彼女は特殊清掃業

犬丸継見

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狸、山を降りて狗に往き逢う事

第二話 特殊清掃 タワーマンションM

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 入学式も近づいた引っ越しの日、私は、いや、私とお父さんとお母さんは、また「犬上明子」さんに会いに行った。明子さんは相変わらずちゃんとメイクして、茶色いロングワンピースを着て長袖のベージュのカーディガンを羽織っていた。今度の足元は黒のパンプス。つばの広い女優帽?っていうのを被ってて、ちょっとしたお嬢さん、って感じ。不謹慎と言うか失礼だけど、「八尺様」を思い出す。そこまで明子さんは大きくないけど。
「改めてこんにちは、隠善さん。もう鍵は開けてありますから、いつでもなんでも運び込んでください」
「おお、アッコさん今日も別嬪やなあ!だんだん、引っ越し屋はそろそろ来るやろけん、先わしらは賃貸契約の方結んどくか」
「そうですね。お母様と陽菜乃ちゃんの方だけ来ていただいて、お父様は引っ越しの立ち合いとお手伝いをお願いしますね」
 そう言って、明子さんは私とお母さんを急かした。編み籠のショルダーバッグからはいくつも書類が覗いている。賃貸契約書かな。ていうか、どこで書くんだろう。明子さんの家に行くのかな。
「近いところはあそこしかないので、申し訳ないですがあそこで契約書をご記入いただきます。すみません、私、個人で不動産を管理しているもので仲介業者もいないんですよ。だから、オフィスも無くって」
 そう言って、明子さんは道路を挟んだ向こう側にあるコンビニを指さした。コンビニには、外から見てもわかるくらい広いイートインがあった。建築業の人が休憩して競馬新聞読んだり、主婦っぽい人が集まってくっちゃべったり、色んな人が飲食してる。あんなところで契約を……?
「ちょっと、非常識やないですか?あそこコンビニやないの」
 お母さんはやっぱり神経質に、明子さんに食い下がった。でも明子さんは前ほど挙動不審じゃなく、にっこりと笑ってお母さんに返した。にいっと笑った口の犬歯がやたら鋭い。「犬神筋」だから?
「ごめんなさい、さっきも申し上げた通り、私オフィスとか無いんです。私の家でもいいんですが、生憎古くて汚くて……あそこなら、飲食しながら契約できますし、すぐに契約書のコピーを取ることもできます。ガストでもいいんですけど、コピーまで済ましておきたいので」

 ちょうど信号が青になって、私とお母さんは犬に追い立てられるように速足で横断歩道を渡らされた。そうして、コンビニに押し込められた。明子さんは適当な食べ物とカフェラテ3本を買って、意気揚々とイートインの階段を上がっていく。私はお母さんと顔を見合わせた。
「どうする?何か食べる?」
「何か食べんと悪いやろ……陽菜乃はどうする?」
「じゃあ私、パンケーキ食べる……」
「私はコーヒーでええわ……」
 パンケーキとコーヒーを持って上がると、既に明子さんは窓際のカウンター席に書類を広げて陣取っていた。私達が席に着くと、明子さんは帽子を脱いでブルーマウンテンのカフェラテをずずぅーっ、と一気飲みした。
「敷金礼金所謂前金は全部ゼロね。そう言う契約にでもしないと、あのアパートに人が入るとは思えないでしょう。必要なものは大体もう郵送で頂いているし、あとはこちらの契約書にサインとハンコを頂くだけ。お母様と、陽菜乃さんの」
 明子さんは私達の前にずいっ、と契約書を出した。普通の契約書と多分あんまり変わりない。ていうか、ネットとかでダウンロードした書式っぽい。本当に大丈夫なの?お母さんは眉間に皺を寄せてサインをし、ハンコを押した。私も自分の名前を書いて、印鑑登録したばかりの「隠善」のハンコを押す。その契約書を、明子さんはしゃっ、とすぐに奪い取った。
「じゃ、コピー取ってきますね。これでも読んで待っててくださいな。これ、うちのルールだから。読んておいてください。厳守なので」
 足早に、明子さんはプリンタに走る。確かにこれならワンストップで終わるけど、なんというか、こんな公の場で契約書を書いたり契約書をコピーしたり……ちょっと抵抗あるなあ。記録とかコンビニのプリンタに残ったりしないだろうか。
 私とお母さんは、明子さんに渡された書類を読んだ。そこには
「犬上アパートのおきて」
 とポップ体で書かれていた。そしてさらにその下に、いくつか項目が続く。
「【重要事項!!】
 ①引っ越し等必要な場合以外で路駐をしないこと
 ②ゴミ捨て・分別は地域のルールに従うこと(わからなければ大家まで)
 ③退去・転居予定は3か月前に要連絡
 ④同棲・ルームシェアは応相談
 ⑤借家への転居は応相談
 ⑥鍵の紛失は要相談
 ⑦騒音・住民間の係争・害獣害虫被害は大家まで
 【超重要事項!!必ず守ってください!!】
 ①夜中に遠吠えがしても外に出ないこと
 ②大家の腕の傷について聞かないこと
 ③大家の疾患について深入りしないこと
 ④大家の副業について深入りしないこと
 以上よろしくお願いいたします。」
 え、何だろう、この下の4項目は。遠吠え?犬神だから?腕の傷?長袖だからわからないよ。疾患……?病気があるの?副業……?不動産以外に?
「不動産以外に仕事してるのかなあ」
「そうやねえ、副業て、株とかやろか。うちみたいに農家とか?」
「それはこれからお話ししますね」
 がたんっ、と私とお母さんは椅子から腰を浮かせた。明子さんが私とお母さんの間から「犬上アパートのおきて」を覗き込んでいる。にやにや笑って、美人が台無し。
明子さんは自分の席に座り直して、2本目のブルーマウンテンのカフェラテをずずーっと一気飲みした。そんなにカフェイン取ったら体に悪いんじゃないのかなあ。私とお母さんは小さくなって、明子さんの方を伺った。
「私の副業――というか、どちらかというとこちらが本業かも知れませんが、何卒ご理解ください」
 明子さんは名刺らしいものをずいっ、と出してきた。この前は作ってなかったのに、急ごしらえで作ったのかな。でも、その名刺には「不動産管理」なんて文字はない。

