彼女は特殊清掃業

犬丸継見

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狸、山を降りて狗に往き逢う事

第一話 狸、上京す

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 がたん、がたん、と車が揺れる。私――隠善いんぜん陽菜乃ひなのは、木々が芽吹き始めた山々の景色が徐々に人工的な街並みに変わっていくのを、車の後部座席で窓越しにぼうっ、と見ていた。嬉しさと、期待と、不安と、ごちゃまぜの感情。人生の節目、ってこういうのを言うんだろうな、って感じがする。高校卒業、その後でいきなり働く人もいるっていうし。
 私は進学組なんだけど。でも、実家が田舎だから、県内の大学なのに都市部に下宿することになった。つまり、人生初の独り暮らし。
「陽菜乃、アンタホントに大丈夫なん?独りでやっていけるん?」
「なんとかするよぉ、何とか……ごはんぐらい作れるし、何ならコンビニくらいあるでしょ、ファミレスとか生協とか」
「何なんもう、そんな食事ばっかりしとると、すぐ太るしお金も貯まらんよ。こっちも仕送りする甲斐がないわ」
「ごめんごめん、嘘。ちゃんとバイトとかも見つかるならやるし……」
 助手席のお母さんから叱られて、私はふふ、と笑った。バイトもしなきゃな。食費はともかく、フィールドワークとかも将来したいから。
 私は人文学科に進んで、「四国の妖怪」の研究をしようと思ってる。
 四国にはいろんな妖怪がいる。四国八百八狸の長たる隠神刑部狸は松山。針女、牛鬼うしおには南。犬鳳凰は山間部。仁淀川とか、剣山つるぎさんとかの大蛇とか。他にも色々いろんな妖怪がいるけど、もうほとんどメジャーな妖怪なんていない。
 だってもう、現代人たちは妖怪なんて信じてない。一部の研究者さんや作家さんは調べに来たり、作品のネタにしたり、たまにアニメや漫画のネタにされててすんごく嬉しいんだけど、「人間の幽霊とか呪い」の方が怖いって風潮だし、何ならもう人間そのものの方が怖いってんで、妖怪のことなんかよっぽどお祭りとか何かで取り上げられないとみんな忘れられてしまう勢い。
 人間に忘れられた、記録が失われた妖怪はどうなっちゃうんだろう。存在が抹消されて、消え去ってしまうんだろうか。人間だって、多分誰にも認知されなくなったら生活できなくなって「孤独死」って死んでしまう。そんな感じで、もしいたら消えてなくなってしまうのかな。私の好きな赤坊主とか夜雀とかジキトリに赤シャグマ、ノツゴ、オボラ……みんなみんな「いなかったこと」になってしまう。
 それに、伝承がねじ曲がってしまった妖怪はどうなるんだろう。宇和島の牛鬼は全国的に伝説があるとしても「牛鬼を殺した者は次の牛鬼になる」とかいうわけのわからない属性がついてしまい、有名な作家だったばっかりに根付いてしまった。「そういう存在」になって訂正できなくなった。最近も、大洲の蛇たちがポッと出の胡散臭い作家に異国の悪魔呼ばわりされてエンタメとして消費されて蛇筋の人たちが嘆いてた、って狸筋の人達づてに聞いた。
 だから、私は人文学科で四国の妖怪について、マイナー妖怪について論文書こうって思ってる。なんなら院まで進んで全国に発表しようと思ってる。そしたら「四国妖怪」をメジャーにできるはずだ。そうだ、おじいちゃんもそうすれば喜ぶだろうな。嬉しそうに、いつも私に「四国の妖怪」の話をしてくれたおじいちゃんは。私はいつも、縁側でおじいちゃんの膝に乗って、四国中の妖怪の伝説を聞くのが一番好きだった。大きくなってからは、オカルト趣味と言われようと自分で調べるようになった。

『ひなの、ひなのや』

 私はおじいちゃんを思い出す。どこに進学するか、都会に出るか、地元で堅実にやるか、いっそ高卒で地銀で働くか、親族会議やったときの様子。うちは隠神刑部狸様、お狸様を守る名家だ。何なら、お狸様の血を引いているという伝承もある。前当主のおじいちゃんと、現当主で公務員のお父さんと、お母さんと、次期当主の私が揃ってた。男孫だったらよかったんだろうけど、残念ながら孫は今のところ私だけ。年齢的にもう弟は望めない。このご時世に、跡継ぎとか血縁とか、そういうのは古いと思うんだけど、田舎だから口やかましく言われそうなところだけど、おじいちゃんもお父さんも親戚のみんなも、私を山口霊神のお狸様の巫女として迎え育ててくれた。

