!」
「“返して”とはどういうことだ」
レオナール様の声が、低く沈む。
「置いていったのは、君じゃないか」
「だから迎えに来たのよ!」
詰め寄り、指を突きつける。
「……ウォルターはどうした」
レオナール様の鋭い問いが飛ぶ。
「クラリスを引き取ろうとしていることを、知っているのか?」
ウォルター。駆け落ちした相手であり、今は庭師として働いている男の名であろう。。
その名を出された途端、マリセラは言葉を失った。視線を逸らし、唇を噛みしめる。
「あなた、リズを引き取ってどうするつもりなの?」
私は一歩前に出る。
「そのウォルターと、三人で親子ごっこをするの? その人との間に、子どもはいるの?」
「……子どもはいないわ」
吐き捨てるように言う。
「だから、リズが必要なの」
「……“必要”?」
「いいじゃない。あなたには息子がいるでしょう? クラリスは肩身の狭い思いをしているはずよ。だったら、私の実家で育ったほうが幸せじゃない」
睨みつけるように言い放つ。
「……実家?」
思わず、レオナール様を見る。
「実家に戻って、暮らすということかい?」
「いいえ」
マリセラはきっぱりと首を振る。
「クラリスだけ、私の実家に行くの。私たちは、これまで通り隣国で暮らすわ」
あまりにも身勝手な言葉に、言葉を失いかけた、その瞬間だった。
再び扉が開き、ジェフリーが入ってくる。
私は深く息を吐く。
「ジェフリー、片付けをお願い」
「かしこまりました」
「アクセサリー選びは、また今度にするわ。商会長にそう伝えて」
気持ちが、どうにも落ち着かない。
「そちらも、かしこまりました」
私はそのまま部屋へ戻り、日記の入っている箱を開けた。取り出した日記を手に取る。
ページをめくる指が、止まらない。
ラルを妊娠し、白い結婚が認められる三年、伯爵夫人になる夢を、指折り数えていたララ。
『やっとよ。ここまで我慢したんだから。三年よ、三年』
だが、元妻の妊娠を知った途端、彼女の筆致は一変する。レオナール様への非難が、紙面を埋め尽くしていった。
『ちょっと待って。何それ。今さら妊娠? 聞いてないんだけど。それじゃ、私どうなるの? 伯爵夫人になれないってこと?』
『妻が失踪ってどういうこと。最低でも、あと三年なんてふざけないで!』
その一文の下には、殴り書きのような文字が重なっている。
「ありえない。計画が全部狂う。こんなの聞いてないし。ちゃんと約束守ってよ』
文字は次第に荒れ、感情のままに叩きつけられていく。
元妻への罵倒。そして、クラリスへの露骨な悪意。
『邪魔。ほんと邪魔。あの女とあの子さえいなかったら、全部うまくいったのに。どうして私が、他人のせいで我慢しなきゃいけないの』
筆跡は乱れ、インクが紙に滲んでいる。
そこに並ぶ言葉のすべてが、「予定通りに進まなかった」ことへの不満と逆恨みだった。
私は間違ってない。
悪いのは、全部そっち。
ページは、その自己正当化で埋め尽くされていた。
まだ使うには早い暖炉に日記を投げ入れ火を放つ。
日記を読み返しても、直接的にマリセラと接触した記録は見当たらなかった。少なくとも、文字の上では。こっそり見に行ったのだろうか。
マリセラ自身、白い結婚を目指していたとはいえ、私の存在が社交界で彼女の立場を悪くしていたのは事実だろう。
……気に入らなかったのでしょうね。
思わず、乾いた苦笑がこぼれる。だが、マリセラは自分のことは棚に上げている。
幼なじみの庭師と結婚式を挙げたくせに。
その事実から目を逸らし、責任をすべて他人に押しつけている。ならば彼女が今さらクラリスを求める理由は、母性などではない。
重たい思考を断ち切ろうとしていると、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
ノックの音とほぼ同時に、扉が開く。
息を切らしたまま、レオナール様が姿を現した。
ジェフリーがすぐに使いを出したのだろう。普段の落ち着いた様子は影を潜め、顔には明らかな焦りが浮かんでいた。
