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第1章
アトリエで
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*修二*
午後、夏帆の家でパソコンに向かい、久しぶりに集中して原稿を書いていた僕に、母からの呼び出し。
重い気分で実家に向かう。
母が諦めきれないと思うのも無理はない。
有紀を騙していたとはいえ、夏帆は亡くなり、いま僕は独身なのだ。
まだ間にあうかも知れないと、僕も昨夜はそのつもりで有紀に会いに行った。
だけど、そこで目にしたショッキングな光景。
佐野の車から降りた有紀の、憂いを感じさせる後ろ姿を思い出す。
赤く光る車のテールランプが見えなくなるまで見送っていた。
有紀はまだ佐野のことが忘れられてはいないのだろう。
寂しげな有紀の立ち姿は、遠くからでも確認できた。
すっかり見切りをつけられた僕が、今さら復縁を迫ったところで鬱陶しいだけだろう。
午後三時のアフタヌーンティー。
母の手作りスコーンはとでも好きだったけれど、今は手を伸ばす気分になれない。
「あなたが行かないと言っても、私は行かせてもらうわ。このままじゃ後悔してもしきれないわよ。有紀ちゃんだって、もしかしたら待っているかも知れないのよ」
押し黙っている僕に、たたみかけるように母は話し続ける。
「とにかく一生このまま美冬に会えないなんて、とても我慢できないわ。ねぇ、早いほうがいいわ。今夜、夕食を終えたら行ってみない?」
思い立ったら、いてもたってもいられないように母はそわそわしだした。
「僕はご両親にお詫びをして、きちんと説明もしてきているんだよ。その上での有紀ちゃんの判断なんだ。しつこくすると怖がられるだろう」
「ご両親にしか謝ってないことが問題でしょう。だから有紀ちゃんは許せないんだわ。何度も何度も行って謝りなさい! それだけのことをしたんだから。有紀ちゃんは優しい子よ、きっと許してくれるから」
……僕への気持ちが少しでも残っているなら、可能性はあるのかも知れない。
女性は一旦冷めたら早いと言う。いつまでも未練たらしい男とは違う。
今では佐野とも会っている有紀に、復縁を迫るのは惨めすぎた。
だけど母は、有紀から決定的なひと言を聞くまでは諦めないだろう。
ついに押し切られ、夕食後にまた藤沢家を訪問することになった。
夕方、知佳さんからLINEのメッセージが届く。
『今夜、会えないかしら? 修二さんに是非、会わせたい人がいるの』
知佳さんのお節介に閉口する。
お見合いの話は以前にも少ししていたけれど……。
夏帆が亡くなってまだ数週間しか経っていないというのに。
『今夜は用事があるんだ。いつも何かと気にかけてくれてありがとう』
返信をした後、すぐに電話が来た。
「珍しくお忙しいのね。お仕事の用事なの?」
少し嫌味っぽく話す、知佳さんの声がした。
「そうだな、僕にしては気ぜわしい一日になりそうだよ」
「お仕事で忙しいなら、いいことじゃない。帰りは遅くなりそう?」
「そんなに慌てて会わせたい人なのかい? いくらなんでも、まだお見合いをする気分にはなれないよ、申し訳ないけど」
「うーん、お見合いではないのよ。今はご実家なの?」
「そうだけど。近いうちにまた会おうよ。知佳さんが前に言っていたレストランの件で相談があるんだ」
「わかったわ、じゃあ、また電話するわね」
あまり流行らないかも知れないけれど、小さな洒落たレストランか、カフェもいいかと思った。
夏帆の絵を見てもらうことが、第一の目的だから。
だけど採算がとれないようでは、知佳さんの負担になる。
経営に関しては、父に相談するのも良いかも知れないが、最近は僕の素行の悪さから、ほぼ無視されている。
父が経営している、病院のロビーに飾ってもらうというのもいいかも知れない。
夕食を終え、僕の運転で母と藤沢家を訪問した。