『ひなの、おまえは四国を出て都会なんぞに行ったら、遊び呆けて浅学非才の徒になるのが関の山やろう。ほやけん、都会には行かせん。これからは女でも学があればいっぱしの仕事で田舎で食うていける時代じゃ、愛媛の大学にしておけ。国立大学、松山市の中心。言うことなかろう。それに、四国なら知り合いも多いけん、何かあっても安心じゃ。そうそう、特に愛大あいだいの近くに不動産をやっとる知り合いがおるけん、下宿を見てもろうたらええ。しっかり学び、跡継ぎに相応しい学をつけえよ。見張っとるけんな』

 いつになく威厳のあるおじいちゃんに言われて、私の華の女子大生活は勉学に費やされることになったのであった。けど、学費を持ってもらってるし、今まで可愛がってもらったし、代々住んでるこの家もおじいちゃんからの持ち家だし、何より私がおじいちゃん子だから、何も言えない。私はどうせ、お狸様から逃げられない運命だし。ちらりと庭の遠景を見ると、山口霊神の隣に立っている隠神刑部狸様の像がニヤリと笑っているように見えてムカついた。
 出発の日、私は自分の左腕にオレンジ色の数珠を巻いた。おじいちゃんがかなり昔、石鎚山の神社で買ってきたお守り。お札もおじいちゃんは何枚かくれた。そして毎日、私の家が守っている山口霊神――隠神刑部狸神を祀っている——に手を合わせた。そして、山口霊神の社の奥のお狸様の像の頭に乗せていた柏の葉っぱを5枚ほど取って私に押し付けた。お守りだ、と言って。乾いた柏の葉っぱの臭いがした。そしてお狸様に
『どうか、この子が早う「芽吹きますよう」』
 と呟いた。柏の葉っぱは、お狸様が化ける時に頭に乗せる葉っぱ。私もお狸様、ってこと?
 私が何に芽吹くのか。きっと、「お狸様の巫女として相応しい人間に」あるいはもしかしたら――「お狸様」の、眷属、に。いや、まさかね。
 

 『伊豫いよの義賢が敵兵にかこまれました時古狸が采を取つて
  五千有餘の敵兵を惱し義賢を助けましたによりのちに神
  に崇められまして隠神刑部神と申して四民が信仰したさうで
  ござひます』
             ——『八百八狸:松山奇談』——


 車は大学通りに入った。大学の周りはもちろん学生街としてだいぶ発達してて、お店も色んな種類がいっぱいある。各種コンビニ、お洒落なカフェ、がっつり食べられる中華料理屋さん、大きいショッピングモール。すごい。東京や大阪みたいな大都会には程遠いけど、山に住んでた私にとっては十分凄い。そして、下宿ももちろんいっぱいある。公私の大学が横並びになってることもあって、学生や教授陣目当てのアパート・マンション・借家がひしめき合ってる。ボロボロの格安アパートから、お洒落なデザイナーズマンションまで選り取り見取り、少し足をのばせば到底手が届かなさそうなタワーマンションまである。この中で、私の家はどうなるんだろう。4年間、もしかしたら6年間以上を過ごすかもしれない家は。
『不動産をやっとる知り合いがおるけん、下宿を見てもろうたらええ。』
「親父の顔見知りがおるけん、もうその人に下宿借りさせてもらうわ。何でも敷金礼金前金0、月々1万5千円の破格やからな!!」
 ちょうど私が思い出したおじいちゃんの言葉を、お父さんが補足する。敷金礼金、はよくわからないけど前金はわかる。つまり、即入居可能、ってこと?一応、今日は内見とご挨拶ってことで、正式契約とか引っ越しはまた後日。とりあえず、どんな人なのかな。不動産屋さん仲介してるんなら、顔を合わせることもないかもしれないけど……でも、大家さんだったら苦情対応とかでそのうち顔合わすかな。