『特殊清掃業「犬神」明子』

「あらあ、アッコさん、苗字の字が間違うとるで。神様の神じゃのうてウエの上じゃないの?」
 お母さん、いらないことを言う。私だって気づいてたけど、何だか怖くて黙ってたのに。明子さんは3本目のブルーマウンテンのカフェラテをすすっている。
「いいえ、合ってますよ。犬神筋の者で、その筋の力で特殊清掃をするので。不動産業者の間では、その名の方が通じるんですよ」
 ニコニコ笑いながら、明子さんはコピーした契約書の控えを私にくれた。「筋の力で特殊清掃」って、お祓いってこと?管狐使いとかはお祓いするって聞くけど、そういうやつなの?
「犬上さんはお祓い屋さんなんですか?」
「お祓い屋さんなんて言ったらお祓い屋さんが怒るよ。犬と一緒にするな!って」
 へへへ、と明子さんは笑って今度は厚切りビーフジャーキーをかじり始めた。がつがつもりもり食べる姿は服装とのギャップがすごい。でもその顔は、犬だ。化粧をして綺麗なはずなのに、顔だけ甲斐犬とか、四国犬みたいな日本犬だ。
「私は犬の神、犬神の筋だからね。やり方が汚いの。野良犬はどんな風に食事をするか、陽菜乃ちゃんは知らない?」
「ざ、残飯とか……ゴミを漁る……それか、狩りをする……」
 失礼かもだけど、私は思いつく限りのことを言った。明子さんは怒るかと思ったけど、逆ににっこり笑って私の頭をいきなり撫でた。
「おっけーおっけー、大正解。私の特殊清掃は、そういうこと。あのねえ、私はあなたのおじい様に色々ことづかってるの」
 明子さんの咒がざわざわぁっ、とちょっと強くなった。肉を食べたからかなあ。それにしても、おじいちゃんから何をことづかってるんだろう。おじいちゃん、明子さんとどうやって……電話とかかな。あんなによぼよぼなのに、LINEはないよね。
「ことづかってるって、何をです?」
 お母さんが食い気味に言う。お母さんはことづけの内容を聞いてないんだ。明子さんはニコニコ笑ったまま、言った。
「『私の仕事を見せるように』と。陽菜乃ちゃんは箱入り娘なんでしょう。だから、おじい様は『社会勉強をさせるように』と。せっかく私が大家であるのだし、何より特殊清掃という生業なので。そういうことを生業にしている方って、もう少ないでしょう?それも犬神筋ですよ。犬神筋の特殊清掃、社会勉強にうってつけじゃないですか?」
「でも、犬神のやるこというのは、人を呪って、食い荒らして——」
 明らかにお母さんは警戒してる。差別、って感じ。怖がってる感じ。それに対して、明子さんはへらへらっと笑って流した。手をひらひら、って変に動かして誤魔化した。
「もちろん、昔はそうでしょう。でも今はちゃーんと社会に貢献していかないと、憑き物筋も生きていけないご時世なんです。奥様もお判りでしょう?私達とて、もう今までの犬神とはまた違う生き方をしているのです」
 言うだけ言って、明子さんは私に向き直った。相変わらず、ニコニコ笑っている。
「今日はお試しで、私の『副業』に付き合ってもらうよ。大丈夫、一晩一緒に泊まるだけだから。何もなければそれでよし、何か起きても——私があなたを守るから大丈夫」
 私が返事をする前に、お父さんが息を切らせてイートインに上がって来た。お母さんがLINEしてたみたい。
「あのねえ、この人が、陽菜乃に仕事を手伝えって言うんよ。いきなり」
「ああ、その件なら親父にわしも聞いとる。大丈夫や、明子さんの仕事は何もなけりゃなんもないし、なんぞあっても犬神筋は強いけん。ちゅーわけで、今晩は明子さんと一緒に泊まり。お父さんとお母さんはお前の部屋の片づけとか整理しといたるから」
 私はうんともすんとも言えず、肉を食べ終わった明子さんにぐいっと肩を抱き寄せられた。犬の毛の臭いがした。
「それじゃ、お嬢ちゃんお借りしますね♪」

