六華 snow crystal 5

なごみ

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第1章

最期の晩餐

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*修二*


10月に入って夏帆はすでに、絵は描けなくなっていた。


手の痺れなどではなく、ひどい倦怠感と腰痛に悩まされるようになったから。


痛みは、胸骨や腰椎に骨転移した癌によるものだ。


予測はしていたものの、苦痛に耐えている夏帆を見るのは辛かった。


秋も深まり、夏帆の病状は急速に進んで、今ではベッドで過ごすことが多くなり、食欲はさらに落ちてしまった。


可能な化学療法も、強い副作用のことを考えると、末期においてはかえって体力を奪ってしまう。


もはや鎮痛薬や苦痛を取り除くための治療しか、夏帆には残されていなかった。



ゴホ、ゴホッ、、


「大丈夫? 」


咳込むたびに、苦悶の表情を浮かべる夏帆に、何もしてやれない無力感。


「あ、ありがとう。咳をするたびに、釘を刺したみたいな痛みがあって、、」


夏帆は腰に手をあてて、苦痛に顔を歪めた。


「我慢はしないほうがいいよ。鎮痛薬飲んで」


水と一緒に処方されている鎮痛剤を渡した。


「ありがとう。修二さんがそばにいてくれるから、辛いのも半減するわ、本当よ。………修二さん、あの、私そろそろホスピスの病院へ移ろうかと思うの」



「ホスピス?  夏帆、遠慮なんかしないで。ずっとこの家にいたいんだろう?  僕では頼りないかも知らないけど、ちゃんと面倒みるよ」


二人の新居であった狭いアパートは、車椅子など使える広さはないので、今は夏帆の祖父母の家で過ごすようになっている。


「ずっと家にいたいと思ってたけど、やっぱりホスピスがいいわ。おトイレにも行けなくなったら悲しすぎるもの」


すっかり弱気になってる夏帆は、少し涙ぐんでそう言った。


「そんなこと気にしないで。僕は夏帆とずっと一緒にいたいな」


「一緒にいたいけど、修二さんに下の世話をさせるのは嫌だわ。死んだほうがマシよ」


確かにそれは男の僕にでさえも耐え難い事だ。


「僕たちは夫婦なんだから、遠慮なんかしないで。でも夏帆の気持ちはわかるよ」



「意識がなくなってしまう前にホスピスへ行きたいの。以前から主治医にも相談していたから、大丈夫だと思うわ」



「わかった。じゃあ、いつがいい? 天気のよい日がいいかな?」


「できるだけ早いほうがいいわ。なんとなくもう自信が持てなくて……」



弱音など吐いたことのない夏帆が、すすり泣く。


「夏帆……」


身の置きどころのないほどの倦怠感とは、一体どういうものなのだろう。


鎮痛剤で少しは抑えられる痛みのほうが、まだマシなのかもしれない。



夏帆の震える肩に手をおいた。


「本当にごめん。なにもしてあげられなくて」


「分かち合ってくれる人がいるんだから、私は幸せなんだわ。泣いたりしてごめんなさい」


「泣いていいから、夏帆。もう我慢なんてしなくていい。好きなだけ泣いて」


夏帆はホスピスへ行っても、年を越すことはとても無理だと思った。


有紀と美冬のことを、これ以上は放っておけない状況の中でも、夏帆が逝ってしまうと想像しただけで深い哀しみにおそわれた。






夏帆が眠っている間、もう一緒に住むことはないだろう賃貸マンションの片付けをした。


食器などは友人の知佳さんが手伝ってくれて、すでにダンボールに収められている。


元々、必要最小限のものしか、このマンションには運び込んではいないから、荷物は少ない。


たった1ヶ月半ほどしか住めなかったけれど、新婚夫婦としての幸せは確かにあったのだ。


僕と夏帆の過ごした日々は、出会ってまだ半年ほどだけれど、なんと凝縮した時間だったのだろう。


僕には夏帆に言えないことがあって、それは裏切りなのかもしれないけれど、正直に全てを打ち明けることが誠実とはとても思えない。



夏帆、君を心から愛している。


そして、有紀も。



女性には理解のできないことかもしれない。


だけど、単なる浮気ではない。うまく説明できないけれど。



理解して欲しいとも思っていない。



ただ、許して欲しい。そして、信じて欲しい。僕が君たち二人をこよなく愛しているということを。








昼食をとることも忘れて部屋を片付けていたら、有紀ちゃんからの電話。


なんとなく元気のない有紀ちゃんの声がした。


無理もない。沖縄から来たばかりなのに、僕は空港へ迎えに行ったきり、姿を消してしまったのだから。


今月の16日が美冬の誕生日だと有紀ちゃんは言った。それまでに帰ってこられそうかと。


夏帆は明日にもホスピスへ移るのだから、問題はないだろう。


多分、美冬の誕生日までには帰れると言った。


病院では日中しか付き添うことはできないから、朝と夜なら有紀ちゃんと過ごす時間も作れるはずだ。


有紀ちゃんにいい返事ができたことに、少し安堵した。



『修二さん、ル、ルパンはどこにいるの?  どこに預けているの?』


突然ルパンのことを尋ねられ、言葉がつまる。



「ルパンは、……ルパンは今、友人に預かってもらっている」


……迂闊だった。



ルパンと雪は実家に預けておくのだった。



「ルパンはご近所に住んでいる女性に預けてるんだ。散歩しているときに知り合ったんだけどね、その人はポメラニアンを飼っていて、時々ついでに散歩してもらっている」


咄嗟にいい嘘など思いつかなかった。


『そうなの。その方は信頼できる人なの? 私がルパンを散歩させても良かったのに』


寂しげな有紀の声から、不満と不信感が伝わってくる。


「赤ちゃんがいると散歩は大変かと思ってね。預けた人は佐々木知佳さんと言って、とても信頼できる人だよ。ヨガのインストラクターをしていて、その人が飼ってるポメラニアンは雪って名前なんだ。なんだか親近感がわくだろう?」