 車は横道に入り、徐々にその道も狭くなっていく。地面もガタガタ、未舗装なのか地面が荒れてるのか。私は後部座席でバウンドしながら、ちょっと不安になった。だって周囲の風景が、発達した大学通りから、徐々に離れてきている。うらぶれた一軒家とか、和風の古い平屋とか、活気がないと言うかなんというか。お父さんは駐車場とも呼べないような砂利の空き地に、車をいきなり停めた。
「え、駐車場ここでいいの?」
「ええんよ、ここがアパートの駐車場やから。まあ、借家との共用らしいけどな」
 砂利敷きの地面に降り立つと、お城山の森の臭いと、学生街側の人混みの臭いと、そして何だろう、何だか首の後ろの産毛が逆立つような変な感じがした。確かにまだ春先で寒いけど……そわっ、とした。もしかして、「出る」アパートだったりする?だから安いの?私は某お笑い芸人の「事故物件」の映画を思い出してた。でもああいう物件は「何があったか」言わなきゃいけないから、騙されることはないはず……と自分に言い聞かせる。
「あんた、何か嫌な感じがするわ。ちょっと気味悪いねえ、ここ」
「そげに言うなや。しゃーないやん、大家さんが『スジ』なんやから」
「えー、あんたそんなん信じとるん?お義父さんお得意の『言い伝え』なんやないの?」
 お父さんとお母さんは、私そっちのけで会話しながら進んでる。「スジ」って「筋」なのかな。ってことは四国だと蛇神筋?蛇って金運アップするらしいし、やっぱり不動産持つような人はそういう家なのかな。
 そこから迷路みたいな小道を歩いて、私達は開けた場所に出た。

「ここやここ。ここが紹介してもろたアパートや。どや、ちゃんとしとるやろ。一応学近やし、コンビニもスーパーも歩いてすぐやし、敷金礼金前金0!月々毎月1万
 5千円!学生にはリーズナブルでピッタリやぁ!」
「……は、へ……?」

 姿を現したあまりの物件に、私は思わず大ショックを受けて言葉通り腰を抜かした。膝から崩れ落ちそうになるのを、お母さんが支える。お狸様の家系だって言うけど、思わず本物の狸になっちゃうかと思った。
「何しとんの!しっかりしんさい!」
 だって、こんな、見るからにボロボロのアパート、私の実家よりボロボロな建物が私の、4年間――下手したら一生の、家だなんて——壁なんかあちこちヒビ入ってるし、外階段だって乗ったら抜けそうな心細さ、雑草生え放題、洗濯機は外。アパートじゃなくて「〇〇荘」とかって名前じゃないの?住んでる人も多分まばらで、外の集合ポストは記名式かつ無施錠。プライバシーなんて知らない、ってくらいに。横3室、2階建ての計6部屋。1階には2人住んでるみたいで、「高木」「正岡」ってそれぞれ102,101号室に表札がついてる。どっちも人間なのかな。というか、よく住む気になったなあ……
 アパート名らしい看板が一文字ずつ2階の外廊下の手すりに取り付けられている。それも一文字分取れちゃってる。
「犬」「 」「ア」「パ」「ー」「ト」
 「犬アパート」?住人全部犬飼ってるとか?ペット可物件?それはちょっと無理。
 私は自分でもどうしてかわからないけど、子供の頃から犬が苦手。別に野犬に襲われたり、大きな犬に吠えられたりとか怖いことがあったわけじゃないけど、何だろう。生理的に無理。正直流行りのトイプードルとかポメラニアンでも、YouTubeとかインスタで出てきただけで即閉じるくらい苦手なんだよね。そのこと、お父さんもお母さんもおじいちゃんも知ってるはずなのに。私だけじゃなくて家族全員、何なら親戚一同お狸様の家系だからか犬嫌いで、おじさんなんか農作業中に通りすがりの散歩中のチワワに吠えられただけで腰抜かして気絶して救急車だもん。お義父さんも、盲導犬のラブラドール連れて支所に入ってきた人にもろにビビっちゃって思わず奥に引っ込んで泣いちゃたっていうし。