 明子さんは、私を今度はファミレスに置き去りにした。ちょっと待っててほしい、適当に時間を潰しといて欲しい、と無責任に言われて、私はソフトドリンクバーとケーキ食べ放題で時間を潰した。明子さんにもらった名刺を見て、
「特殊清掃」
 を検索する。wiki曰く
「事件、事故、自殺等の変死現場や独居死、孤立死、孤独死により遺体の発見が遅れ、遺体の腐敗や腐乱によりダメージを受けた室内の原状回復や原状復旧業務を指す。」
 とか出て来る。出てくる画像の人はみんな白装束というか、全身防護服にガスマスクみたいな感じで物凄いゴミ屋敷を掃除している。人が腐ったシミ?もある。明子さん、あんなにきれいな人なのに「犬として掃除する」「野良犬の食事」って言うなら、まさか死体を食べたりするのかな……そんな現場、一緒にいたくないんだけどなあ。でも、犬神筋は四国の有名な憑き物筋、妖怪だから実態を知っておかないと。おじいちゃんもお願いしてくれたし、きっとオカルト的なものを見せてくれるんだ。最悪の場合でも、明子さんが守ってくれるとああまで言い切ってくれるなら安心。

「ごめんごめん、待った?」

 明子さんはがらりと服装を変えて現れた。全身黒ずくめ、スポーティーなスニーカー、ソフトレギンス、パーカー、全部真っ黒。ソフトレギンスがぴったりしてて、目のやり場にちょっと困っちゃうなあ。何か荷物があるのか、黒のバックパックを背負ってる。明子さんはソーセージの盛り合わせを頼んで、私の目の前に書類を広げた。
「まずは、待たせた分ソフドリとケーキ食べ放は私のおごりね。んで、今日の仕事なんだけど、中谷不動産さんから。うちの大口顧客さんなんだけどね」
 明子さんが机の上に広げたのは、部屋の間取り図だった。マンションかな?結構広そう。2LDK、って書いてある。ウォークインクローゼットとかもある。ここの特殊清掃をするのかな?こんな豪華な家でも、自殺とか孤独死する人がいるんだなあ。こんなにゴージャスで、恵まれてて、多分お金もあっただろうに……何だか、虚しい。しんみりする私を差し置いて、明子さんは笑いながら部屋の情報欄を指した。
「この辺で一番高いタワマンだよ。レーベス松木町。歩いて行ける。ここの1405室で首つり自殺。私達はこの部屋に、一晩だけ住む」
「住む?一晩泊るんじゃなくてですか?」
「ううん、賃貸契約を結んで一晩だけ住むの。でもそんなの形だけ。もちろん家賃なんて発生しない、むしろ向こうが私に報酬を支払ってくれる。一晩犬神を住ませて、それに報酬をプラスしてでも何とかしたい大事な物件、ってわけ」