お母さんは穏やかな対応で僕と母を迎えてくれたけれど、肝心の有紀は不在だった。
母が慇懃に頭を下げ、老舗の和菓子店から取り寄せた生菓子をおいて、藤沢家を出た。
「小さな子がいても相変わらずあちこち飛びまわっているのね、有紀ちゃんは。家でじっとなんかしていられないタイプなんだわ」
出鼻をくじかれてがっかりした母が、有紀の外出好きを非難した。
今日も佐野と会っているのだろうか。
母を自宅に送り届け、夏帆の家へ向かった。
玄関の門灯に明かりが灯されていた。
僕が消し忘れていたのだろうか。
それとも、知佳さんが来ているのか。
知佳さんにはこの家のスペアーキーを渡しているけれど、連絡もなしに訪ねて来たことはない。
玄関を開けるとリビングの方から女の子が駆けてきた。
「こんばんは。おかえりなさい!」
知佳さんの娘の未央ちゃんだった。
知佳さんに似て、ハキハキとした気の強そうな子だ。
キリリとした顔立ちの美少女なのに、男の子のようなショートカット。
服装もモスグリーンのセーターにジーンズという、地味な出で立ち。
フリフリのレースや、リボンのついた可愛らしいものは、絶対に来てくれないのだと知佳さんが嘆いていた。
性同一性障害だったらどうしようと、知佳さんはかなり真剣に思い悩んでいる。
「びっくりだな、未央ちゃんが遊びにきているなんて」
「未央、この家は大好きなの。でも夏帆ちゃんがいないからつまんない」
寂しげに未央ちゃんがつぶやいた。
後ろから知佳さんがあらわれた。
「ごめんなさい。勝手にあがりこんでしまって。電話しても繋がらないし、LINEは入れておいたんだけど、びっくりしたでしょう」
「運転中だったからね。別にいいよ、未央ちゃんの暇つぶしになるなら。この家使ってくれよ。夏帆も喜ぶだろう」
靴を脱ぎ、人懐っこい未央ちゃんと手をつないでリビングへ向かう。
リビングのとなりのアトリエで、絵を眺めている女性の後ろ姿が見えた。
振り向いた女性は胸に眠っている子供を抱っこしていた。
「有紀!」
午後、夏帆の家でパソコンに向かい、久しぶりに集中して原稿を書いていた僕に、母からの呼び出し。
重い気分で実家に向かう。
母が諦めきれないと思うのも無理はない。
有紀を騙していたとはいえ、夏帆は亡くなり、いま僕は独身なのだ。
まだ間にあうかも知れないと、僕も昨夜はそのつもりで有紀に会いに行った。
だけど、そこで目にしたショッキングな光景。
佐野の車から降りた有紀の、憂いを感じさせる後ろ姿を思い出す。
赤く光る車のテールランプが見えなくなるまで見送っていた。
有紀はまだ佐野のことが忘れられてはいないのだろう。
寂しげな有紀の立ち姿は、遠くからでも確認できた。
すっかり見切りをつけられた僕が、今さら復縁を迫ったところで鬱陶しいだけだろう。
午後三時のアフタヌーンティー。
母の手作りスコーンはとでも好きだったけれど、今は手を伸ばす気分になれない。
「あなたが行かないと言っても、私は行かせてもらうわ。このままじゃ後悔してもしきれないわよ。有紀ちゃんだって、もしかしたら待っているかも知れないのよ」
押し黙っている僕に、たたみかけるように母は話し続ける。
「とにかく一生このまま美冬に会えないなんて、とても我慢できないわ。ねぇ、早いほうがいいわ。今夜、夕食を終えたら行ってみない?」
思い立ったら、いてもたってもいられないように母はそわそわしだした。
「僕はご両親にお詫びをして、きちんと説明もしてきているんだよ。その上での有紀ちゃんの判断なんだ。しつこくすると怖がられるだろう」
「ご両親にしか謝ってないことが問題でしょう。だから有紀ちゃんは許せないんだわ。何度も何度も行って謝りなさい! それだけのことをしたんだから。有紀ちゃんは優しい子よ、きっと許してくれるから」
……僕への気持ちが少しでも残っているなら、可能性はあるのかも知れない。