 大家さんらしい人はいない。お父さんはスマホで何度も電話を掛けたりLINEを送ってるみたいなんだけど、返事がないみたい。仕事中かな?
「しゃあない、このままで内見さしてもらうか。アッコさんは相変わらず遅刻やろうし、部屋はもう開けてもろとるけん」
「大家さんが遅刻ぅ?ちょっと常識ないんと違うの、大丈夫なん?」
「大丈夫大丈夫、アッコさんとこはそういう筋やけん、来るんは来てくれるけん。ちょっといなげな筋なだけや。お前も知っとるやろ、あの筋は」
「そんなん噂やろうけど……ほんにいなげな大家さんやね」
 お母さんは大家さんのことをよく知らないみたいだけど、お父さんは知ってるみたい。「アッコさん」ていうからには女の人?というか、お母さんの言う通り、内見に遅刻する大家さんって大人としてどうなの。
 お父さんに先導されて、私とお母さんは外階段を上って2階に上がった。外階段と廊下の屋根は変色しきったトタン、案の定外階段はぎっしぎっしと軋む。もうダメ、南海トラフ地震とかきたら絶対死ぬ。逃げ場所とか確保しとかないと。
 廊下はコンクリだったけど、色あせて埃が隅々に溜まってる。1階の廊下は先住者が洗濯機を出してるから狭かった。けど、2階の廊下に洗濯機はない。がらーんとして、もしかして私が最初の住人なのかな。お父さんは3つ部屋のある一番奥、203号室という角部屋に踏み込んだ。一応ピンポンはついてるけど、マンションとかについてるインターフォンなんてもちろんない。
 室内は和室の六畳一間、砂壁、キッチンはタイル張り、お風呂は真四角。幸いベランダはあるけど、屋根はトタン。
「ちょ、ちょっと狭くない?」
「まあ、荷物もあんまり増やさんほうがええやろから、これくらいの広さがちょうどええやろ。友だちも呼べるし、なんせ大家さんが頼りがいのあるアッコさんなんがええ。下手な警備会社より安心じゃ」
「お、おとうさん、天井に何か雨漏りの染みが……」
「敷金礼金前金0、ほんまにアッコさんはええ人や。月の家賃も破格やし」
 お父さんは見るからに嬉しそう。縁故はともかく、お金に目がくらんだんだろうな……娘の花の大学生活を、金に目をくらませてボロアパートで過ごさせるなんて……でも、まあ確かに私の家も所詮は山口霊神を祀ってるってだけで、その上参拝客も減ってて共働きの兼業農家で何とか稼いでる感じ。そうだよ、実家の予算を考えないと、もう農家も先細りだし、お父さんが役所勤めでお母さんが先生だからまだ食べていけてるだけで……ちょっと、反省。本当に研究を院までしたいなら、本腰据えて、井上円了大先生みたいに妖怪学を研究するならお金は大切にしないと。家だって、節約しなきゃ。
 そこで私はやっと冷静になれた、というか覚悟が決まった。
「ここが、ここが私の家……」
「ほうやで、角部屋やし、お隣さんも下もおらんからのんびりできる。ええ部屋や」
「そっか、それなら多少うるさくしても……っ!?」
 みしり、と空気が歪んだ音がした気がした。言葉が継げない。唇が震える。
 
 外からものすごく嫌な感じがする。
 こういう時、私のカンは大体当たる。私は子供の頃から「カンが強い」子だと言われて育てられてきた。昔から、何だか不思議なものを見たり、感じ取ったりする。嫌な感じがしたら、大体そこで人が亡くなってたり、変なスポットだったり、最悪人間の影みたいなものとか、ふわふわした何かを見たり。霊感少女、ウソツキ、メンヘラ、って小中高と馬鹿にされてきたけど、多分私は自分で言うのもアレだけど、「ホンモノ」。お狸様の力なんだと思う。私がお狸様に連なる一族だから、お狸様の血を引くから。
 それにしても、この気配は凄く嫌だな。普通のオカルトスポットより嫌な感じ。怒り、憎しみ、怨恨、嫉妬、嘲笑、狂気……そういう「悪いもの」がぎゅうっと、「人為的に」凝縮してるような感じ。圧が強い。
 これは……何て言うんだろう、「呪力」?オカルトぽく言うと「じゅ」?

「ああ、アッコさんが来たみたいやね。ごあいさつや。ちょうどよかった」
 お父さんが、お土産のお饅頭を持って意気揚々と外に出た。お母さんはちょっと引いて後をついていく。私と一緒で、少し怖いみたい。寧ろお父さん、どうして平気なの?って思う。こんなに「こわいもの」がいるのに。お父さんは「零感」なの?こんなに嫌な咒の気配なんて、普通の人でもわかりそうなものだけど。
 外に出ると、咒の気配が一層強くなった。階段を降りた先、1階に誰かいる。呪力の凝集体みたいな、誰か。あれが、アッコさん?
「おうい、アッコさんや。この度は娘が世話になりますぅ。いやあ、アッコさんが賃貸をやってくれててほんに助かった。だんだん」
「……いーえ、こちらこそ」
 お父さんは目の前にいる禍々しい咒の塊――それなのに比較的さっぱりした、眼のぐりぐりした女の人――にお土産を渡してペコペコした。その妖怪はお土産をシャッ、とやけに素早い挙動で受け取ると、ハスキー・ボイスで答えた。にぃーっと笑う。耳まで口が裂けて、鋭い犬歯が覗く。