「アイラ、大丈夫だったかい?」
「ええ」
私は短く答える。
「……その、申し訳なかった」
「なぜ、あなたが謝るのです?」
問い返すと、彼は言葉に詰まった。
「いや、でも……」
「座りましょう」
それ以上のやり取りを遮り、向かい合う椅子を示す。
二人で腰を下ろした途端、張り詰めていた気が抜け、思わずため息が漏れた。
「マリセラのこと、どのくらいご存知でした?」
問いかけると、レオナール様は少し考えてから答える。
「隣国へ駆け落ちし、とある貴族の家でメイド長をしていることは知っていた」
視線を伏せ、続ける。
「夫は同じ貴族の家で庭師として働いているとも……。もう、この国に戻ってくることはないと思っていた」
メイド長。
出自を考えれば、侍女長として迎えられても不思議ではない。だが、姓を持たぬ平民である以上、メイド長という立場は、むしろ恵まれている部類だ。
「……クラリスを渡せ、と言われました」
「クラリスを?」
その言葉に、レオナール様は眉を寄せ、深く考え込む。
「……心当たりが、ある。マリセラの父が、何度も“引き取る”と言ってきた」
低く、重い声だった。言葉に、わずかな苦味が混じる。
「娘の代わりに、政略結婚をさせるつもりだったんだろう。自分のための駒として」
「……当然、断ったのですね」
「もちろんだ」
即答だった。私は静かに頷く。
「それなら、なぜ、本人が来たのでしょう」
その問いには、答えがない。リズを守るため――そうであってほしい。けれど、不安は、どうしても拭えなかった。
重い沈黙が、ようやく落ち着きかけた、そのときだった。
再び、廊下を急ぐ足音。
そして、執事のジェフリーが慌ただしく姿を現す。
「……旦那様、奥様。また、来ました」
「また?」
レオナール様が顔を上げる。
「マリセラか?」
返事を待つ間もなく扉が、乱暴に開いた。
無理やり押し入ってきたのは先ほど追い返したはずの、マリセラだった。
どこから入り込んだのか。正規の来客用通路ではないことは、その乱れた息と、焦燥に歪んだ表情が物語っている。
「レオナールが帰ってきたのでしょう! なら話は早いわ!」
甲高い声が応接室に響き渡る。
「……っ、部屋に無断で入るなんて、常識がありませんわ」
「マリセラ、君は一体――」
レオナール様の制止を遮るように、彼女は叫んだ。
「クラリスはどこ!? クラリスを返して!」
「“返して”とはどういうことだ」
レオナール様の声が、低く沈む。
「置いていったのは、君じゃないか」
「だから迎えに来たのよ!」
詰め寄り、指を突きつける。
「……ウォルターはどうした」
レオナール様の鋭い問いが飛ぶ。
「クラリスを引き取ろうとしていることを、知っているのか?」
ウォルター。駆け落ちした相手であり、今は庭師として働いている男の名であろう。。
その名を出された途端、マリセラは言葉を失った。視線を逸らし、唇を噛みしめる。
「あなた、リズを引き取ってどうするつもりなの?」
私は一歩前に出る。
「そのウォルターと、三人で親子ごっこをするの? その人との間に、子どもはいるの?」
「……子どもはいないわ」
吐き捨てるように言う。
「だから、リズが必要なの」
「……“必要”?」
「いいじゃない。あなたには息子がいるでしょう? クラリスは肩身の狭い思いをしているはずよ。だったら、私の実家で育ったほうが幸せじゃない」
睨みつけるように言い放つ。
「……実家?」
思わず、レオナール様を見る。
「実家に戻って、暮らすということかい?」
「いいえ」
マリセラはきっぱりと首を振る。
「クラリスだけ、私の実家に行くの。私たちは、これまで通り隣国で暮らすわ」
あまりにも身勝手な言葉に、言葉を失いかけた、その瞬間だった。
再び扉が開き、ジェフリーが入ってくる。
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