 私は純粋にすごい、と思った。そんな地上14階のタワーマンションに一晩とはいえ住めるなんて。人は死んでるけど。

「その死んだ人が何か悪さをしてるから、明子さんが必要なんですか?」
 ばりばりばり、とソーセージをあっという間に平らげながら、明子さんは説明を始めた。
「違うよ。それは住んでみないとわからない。そうじゃなくてね、こういう事故物件…… 瑕疵物件かしぶっけんともいうんだけど、人が自殺したり殺されたり孤独死して汚れたりした部屋はね、次に住む人にそれを言わなきゃいけない『コクチギム』っていうのが生じるの」
 明子さんは資料の隅に添え付けのアンケート用ペンで「告知義務=こくちぎむ」と書いた。
「その部屋で何があったか、どうやって人が死んだか……少なくとも、人が死んだことだけは絶対伝えなきゃいけない。絶対に。じゃないと法に反するし、後で揉めて訴訟になるから。でも、そうなったら、それまでの家賃だとよっぽどの物好きしかその物件には住まないよね……だから、家賃を下げなきゃならなくなったりして、不動産屋や所有者にとっては損得で言うかで言うと損なの。ここまではわかる?」
「告知義務」から矢印を書いて、「人が来ない」、更に矢印を書いて「値引き」、そして「損する」とまで明子さんは書いた。雑な(´;ω;`)マークまで書いて。そういえば明子さんも不動産経営だから、わかるんだろうな。損の具合が。私はわかったような顔で明子さんの顔を見上げた。
「はい。要するに、この14階の部屋も、住民が死んだから不動産屋さんに告知義務が発生して家賃が下がったり人が入らなかったりしてるんですね、こんなにいい物件なのに」
「話が早いねえ、いい子いい子。流石国立に受かる子だ」
 明子さんはまたニコニコ笑って、私の頭をポンポンと撫でた。
「ただね、いつまでも告知義務があるわけじゃない。一番手っ取り早いやり方は、『次の住民を住まわせること』。人ひとり挟んだら、もうその次の入居者には何も言わなくていいの。値段も元通り、何もなかった部屋と同じ」
 なるほど、だから「一晩だけ住ませる」。書類上でも住んでたら、その事実は法律上で告知義務を打ち消してくれる。明子さんはそのために呼ばれるんだ。でも、「特殊清掃」は?
「明子さん、特殊清掃じゃないんですか?ただ住むだけでいいんですか?」
「だから、それは住んでみなきゃわからないんだって。とにかく私達は、この部屋に一晩住んで『告知義務』を消滅させて、ついでに死人が悪さをするならそれも『特殊清掃する』ってだけ。さ、そろそろ行くよ、陽菜乃ちゃん」
 明子さんはいつの間にかソーセージの盛り合わせを食べ終わり、ぺろっ、と口の周りを舐めた。



「もしもし、こちら犬上です。これより取り掛かります」
 明子さんは1405室に入り、靴を脱いで上がった。そして、照明を間接照明まで落としてバックパックから軽食を出す。全部肉類、カルパスの山、厚切りビーフジャーキー、生ハム、サラダチキン。よく人が死んだところでご飯を食べられるなあ、って思う。そういえば、おじいちゃんが「犬神は大食いじゃから、食われんようにな」って昔私をからかってたなあ。この調子だと、本当に大食いみたい。フローリングの床に胡坐をかいて、もっしゃもっしゃと肉を食べてる。
 肉って、あんまり霊によくないのになあ。人間の私でも知ってるのに。生臭物、っていって忌避される。今のところ私には何も見えないし、嫌な感じもしない。私は豪華なソファーの上で横になって、胡坐をかいて肉の山をもっしゃもっしゃと食べる明子さんの背中を見ていた。時間はもう22時を回ってる、ちょっと眠い。このまま寝ちゃってもいいかなあ。でも、流石タワーマンション。綺麗な夜景。あーあ、あのアパートに戻るのが気が重いなあ。今頃お父さんとお母さんは引っ越しの整理してくれてるのかなあ。流石にこのタワーマンションに学生は住んでないよね。あ、でも私今夜一晩だけ、この家の住人なんだ。明子さんと一緒に。
 明子さんがテレビをつけた。適当なニュースを流してる。国会とか政治とか色々。人間の世界は本当にややこしい、こんなに人間が怖いなら妖怪も出てこられないよね。ま、妖怪の中でも誰が偉いとか、結構論争があってまとまらないし、そもそも四国の狸の中でも議論があるし。そういう人や妖怪のゴタゴタを、咒を持ってる犬神筋の明子さんはどう思ってるんだろう。何を考えて、どう扱われて四国で生きてきたんだろう。妖怪と人間のはざま、蛇神筋や狐憑きよりも怖いと伝えられる憑き物筋として。窓の外に見える月は満月に限りなく近い。人狼は月の満ち欠けが強さとか変化に関わるって聞くけど、犬神筋はどうなんだろう?明子さんを見てたらわかるのかな……私はいつしかぼーっとしていた。

