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夫の思惑
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めずらしく、夫の貴之がドライブに連れて行ってくれるという。
外出させてもらえるなんて夢にも思わなかった。毎日同じ部屋の天井ばかり見せられているものにとっては、夢のような贅沢だ。
車椅子で玄関を出ると、家の前に大きな白のワゴンが停まっていた。
うちの車はこんなに立派なワゴンなんかではなかったはずだ。新しい車に買い替えたのかな?
そうだ、私がこんなにひどい交通事故に遭ったのだから、車もダメになったに違いない。
後部ドアが開けられて、車椅子のままスルスルと乗り込むことが出来る。便利な世の中になったものだ。
高い買い物でも、これなら許せる。
賠償金で買えたのだろうか?
そういえば、何処へ行くのだろう?
聞いておくのを忘れた。
会話ができない不便は、なんでも予測して先に書いておかなければいけない事だ。
まぁ、どこでもいい。
ミステリーツアーのほうが楽しいかも知れない。
住宅街を抜けて、国道5号線へ出た。
記憶を失っていても、この見慣れた景色はちゃんと覚えている。街路樹の新緑が日差しにキラキラと反射してまぶしい。
5月の北海道はまだ肌寒いけれど、もうコートなど着ている人は少ない。
ポカポカ陽気の今日は、道行く人もカーディガンを羽織るなどの軽装だ。
忘れてしまったのは、事故から半年ほど前までの記憶だ。
ずっと長い間、母の介護に明け暮れる毎日だった。
なのに気づけば、今度は介護される身になっていた。
どこまでも不運な身の上である。
車は札幌方面に向かっている。
閑散とした田舎の景色から、次第に賑やかな商店やビルなどが立ち並ぶ市街地へと進む。
札幌駅のあたりも通過した。
どこへ行くのだろう?
お隣の家の桜も咲いていたから、お花見でもするのだろうか。
車窓から見える日常のなんでもない景色でさえも、新鮮で素晴らしく見えるのだから、満開の桜など見られたなら……
想像しただけで感動する。
札幌駅あたりを過ぎて、もうどのくらい走っただろうか?
遠くに野幌森林公園のシンボル、百年記念塔が見えて来た。
公園内を散策するのかな?
「何か思い出さないか?」
突然、貴之が話しかけて来た。
心当たりはないので、左手を左右に振って「わからない」と答えた。
公園の駐車場に車を停め、車椅子が降ろされた。
水色と薄紫のエゾエンゴサクの花が、広大な敷地一面に咲いているのを見て、息がつまりそうなほど感動する。
車椅子で園内を進み、深い森の遊歩道に入っていった。
この森には、一体どれほどの種類の鳥たちが住んでいるのだろう?
ピピピッ、チチチ、ホー ホケキョ、ピーッ、ピヨ、ピヨ。
小鳥たちが奏でる素晴らしい音の世界に癒される。
さわさわと揺れる木々から送りだされる、さわやかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
小鳥たちの声以外には何も聞こえない、新緑の香りに満ちた静寂。
ここで死んでもいいとさえ思えてしまう。
あの何もない、殺風景な和室。
退屈と苦痛と屈辱だけの闘病生活に戻りたくない。
しばらく進んでいくと、美しい白樺並木も見えて来た。
この森は、なにもかもが美しく神々しい。
涙が溢れて止まらなかった。
本当にここで死んでしまえたならどんなに幸せだろう。
すすり泣いていることに気づいたのか、貴之が車イスを止めた。
「どうした? なにか思い出せたのか?」
と、また尋ねる。
声に出せるなら、「ここで死にたい」と言いたかった。
「思い出したのか? 思い出したんだな!」
問いつめる貴之の冷たい顔を見てゾッとする。
貴之が仕事で使っているタブレットを差し出した。