女性は一旦冷めたら早いと言う。いつまでも未練たらしい男とは違う。
今では佐野とも会っている有紀に、復縁を迫るのは惨めすぎた。
だけど母は、有紀から決定的なひと言を聞くまでは諦めないだろう。
ついに押し切られ、夕食後にまた藤沢家を訪問することになった。
夕方、知佳さんからLINEのメッセージが届く。
『今夜、会えないかしら? 修二さんに是非、会わせたい人がいるの』
知佳さんのお節介に閉口する。
お見合いの話は以前にも少ししていたけれど……。
夏帆が亡くなってまだ数週間しか経っていないというのに。
『今夜は用事があるんだ。いつも何かと気にかけてくれてありがとう』
返信をした後、すぐに電話が来た。
「珍しくお忙しいのね。お仕事の用事なの?」
少し嫌味っぽく話す、知佳さんの声がした。
「そうだな、僕にしては気ぜわしい一日になりそうだよ」
「お仕事で忙しいなら、いいことじゃない。帰りは遅くなりそう?」
「そんなに慌てて会わせたい人なのかい? いくらなんでも、まだお見合いをする気分にはなれないよ、申し訳ないけど」
「うーん、お見合いではないのよ。今はご実家なの?」
「そうだけど。近いうちにまた会おうよ。知佳さんが前に言っていたレストランの件で相談があるんだ」
「わかったわ、じゃあ、また電話するわね」
あまり流行らないかも知れないけれど、小さな洒落たレストランか、カフェもいいかと思った。
夏帆の絵を見てもらうことが、第一の目的だから。
だけど採算がとれないようでは、知佳さんの負担になる。
経営に関しては、父に相談するのも良いかも知れないが、最近は僕の素行の悪さから、ほぼ無視されている。
父が経営している、病院のロビーに飾ってもらうというのもいいかも知れない。
夕食を終え、僕の運転で母と藤沢家を訪問した。
お母さんは穏やかな対応で僕と母を迎えてくれたけれど、肝心の有紀は不在だった。
母が慇懃に頭を下げ、老舗の和菓子店から取り寄せた生菓子をおいて、藤沢家を出た。
「小さな子がいても相変わらずあちこち飛びまわっているのね、有紀ちゃんは。家でじっとなんかしていられないタイプなんだわ」
出鼻をくじかれてがっかりした母が、有紀の外出好きを非難した。
今日も佐野と会っているのだろうか。
母を自宅に送り届け、夏帆の家へ向かった。
玄関の門灯に明かりが灯されていた。
僕が消し忘れていたのだろうか。
それとも、知佳さんが来ているのか。
知佳さんにはこの家のスペアーキーを渡しているけれど、連絡もなしに訪ねて来たことはない。
玄関を開けるとリビングの方から女の子が駆けてきた。
「こんばんは。おかえりなさい!」
知佳さんの娘の未央ちゃんだった。
知佳さんに似て、ハキハキとした気の強そうな子だ。
キリリとした顔立ちの美少女なのに、男の子のようなショートカット。
服装もモスグリーンのセーターにジーンズという、地味な出で立ち。
フリフリのレースや、リボンのついた可愛らしいものは、絶対に来てくれないのだと知佳さんが嘆いていた。
性同一性障害だったらどうしようと、知佳さんはかなり真剣に思い悩んでいる。
「びっくりだな、未央ちゃんが遊びにきているなんて」
「未央、この家は大好きなの。でも夏帆ちゃんがいないからつまんない」
寂しげに未央ちゃんがつぶやいた。
後ろから知佳さんがあらわれた。
「ごめんなさい。勝手にあがりこんでしまって。電話しても繋がらないし、LINEは入れておいたんだけど、びっくりしたでしょう」
「運転中だったからね。別にいいよ、未央ちゃんの暇つぶしになるなら。この家使ってくれよ。夏帆も喜ぶだろう」
靴を脱ぎ、人懐っこい未央ちゃんと手をつないでリビングへ向かう。
リビングのとなりのアトリエで、絵を眺めている女性の後ろ姿が見えた。
振り向いた女性は胸に眠っている子供を抱っこしていた。
「有紀!」
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