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養護施設を抜け出して
しおりを挟むとっさに背中を向けてしゃがみ込み、身体を隠した。達也というオヤジみたいな中学生かと思い、身構えた。
だけど、半透明の浴室ドアの向こうに見えている人は、あまり背の高くない子どもだった。
「だ、誰!?」
「あ、、ぼ、僕だよ。涼太」
さっきの人懐っこい可愛らしい子だ。
「涼太くん、お風呂はのぞいちゃダメでしょ。それは犯罪だよ!」
いくら子どもだって、五年生ならわかっていて当然のことなのに。
「ごめんね、美穂ちゃん。……ぼ、僕、ずっとママに会えてなくて、ママに会いたかったんだ。ママとはね、いつも一緒にお風呂に入ってたんだよ」
ポツポツと力なく話す涼太くんに同情はするけれど。お風呂をのぞく行為は許せない。
だけど、涼太くんの寂しい心をどうやって埋めてあげればいいのだろう。
「涼太くんはわたしになにをして欲しいの?」
お風呂のドア越しに問いかけた。
「……ぼ、僕、ギュッと抱きしめられたいんだ」
「わかったわ。わかったけど今は裸だからできないでしょ。あとでね」
返事はなかったけれど、涼太くんの姿は見えなくなったのでホッとした。
それにしても、ちゃんと鍵を掛けたはずなのに、どうやって入って来たのだろう。
中三の達也くんが覗きに来ないとも限らないので、一度バスルームから出て脱衣所の鍵を閉めた。
すすぎ終えてない泡の残った髪から、ポタポタと滴《しずく》が床に流れ落ちる。
慌てて浴室に戻ろうとドアをあけると、
「美穂ちゃん!」
えっ!!
三台並んでいる洗濯機の陰から、涼太くんが飛び出して来て、裸のわたしに抱きついた。
「りょ、涼太くん!!」
「ママ、ママ、、お願いだよ、拒まないで。僕を置いて行かないで」
「…………涼太くん、ダメよ、いくら寂しくても。わたしはママじゃないし!」
逃れようとしたけれど、小学五年生の男の子の力は意外と強かった。
「やめて! お願い、離して!!」
「わかった。離すよ、……離すから」
力なく呟いた涼太くんの手から力がぬけた。
裸をみられたくなくて、すぐに後ろを向き、浴室のドアをあけた。
あっ!
後ろから涼太くんの両手が伸びて、両方の胸を鷲づかみされた。
「キャーーッ!!」
「ハハハッ、美穂ちゃんって、やっぱり巨乳だ。たっちゃんが言ってたとおりだ」
信じられない気持ちで振り返り、涼太くんを見つめた。
薄笑いを浮かべてわたしを見ている涼太くんは、さっきとは別人の顔つきをしていた。
「まぁ、これは挨拶みたいなもんだと思って」
冷たく言い放つと、脱衣所のドアをあけて出ていった。
ーーあ、あれが、小学生。
なんて、なんて、怖ろしい。
お風呂の件を翌日養母さんに言ったら、あれはコインですぐに開けられてしまう鍵だから、心配なら同じ部屋の子に頼んで見張ってもらいなさいと言われた。
同じ部屋の子とはまだ口も聞いてもらえてないのに、見張りなんて頼めるわけがない。
早く、早く家に帰りたい。
たった一日で、わたしはここには居られないと悟った。
来週の月曜日からは、学校にも通わなければいけなくなる。
だけど、一体どこへ逃げたらいいのだろう。
不安な気持ちで部屋にこもり、お風呂にも入らずに土曜と日曜を過ごしていた。
月曜日の朝、スクールバッグに私服を詰め、学校へ行くふりをして施設をでた。
公園の公衆トイレで私服に着替え、園内や街中をぶらついて時間をつぶした。
こんなことをしても、学校から連絡が入って、サボったことはもうバレているのだろう。
明日からはどうすればいいんだろう。
夕暮れになっても施設に足が向かず、途方にくれた。
それで、義父のお見舞いに行ってみようという気になった。
あんな義父との生活でも、あの施設よりはずっと居心地がいい。生活保護が受けられるのなら、前よりも安定した生活が送れるはずだ。
役所の人にバレなければ一緒に住めるのではないか?
家事の出来ない義父だって、わたしがいてくれた方が嬉しいに違いない。
ただ義父はまた、わたしのお布団に入ってきたりするだろうか?
病気のひ弱な義父にわたしを襲うことは出来ないだろう。
入院はまだまだしていなくてはいけないのだろうか?
とにかく義父に会って、頼んでみよう。
あの施設にわたしの居場所は見つけられない。
徒歩三十分もかけて義父の入院している病院へお見舞いに行ったのに、すでに退院していると言われた。
入院のときにお世話になった相談員さんが、わたしのことを覚えていてくれたので、新しいアパートの住所を聞くことができた。
新しいアパートは、病院から地下鉄で四つ目の菊水駅とのことだ。歩いて行くには大変な距離だった。
菊水駅と聞いて顔を曇らせたわたしに、相談員さんはお金のないことに気づいたのだろう。
親切にも電車賃と言って、千円を差し出してくれた。
人の親切に慣れていないわたしは、頂いて良いものかどうかが分からず躊躇っていたけれど、相談員さんは笑いながら強引に手に握らせてくれた。
世の中にはこんな親切な人もいるのだと思い、少し心が明るくなった。
菊水駅から歩いて十分ほどの所にアパートはあった。外観だけで中のくたびれ具合も想像できる古びた建物だった。
錆びた鉄製の階段を登り、教えられた部屋番号の205号室のブザーを押した。
ドア越しの向こうで、「誰だっ!!」と、ろれつの回らない義父の声が聞こえた。
酔っていることに気づき、ガッカリしたけれど、他に行くところはないのだ。
「お父さん、美穂よ、開けて!」
すぐにドアが開けられた。
「み、美穂! おまえ、帰ってきてくれたのか」
感極まった喜びようの父をみて、わたしも涙が出てきた。
「お父さん!!」
「美穂! よく帰ってきたな」
やせ細った父と抱き合い、二人で泣いた。
こんな酔っ払いの義父でも、わたしにはたったひとりの家族なのだと思った。
狭いワンルームでの父との生活が始まった。
施設のほうから連絡が入ったようで、ケアマネさんが何度も訪問して連れ戻そうとしたけれど、わたしは頑なに拒んだ。
アル中の父との生活は決して楽しいものではなかったけれど。
そして、酔っ払いの父とワンルームの同じ部屋で寝るということは、常に危険にさらされるということだった。
ある晩、とうとう酔った父に顔面を殴られて、拒む気力を失った。
村井に穢されていたわたしは、潔癖な守りの姿勢など、すでに崩壊していたのだ。
何もかもが面倒で、もうどうにでもなれという気分だった。
そんな風に義父との異常な関係に麻痺したわたしは、ついに嫌悪もなにも感じなくなっていた。
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