左の指で ” ここで死にたい ,, と入力した。
「そうか、やっと思い出したんだな」
貴之は勝手に誤解をしていたが、そんな事はもうどうでもよかった。
これから家に帰り、またあの和室で介護されることを思うと、絶望的な気持ちになる。
ここの公園は広すぎて、車イスですべてを見ることなどとても出来ない。
1時間ほどだったが、こんなにステキな森林浴をさせてくれた貴之には感謝しなければいけないだろう。
貴之が「ちょうど昼だから近くのレストランに寄ろう」といったけれど、左手で無様な食べ方を人に見られるのは嫌だった。
タブレットを貸してもらい、「人前で食べたくないから、一人で行って来て」と入力した。
「そうか、それもそうだな。じゃあ、もう帰ろう」
そう言って、駐車場へと向かった。
駐車場を出て来た道を戻る。
百年記念塔がどんどん小さく遠ざかっていく。
また来ることができるだろうか。
いつかまた、こんな美しい自然にふれあうことが出来るなら、そんな希望が持てるなら、あの辛すぎる日常にも耐えられる気もするけれど。
途中のあぜ道のような場所で、貴之がなぜか車を停めた。
助手席に花束が置いてあったようで、それを掴むとドアを開けて外へ降りた。
道路から少し下がった土手のところへ降り、花束を手向けて手を合わせた。
そして、後部ドアを開けると、車いすの私も降ろされた。
「ほら、思い出したんだろ。姉貴が死んだ場所だ。おまえの不注意で死んだんだぞ!」
なにも思い出せていないのに、怒鳴られて身がすくむ。
貴之は何を言っているのだろう。
そういえば、娘の日菜にも前にそんなことを言われたことがある。
和歌子おばさんが一酸化炭素中毒で亡くなったと。お母さんも一緒の車に乗っていたくせにと、日菜は確かそんなことを言っていた。
なぜ、仲の良くない義姉とこんな場所へやって来たのだろう。
とにかく貴之に言われた通り、花束が置かれている方を向いて、手を合わせて拝んだ。
道端につくしやオオバコなどの雑草が生い茂っていた。
外出させてもらえるなんて夢にも思わなかった。毎日同じ部屋の天井ばかり見せられているものにとっては、夢のような贅沢だ。
車椅子で玄関を出ると、家の前に大きな白のワゴンが停まっていた。
うちの車はこんなに立派なワゴンなんかではなかったはずだ。新しい車に買い替えたのかな?
そうだ、私がこんなにひどい交通事故に遭ったのだから、車もダメになったに違いない。
後部ドアが開けられて、車椅子のままスルスルと乗り込むことが出来る。便利な世の中になったものだ。
高い買い物でも、これなら許せる。
賠償金で買えたのだろうか?
そういえば、何処へ行くのだろう?
聞いておくのを忘れた。
会話ができない不便は、なんでも予測して先に書いておかなければいけない事だ。
まぁ、どこでもいい。
ミステリーツアーのほうが楽しいかも知れない。
住宅街を抜けて、国道5号線へ出た。
記憶を失っていても、この見慣れた景色はちゃんと覚えている。街路樹の新緑が日差しにキラキラと反射してまぶしい。
5月の北海道はまだ肌寒いけれど、もうコートなど着ている人は少ない。
ポカポカ陽気の今日は、道行く人もカーディガンを羽織るなどの軽装だ。
忘れてしまったのは、事故から半年ほど前までの記憶だ。
ずっと長い間、母の介護に明け暮れる毎日だった。
なのに気づけば、今度は介護される身になっていた。
どこまでも不運な身の上である。
車は札幌方面に向かっている。
閑散とした田舎の景色から、次第に賑やかな商店やビルなどが立ち並ぶ市街地へと進む。
札幌駅のあたりも通過した。
どこへ行くのだろう?
お隣の家の桜も咲いていたから、お花見でもするのだろうか。
車窓から見える日常のなんでもない景色でさえも、新鮮で素晴らしく見えるのだから、満開の桜など見られたなら……
想像しただけで感動する。
札幌駅あたりを過ぎて、もうどのくらい走っただろうか?