 どれほど経っただろう、ぞわっ、と嫌な感じがした。何か、寒気が喉にこごって、嘔吐感みたいにせり上がってくる感じ。総毛立つ、ってこういう感じなのかな。春先の夜の寒さ、なんてもんじゃなくて風邪どころか異常な寒さ。私は身を縮めて、明子さんに声をかけた。
「明子さん、何かちょっと寒くないですか?」
「うんうん、陽菜乃ちゃんはそう感じるんだね」
 明子さんは振り向かないけど、笑ってるみたい。その時、テレビの画面が揺らいだ。ニュースの男性アナウンサーが、同じ言葉を繰り返し始める。有名人の自殺のニュースだったけど、ずっとアナウンサーが、
「俳優の■■■■さんが、ご自宅で亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました」

 って繰り返して、段々アナウンサーの顔つきが変わって来て、若い男の人だったのが知らないおじさんになって、虚ろな顔のおじさんが、真っ黒な背景で、紫色の顔の、澱んだ目のおじさんが、だんだんおかしな声になって

「亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました

 首 ヲ 吊 ッ テ 、亡 ク ナ リ マ シ タ」

「きゃああ!」
 私は飛び上がって、ソファーから転がり落ちた。テレビ画面は元通りに戻ってる。さっきまでと同じニューススタジオ、さっきまでと同じ若いアナウンサー。何だ、寝ぼけてたんだ。きっと夢、話半分に有名人の自殺なんて聞いたから混ざって見た悪夢。有名人の自殺も、それはそれで事実だけどこの部屋とは関係ない。
 あれ?でも、俳優さんは「自宅で亡くなった」としか、言ってなかった。「首を吊って亡くなった」、なんてアナウンサーさんは一言も……
「そうだねえ、あなたはこの部屋で首を吊って死んだねえ」
 いつの間にか、明子さんがぬぅっと立ち上がっていた。テレビと間接照明が、ばちばちと明滅を始める。

 亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました、亡くなりました

 また「亡くなりました」の連続。具体的な霊障もあるし、もう全身が泡立つぐらいの恐怖なのに、命の危機を感じるのに、肝心の幽霊は見えないのに、もちろん幽霊相手に物理的な攻撃はできないのに——どうしてそんなに余裕なの!怖いよ!明子さん、どうするの!?私は数珠と柏の葉っぱを押し花にしたものを握り締めてうずくまった。それに対して、明子さんは悠然と「それ」に近づいていく。

「死んでお掃除されたけど、埋葬されたけど残っちゃったんだねえ、おじさん。次の人があなたのバブルのお城に入ってくるのはイヤなんだね?でもそれは、人の世界では許されない。あなたはもう死んでて、この世界では異物なの。『私と同じ異物なの』。だからもう弁えなさい」
 明子さんは、ばさっと上半身のパーカーを脱ぎ捨てた。引き締まった上半身。黒のスポブラだけ。明子さんの呪力が急に高まって、目に見えるくらいの黒煙のような咒が立ち上る。そのシルエットが、犬の姿に変わっていく。明子さん、体は人間なのに、首から上が犬になった。
「異物になったからには、もう戻れないものね。自分でもどうしたらいいかわからないのよね。いいよ、それなら私の中に取り込んであげる。私の咒の中に飲み込んであげる。自分がわからなくなるくらい、楽にしてあげる」

 ――だから、あなたの魂、いただきます――
 
 うううああああああああああおおおおおおおおおおおお!
 