多少の嘘は含まれているけれど、正直に話したほうが身のためだ。それに事実には説得力がある。


『そ、そうなの?  ……ルパンもお友達のワンちゃんがいたほうが、楽しいかも知れないね』



仕方なく納得したような有紀の声がした。


「出来るだけ早く帰るよ。多分、明日か、明後日には帰れるから」


『本当?  あ、あの、修二さん、私、修二さんの住んでいるマンションへ行ってみたいの。だめかな?』


「いいけど、鍵がないだろう。僕が帰ってからでもいい?」


有紀は疑っているのだろう。


僕と知佳さんとの仲を。


『ええ、帰ってからでいいの。もしかしたら、そのまま住めるかもしれないでしょう?』


「一人でも狭いくらいだから、無理だと思うよ。でも、見てから決めていいよ」


夏帆のものは、全て片付けてしまわないといけない。


洋服や小物、バスルームにあるトリートメントなど、女性らしい生活用品の全てをダンボールに詰め込んだ。


時計を見ると、午後四時を過ぎていた。







夏帆は昼寝からもう目は覚めただろうか。


最近は夜眠れないため、日中ウトウトすることが多い。


賃貸マンションは、実家とそれほど距離が離れていないので、母や有紀とばったり出くわさないように、細心の注意を払った。


コートのフードを目深にかぶり、いつもとは違うフレームの眼鏡をかけているけれど、間近で見たらすぐにバレてしまうだろう。


周囲を見渡し、車のトランクにダンボールを詰め込んだ。


食欲のない夏帆の食べられるものは限られている。


母の手料理は貰いにいけないので、惣菜屋に寄り、目ぼしいものを購入して帰った。




マンションへ戻ると、夏帆は車椅子に腰かけて、ベランダから外を見ていた。


「ごめん、遅くなってしまって。夏帆の好きな苺とラフランスを買ってきたよ」


「修二さんが帰ってくるところを見てたの。家族の帰りを待つっていいものね。帰ってきてくれてありがとう」


室温は設定温度に保たれているけれど、パジャマにガウンを着ただけの夏帆は寒そうに見えた。


「寒くないのかい?  窓際は寒いだろう」


青白い顔をした夏帆の手はやはり冷たかった。


「風邪をひくよ。美味しそうなお漬物も買ってきたんだ 。おかゆ、食べるだろう?」


「あ、ありがとう。……食事はあとにするわ。修二さん、先に食べて」


食欲のない夏帆を見ていると、僕の食欲まで無くなってしまう。


「そうか、僕もお腹は空いてないんだ。じゃあ、もう少しあとで一緒に食べよう。だけど、明日はホスピスに行くんだから、ちゃんと食べないと。着くまでに倒れてしまうよ」


「倒れたって平気だわ。ホスピスなんですもの」


身も蓋もない夏帆のセリフに返す言葉もなく、買ってきた食品を冷蔵庫に収めた。



「今日の夕食が修二さんとの最期の晩餐になるのね」


「夏帆……」


それは、そうに違いないけれど。


「あ、ごめんなさい。暗い気持ちで言ったんじゃないのよ。一つ一つのことを楽しみたくて言ったの」


夏帆は肩で息をしながら、かすれた声で言った。


「もう疲れただろう。ベッドで休んだほうがいいよ」


車椅子を押してベッドサイドまで連れていき、すっかり軽くなってしまった夏帆を抱き上げた。


「修二さん、愛してる。私、本当に幸せだった。だから、悲しまないでね」


「僕だって夏帆に出会えて幸せだよ。これからもずっとね」


「本当? 私のこと忘れない? 」


「忘れるわけないだろう。いつだって一緒だよ、僕たちは」


ベッドへ降ろし、夏帆にキスをした。



「たまに思い出してくれるだけでいいわ。修二さんには幸せでいて欲しいの。誰か優しい人が見つかるといいな、本当よ」


夏帆の言葉にはいつも嘘がない。控えめながらも、恐ろしいほどに率直だ。


「……ありがとう、夏帆。少し休んだほうがいい」


「修二さんに話ができるうちにしておきたいの」


疲れを滲ませながらも、夏帆は話すことを止めようとしなかった。そして、サイドボードに手を伸ばすと、引き出しから預金通帳を取り出した。


「これ、私が亡くなったあとに使って欲しいの」


通帳は全部で五つもあった。



「これってみんな君の? 」


「ええ、祖父は認知症になってしまって、管理ができなくなってしまったから、生前贈与されることになって。母は一人娘だったし、祖父は末っ子で兄弟もすでに亡くなっているの。私が死んだら修二さんが使ってください。祖父は月々の年金で足りているし、必要なことはケースワーカーさんがやってくれているから、それほど面倒なことはないと思うわ」


五つの通帳の残高はザッと計算してみても、三億を越えていた。それに加えて、この家と土地も僕の名義になるということか。


「あ、夏帆、、やっぱり僕がこの通帳を受け取るのは間違ってると思うな」


「他には遠い親戚しかいないの。だから修二さん、お願いします」


仕事をしていない夏帆の預金など、たかがしれていると思っていた。


こんな広い庭つきの家を持っている祖父は、それなりの資産はあるのだろうと、思ってはいたけれど。


認知症で施設に入っているとはいえ、まだ生きているのだから、僕が相続人になるなど思ってもみなかった。


「僕たちは結婚して、まだ数ヶ月しか経ってないし。せっかくだけど……」


夏帆から渡された通帳をサイドボードの上へ置いた。


有紀にとっては結婚詐欺師のような僕でも、短期間の結婚でこんな遺産を相続するのはさすがに気がとがめた。


「修二さんは私の夫なんですもの、正当な相続人でしょ。これくらいのオマケでもつけなかったら、結婚してくださいなんて、とても言えなかったわ。でも、お金のない方でもないのに失礼だったかもしれないわね。ごめんなさい」