 この女の人、身長はお父さんより高くて脚がすらっと長い。くびれたウエスト、結構大きなバスト、羨ましいくらいのナイスバディ。だけどエロティックていうんじゃなくて、引き締まったアスリート系筋肉質って感じ。こげ茶の髪は前下がりボブ、何となく犬の垂れ耳を思い出した。顔の感じも太眉で、こころなしか目の周りの茶グマが濃い。ぱっと見30代、ココアブラウンのロングワンピにクリーム色のカーディガンとパンプス。美人なお姉さん、って感じ。でも、この人の中にはぎゅっと濃縮された咒がある、気がする。顔の中で浮いた赤系のリップが、凶悪な咒を禍々しく映して、鋭い牙を映してる。怖い、なんか、お狸様たちにはない凶悪性がある。

 大家のアッコさんは、ずいっと私の方に顔を寄せて、またすらっとした鼻梁をひくひくっと動かした。大きめの鼻。
「あ、狸。狸の臭い――」
「え、や、なんで、私人間……」
 私は思わず、お母さんに縋りついた。それを見ると、アッコさんはにっこぉ~、っと笑いを浮かべてすうっと引き下がった。やたら尖った犬歯が見えた。
「こりゃ、アッコさん、あんまりこの子をからかわんといてくれや。おぼこい子なんやから。寝起きやからって、あんまりいなげなことせんといて」
「ごめんなさい、あんまりにも可愛いから。そう、『まだ』なんですね」
 お父さんに注意されて、アッコさんは笑った。長身を折り曲げて頭を下げるけど、何が「まだ」なんだろう。もしかして、私が隠神刑部の巫女で、狸の筋だって、この人もうわかってるのかな――
 こんな人の管理下でずっと暮らすなんて、急に不安になる。お父さんはしきりに「悪い人じゃないから」「からかうのが好きなだけやから」って庇ってるけど、私はもう不信感しかないよ。お父さん、美人だから誑し込まれてるんじゃないの?
「この人なんやの。ちょっと怖いわ。大体、不動産やっとるなら名刺とかないん?」
 お母さんが私を庇いながら言う。確かに、大家さんなら名刺くらい持ってそう。大人だし、商売してるジエイギョウ?なんだから。
 でも、アッコさんは少し困ったような顔をして、
「名刺、ですか……」
 とぼそぼそ言うだけだった。お父さんがフォローを入れる。
「アッコさん、相変わらず名刺もないんか。ちゃんと商売するなら作った方がええ言
 うたやん。いかんて、信用第一なんやから」
「ごめんなさい、どうしても先延ばし癖があって。業者に頼むのも気が付いたら後手
 後手になってしまって……代わりに取り急ぎ、これでお願いしますね?」
 そう言って、アッコさんは一枚のメモをお母さんに渡した。花柄の、思いのほか可愛いメモ。そこに、これまた意外なしなやかな美文字で
「犬上アパート管理人 犬上いぬがみ 明子あきこ
 と書かれていた。そうか、あの抜けてた看板の一文字は「上」。ここは「犬上アパート」。
「こちら、大家さんの犬上明子さん。このアパートと、いくつか借家を管理しとる、
 ここ一帯で、いや、愛媛でもかなり有名な『筋』でな。

 この人は犬の神さんの筋、犬神いぬがみ筋なんや」
 
 犬神。「犬の神」。狸神を祀る私と、どういう巡り会わせ?どうして神様なのに、咒が固まってあんなに怖い感じがするの?邪神、とか祟り神、なの?それに、「筋」――「犬神筋」って、どういうこと?蛇神筋とは違うの?
 アッコさんこと明子さんは、ずいいっと私の顔に自分の顔を寄せて、にっこり笑って言った。どこか、人懐っこい犬の顔に似ていた。

「これからよろしくね、お嬢ちゃん?私は犬神筋だけど、『ちゃんとしてる』から安心してね?今日日狸なんか食わないよ、犬だってちゃんとしてるんだから」
 そう言って、明子さんは下手くそなウインクをした。
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