遠くに野幌森林公園のシンボル、百年記念塔が見えて来た。
公園内を散策するのかな?
「何か思い出さないか?」
突然、貴之が話しかけて来た。
心当たりはないので、左手を左右に振って「わからない」と答えた。
公園の駐車場に車を停め、車椅子が降ろされた。
水色と薄紫のエゾエンゴサクの花が、広大な敷地一面に咲いているのを見て、息がつまりそうなほど感動する。
車椅子で園内を進み、深い森の遊歩道に入っていった。
この森には、一体どれほどの種類の鳥たちが住んでいるのだろう?
ピピピッ、チチチ、ホー ホケキョ、ピーッ、ピヨ、ピヨ。
小鳥たちが奏でる素晴らしい音の世界に癒される。
さわさわと揺れる木々から送りだされる、さわやかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
小鳥たちの声以外には何も聞こえない、新緑の香りに満ちた静寂。
ここで死んでもいいとさえ思えてしまう。
あの何もない、殺風景な和室。
退屈と苦痛と屈辱だけの闘病生活に戻りたくない。
しばらく進んでいくと、美しい白樺並木も見えて来た。
この森は、なにもかもが美しく神々しい。
涙が溢れて止まらなかった。
本当にここで死んでしまえたならどんなに幸せだろう。
すすり泣いていることに気づいたのか、貴之が車イスを止めた。
「どうした? なにか思い出せたのか?」
と、また尋ねる。
声に出せるなら、「ここで死にたい」と言いたかった。
「思い出したのか? 思い出したんだな!」
問いつめる貴之の冷たい顔を見てゾッとする。
貴之が仕事で使っているタブレットを差し出した。
左の指で ” ここで死にたい ,, と入力した。
「そうか、やっと思い出したんだな」
貴之は勝手に誤解をしていたが、そんな事はもうどうでもよかった。
これから家に帰り、またあの和室で介護されることを思うと、絶望的な気持ちになる。
ここの公園は広すぎて、車イスですべてを見ることなどとても出来ない。
1時間ほどだったが、こんなにステキな森林浴をさせてくれた貴之には感謝しなければいけないだろう。
貴之が「ちょうど昼だから近くのレストランに寄ろう」といったけれど、左手で無様な食べ方を人に見られるのは嫌だった。
タブレットを貸してもらい、「人前で食べたくないから、一人で行って来て」と入力した。
「そうか、それもそうだな。じゃあ、もう帰ろう」
そう言って、駐車場へと向かった。
駐車場を出て来た道を戻る。
百年記念塔がどんどん小さく遠ざかっていく。
また来ることができるだろうか。
いつかまた、こんな美しい自然にふれあうことが出来るなら、そんな希望が持てるなら、あの辛すぎる日常にも耐えられる気もするけれど。
途中のあぜ道のような場所で、貴之がなぜか車を停めた。
助手席に花束が置いてあったようで、それを掴むとドアを開けて外へ降りた。
道路から少し下がった土手のところへ降り、花束を手向けて手を合わせた。
そして、後部ドアを開けると、車いすの私も降ろされた。
「ほら、思い出したんだろ。姉貴が死んだ場所だ。おまえの不注意で死んだんだぞ!」
なにも思い出せていないのに、怒鳴られて身がすくむ。
貴之は何を言っているのだろう。
そういえば、娘の日菜にも前にそんなことを言われたことがある。
和歌子おばさんが一酸化炭素中毒で亡くなったと。お母さんも一緒の車に乗っていたくせにと、日菜は確かそんなことを言っていた。
なぜ、仲の良くない義姉とこんな場所へやって来たのだろう。
とにかく貴之に言われた通り、花束が置かれている方を向いて、手を合わせて拝んだ。
道端につくしやオオバコなどの雑草が生い茂っていた。
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