 耳をつんざくような、犬の咆哮。明子さんの首がひゅんっ、と、すぽーんっ、と冗談みたいに抜けて、テレビの後ろに潜り込んだ。それと同時に、あのおじさんのけたたましい絶叫が響く。私は思わず耳をふさいだ。テレビの後ろから、しゃっ、と黒いものが飛び出して、部屋中を飛び回る。おじさんの顔をした、黒いモヤモヤがものすごい速さで逃げ回る。その後を、明子さんの犬の生首が追いかける。
 明子さんの首から下、体も挟み撃ちにするようにして、おじさんの霊を捕まえようと壁を蹴って走る。軽やかに、高い天井に三角飛びでひらりと舞う。そして、その胴体がおじさんの額に勢いよくかかと落としをした。幽霊のはずなのに、すり抜けたりせずに「がつっ」と鈍い音がしておじさんの霊がへろへろと床に落ちた。額が生きてる人間みたいにがっつり割られてる。
 床に落ちたおじさんの上に、明子さんの胴体がどすん、とのしかかるように着地する。身動きの取れないおじさんに、明子さんの首――犬の首は襲い掛かった。おじさんは苦しそうに、明子さんの胴体と犬の首を払いのけようともがいている。けど、犬の首は深々と食らいついて、めきめきと音を立てておじさんを食べ始める。割れた額に鼻をねじ込み、口の周りを血まみれにして、ばりばりと頭蓋骨を嚙み砕き広げて、脳みそを引きずり出して、くちゃくちゃと咀嚼して、目玉を、鼻を、頭蓋骨までもを、ばきばき、ぬちゃぬちゃ、ぐちゃぐちゃと――
「うっ」
 私は思わず込み上げる胃液に口を押えた。今はもう頭は食い散らかされて、犬の首は胴体のモヤを口の中にシューっと呼吸と一緒に吸い込んでいる。
 おじさんの何だろう、呪力?咒?が、犬の首の中に取り込まれて一緒になる感じがする。犬の首がひゅうん、と明子さんの胴体にくっついて、咒が解けて人間の頭に戻る。それに反して、食べた分のおじさんの咒が加わって、おばさんの咒が膨らむのを感じる。有象無象の咒の塊、奔流の中におじさんの霊が飲み込まれて、かき消されて、消化されて、有象無象に溶けていくのを感じる。おじさんはいなくなる。おじさんじゃなくなって、明子さんそのものになる。私が食べたパンケーキが、私の体を構成する一部になるように、おじさんは明子さんに食べられて、明子さんの咒を構成する一部になる。同化する。
 こうして、悪さをする霊を「食べて」取り込んで消化するんだ。これが「特殊清掃」、これが「お祓い」、ケダモノじみた、お祓いと言うにはあまりにもおぞましい、これが「犬神の食事」、明子さんは、「犬神」――

「ごちそうさまでした」
 私はソファーからずり落ちながら、意識を失った。


「ひーなのちゃんっ、朝だよっ」
 翌朝、私は視界に飛び込んできた明子さんの笑顔で飛び起きた。
「ひゃあっ!」
 昨日の「犬神の明子さん」を思い出して、思わず飛び上がる。おじさんの苦悶の顔がフラッシュバックする。怯える私を見て、明子さんはすこし自嘲的に、寂しげにへへへと笑った。
「やっぱりこわかったかな。でも、私の本業って、犬神の本性ってああいうもんなんだよ。私、犬神筋はね。四国で一番強い憑き物筋なんだから、覚えてよ。怖がらないでよ。お勉強、ね?私には私の、筋には筋のやり方があるの。あなたはまだ自分のやり方を見つけてないみたいだけど」
 じきに見つかるよ。と明子さんは笑った。何が見つかるんだろう。私の生きる道?お祓い屋さんとしての生きる道?山口霊神で狸様を祀る道?それとも妖怪学の研究をする道?そう思った時、私のお腹がぐうと鳴る。そういえば、昨日の夕方のファミレスから何も食べてない。そんな私に、明子さんはぽいっと飲むゼリーを投げた。
「それでも飲みな。ちょっとはお腹の足しになる」
 そして、鍵を指でくるくると回して玄関に向かう。いつの間にか、明子さんの食事の跡も、暴れた跡も、食べた跡も、何もかもなくなって綺麗に戻っていた。
「ほら、チェックアウトの時間だよ。このお部屋の特殊清掃は終了して、私達は賃貸契約解除して『お引越し』。アパートに戻るよ。親御さんが待ってる」
 私はゼリーを吸いながら玄関を出る。ちらっ、と明るく陽が入っている部屋を振り返る。もう「告知義務」の消滅した部屋、もうおじさんの霊がいない部屋。綺麗になった部屋。
 この「犬神明子」さんと一緒にいたら、何が見えるんだろう。私はどうなるんだろう。学校への期待とは別に、不思議な期待が膨らんだ。 


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