哀しげに夏帆は僕を見つめた。


「夏帆が謝ることじゃないよ。あとで相談しよう。とにかく余計な心配なんてしないで休んで。今おかゆを温めるから」


遺産の相談といっても、一体どうすればいいのか。夏帆の名義とはいっても、財産を築いた祖父自身がまだ生きているというのに……。




おかゆにあさりのすまし汁。梅干しや高菜など、夏帆が食べられそうなものをテーブルへ並べた。


「お墓もね、もう決めてあるのよ」


おかゆを一口食べて、夏帆は話し始めた。


「中山家のお墓には入らないのかい?」



墓の話などしたくはなかったけれど、夏帆が死んでからでは遅いのだ。


「……ええ、樹木葬にもう決めているの。お墓参りとか、そういうのはいらないわ。たまに思い出してくれるだけでいいの。そのほうが気楽だわ」


「いいね、それ。僕もそうしようかな」


次男である僕は谷家の墓に入る必要もない。惣菜屋で買った幕の内弁当を食べながら、そう思った。


「もう食べないのかい? フルーツだけでも食べられないかな?」


皮をむいてカットしたラフランスと苺を勧める。食欲のない人に食事を勧めるなど、半年前の僕には想像もできないことだった。


「……少し、いただくわね。ありがとう」


不味い薬でも飲み込むかのように、夏帆はフォークで刺したラフランスを口に入れた。


夏帆の食べた量はほんのわずかだったけれど、食べられなかった頃の辛さを知っているだけに無理は言えなかった。



ベッドへ運んだ夏帆のとなりに一緒に寝ころぶ。


こんな風に寝ることも、もう出来なくなるのだ。そう思うと哀しみと愛おしさが込みあげた。


向かい合わせに見つめ合うと、夏帆がはにかんだようにクスクスと笑った。


「本当によかった。修二さんがいてくれて。葬儀の事なんかは知佳にお願いしていたのよ。でも彼女にはまだ小さな子供だっているから」


余命宣告された病弱な体で、死後の心配までしなければいけなかったのだ、夏帆は。


若くてもしっかりしているのは、当然なのかもしれない。


「知佳さん、アパートの掃除までしてくれてたよ。本当にありがたいな」


「私のまわりはいつもいい人ばかりなの。本当にありがたいことだわ」


「夏帆がそういう人たちを呼び寄せたんだろう。人徳だな」


人間関係とは大体そういうものだろう。



「そんなことないわ。修二さんは私に徳があると思って来てくれたの?」



少し寂しそうに夏帆は僕を見た。


人徳に惹かれたなどと言ったら、女性は逆に寂しく思うのだろうか。


「どうだったかな? 正直なところが良かったのかもしれない。君はなんでもストレートだから」


少し冷たい夏帆の手を握った。


「焦っていたからよ。チャンスは二度とやってこないような気がして。病気じゃなかったら、あんな風に迫ったりしなかったわ。恥じらっている余裕はなかったの。図々しくて驚いたでしょう?」


今頃になって夏帆は恥ずかしそうに、顔を赤らめた。


「そうでもないよ。女性から迫られるのは慣れてるから、ハハッ」


少し自慢げに語った僕を、夏帆は軽くにらんだ。


「まぁ、ひどい人ね。たくさんの女性を泣かせて来たんでしょう?」


「どうかな、泣かされてきたのは僕のほうかもしれないな」


恋愛においては、同時に冷めるなんてことはあまりない。


どちらかが先に冷める。


それは大体いつも僕のほうだった。女性が結婚を意識し始めた途端に、僕は逃げ出したくなってしまったから。


そんな女性たちとの別れは、当然いつも深い哀しみと幻滅が伴った。



様々な女性と付き合って、結婚したいと思ったのは有紀だけだった。


人生とはうまくいかないもので、その頃の有紀に僕の想いは届かなかった。


完全に僕の片思いで、有紀は熱烈に佐野に恋をしていた。




「……まだ前の奥様のことが忘れられないのでしょう?」


少し物思いに耽っていたら、唐突に夏帆がそんなことを聞いたので驚いた。


「……急にどうしたんだい?」


僕が思い出していたのは、前妻の麗奈ではなく有紀だったけれど、後ろめたい気持ちが拭えず、誤魔化せなかった。


「時々、とっても哀しそうな顔をしているから……。私なんて入り込めないくらい」


「ぼ、僕は彼女にひどいことをしてしまったから……忘れたりしてはいけないんだ」


「もう許してくださってるわよ。多分……」


確かに有紀は許してくれていた。だけどそれは美冬のおかげだ。僕の行為が許されたわけではないし、許されるべきことでもない。


「な、なんだか、話題がおかしくなって来たね。今日は痛みはないのかい?」


有紀と美冬の存在をあばかれそうな気がして、話をそらせた。


「その方とはもう会ったりはしないの?」


夏帆はとても穏やかに微笑んだけれど、また話を蒸し返した。



「夏帆……」


ーー見抜かれていたのか。


「大丈夫よ。別に浮気をされてるなんて思ってないの。だって私はこんなに愛されているんだもの。そうでしょう?」


ジッと僕を見据えた夏帆にうまく答えられず、口ごもる。


「あ、、うまく言えないんだけど、君を裏切るようなことはしていないつもりだ」


有紀と会っていたことを知っているわけはない。だけど、僕のどんな態度から有紀の存在を感じ取ることができたのだろう。


「わかってる。修二さんは優しい人だもの。だから苦しんでるんだわ」


「…………」


気づかれずに逝かせてあげたかった。なのに夏帆は落胆するどころか、僕の心配をしてくれていたのか。


「お願い、もう苦しまないで。私、こんなに幸せにしてもらったんだもの。修二さんにもこれからずっと幸せでいてほしいの」


夏帆はそう言って僕の背中に腕をまわした。


「僕のほうがずっと救われたよ。君と出会って。本当にありがとう」


涙ぐんでいる夏帆のほおにキスをして、しっかりと抱き合った。


夏帆は明日、ホスピスへ行ってしまう。


なぜか今夜で永遠に会えなくなるような、そんな焦燥に駆られた。想像をしただけで切なく、胸が苦しくなった。



夏帆が逝ってしまったあと、僕は立ち直れるのだろうか。


かなり引きずるような気がした。



いくら有紀と美冬がいてくれても。



















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