六華 snow crystal 5

なごみ

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第2章

波乱の新婚生活

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*沙織*


先週、函館に住む慎ちゃんのご両親への挨拶も済み、今日は新居への引っ越し。


今の病院へも地下鉄一本で行ける、新築の2LDK。


家賃は共益費を含めて8万5千円と、少し高めだけれど、慎ちゃんの荷物が思いのほか多かった。


北海道も最近は温暖化のせいか、夏場はかなり暑い日が続く。なのでエアコンがついているのはとっても嬉しい。


慎ちゃんはリビングでダンボールをまとめて縛っていた。


「ねぇ、新婚旅行はどこがいい?」


お鍋やフライパンなどの調理器具を収納しながら、カウンター越しに聞いてみる。



「えっ、行くのかい?  新婚旅行」


慎ちゃんは嬉しげに顔をあげた。



「当たり前じゃない。慎ちゃんは行かないつもりだったの?」


「そりゃあ、行きたいけど、……先立つものがね、引っ越し費用だって、ほとんど沙織さんに出させちゃって、ごめん」



「もういいわよ、済んだことは。指輪と車のローンがあるんだもの。でも新婚旅行はやっぱり行っておかないとね。あとまわしにしていたら、行けなくなっちゃうでしょ。お金のことなら心配しないで。少しくらいなら蓄えがあるんだから」


父の遺産が1000万ほどあることは黙っていた。慎ちゃんは節約があまり得意ではないから。


「ふーん、沙織さんって見かけによらず堅実なんだなぁ。お洒落だから、お金たくさん使うのかと思ってた」


「私には頼れる人なんていないもの。なんでも自分でなんとかしないといけないって思ってたから」


父が私のために、あんなに貯金していてくれたなんて思ってもみなかった。


「でも沙織さん早く子供が欲しいって言ってただろう。貯金しておいた方がいいんじゃないのかい?」


「子供はすぐにできるとは限らないのよ。ねぇ、近場でもいいわ、東南アジアとか良くない?  物価も安いし」


「沙織さんの行きたいところでいいよ。あと結婚指輪も買わないといけないよね、指輪の代金は僕が払うから」


慎ちゃんはそんな安請け合いをするけれど、貯金もないのにどうやって払うつもりなのか。


「もうローンはダメよ。それからすぐにコンビニに寄るのもやめて。スーパーより割高でしょう。慎ちゃんは余計なものを買いすぎるから」


「そうかな、、ガムとか飲み物を買うくらいじゃないか。そんなに買ってないよ」


「ダメダメ、そういうのが無駄な出費なの。毎日100円も払って、ペットボトルのお茶なんか買わないでよね」



「あーあ、結婚したら僕のお小遣いってどうなるのかな?」



シュンとしてうつむいた慎ちゃんは、お金がないのを気にしているみたいで、ちょっと可哀想。



「お小遣いはいくら必要?」


「沙織さんが出せそうなだけでいいよ」


本当かな?


慎ちゃんはあるだけ使ってしまうから、日払いがいいかも知れない。



「そうだわ、来月のローテーションが組まれる前に休みをもらっておかなくちゃ。慎ちゃんは休暇取れそう?  佐野さん一人じゃ無理かしら?」


「夏は暇だろう。患者少なめだから、大丈夫だと思うよ」


慎ちゃんはそう言って、縛りあげたダンボールのビニール紐をプツンと切った。


「楽しみ~~!  ねぇ、モルディブなんてどうかしら?  とっても夕日がきれいなんですって」


「モルディブ?  それってどこの国?」


「どこだったかな?  どこだっていいわ」



慎ちゃんと一緒なら、どこだって楽しい。




前夫、吉岡宏伸との新婚旅行はローマ・パリ10日間の旅だった。


二人で200万もかかった豪華ツアーだったけれど、少しも楽しくなかった。


あれは夫が悪いというよりも、安易に結婚を承諾してしまった私が悪かったと、今では反省している。


彼は大手証券会社に勤めるエリートで、22歳だった私より、8歳年上だった。


あれもひとつの縁というものだったのか。



私が夜勤の日、彼は後続車に追突され、救急車で搬送された。


さほどひどい怪我ではなく、D rの診断では軽いむち打ち症だったけれど、ひどく痛がるため、とりあえず入院となった。


大した怪我でもないのに、ずいぶん大袈裟な人というのが、彼の第一印象だった。


軽傷だったので一週間ほどで退院となり、私にとっては取り立てて記憶にも残らない患者だったけど。


ある日、日勤を終えて地下鉄駅へ向かって歩いていたら、クラクションを鳴らされた。



「北村さん、今お帰りですか?  お送りしますよ」


運転席のウィンドウを開けて、吉岡さんは微笑んだ。



吉岡さんが私に気があることは、入院中から気づいてはいた。


携帯番号を聞かれたけれど、タイプでもないのに教えるわけはない。


もしかして病院からずっとつけて来たの?


少し薄気味の悪さを感じたけれど、その日は同僚と揉め事があって、ひどく落ち込んでいた。


誰でもいいから、この悲しみと鬱憤を吐き出してしまいたかった。


吉岡さんなら素性も知れているし、悪いことは出来ないだろうと思い、素直に車に乗り込んだ。



夕食を一緒に食べようということになり、ホテルのディナーをご馳走になった。


切れ長の細い目に銀縁メガネ、とがった鼻梁の吉岡さんは、かなり神経質にみえた。


身長は175㎝はありそうだけれど、痩せぎすで体にフィットしていないダブついた濃紺のスーツも、上質なのに貧相な感じがした。




見かけとは対照的に、吉岡さんはとにかく優しかった。


私の不平不満のすべてに共感してくれて、否定することはなかった。


そんな人、はじめてだった。


私の不平不満は、他の人からは必ずと言っていいほど否定されるのが普通だった。


悪いのはいつも私だと決めつけられた。


子供の頃からそうだったけれど、そうして私の人間不信はどんどんひどくなっていったのだ。


吉岡さんだけは何故かいつも私を肯定してくれた。


何を言っても何をしても可愛がられた。


年が8つ離れていたせいもあったかも知れない。


そういう部分で吉岡さんはあの頃わたしの拠り所ではあったのだ。


付き合いはじめて早々にプロポーズされたけれどまだ若かったし、いくらいい人でも吉岡さんとはロマンチックな気分にはなれそうになかった。


頼ってはいたけれど、どうしても恋愛感情は持てなかったのだ。


なので、私たちのお付き合いは男女の関係にはならなかった。


そんな微妙なお付き合いだったけれど、無理強いすることもなく、まるでアイドルと接するような距離感で吉岡さんは私を援助してくれた。


そんな吉岡さんと、なぜ結婚してしまったのか……。






脳外科病棟の看護師となって二年目の春、私は勤務先のドクターと激しい恋に落ちていた。



“ 松田先生は手が早いから気をつけなさい ” 


お節介なおばちゃまナースたちの忠告など、人ごとのように聞いていたけれど。


あんな妻子持ちと付き合う女の子たちの気が知れなかった。


私が松田先生に惹かれたのは純粋な気持ちからではなかった。


もっと別の理由から。


それはいつも対立していた同僚の田中莉子へのリベンジだった。


あの頃、莉子と松田先生の仲を知っていたのは私だけだったかも知れない。


ある夜勤の日、救急外来でいちゃついていた二人を偶然見てしまったから。


遊び人の松田先生を誘惑するのはそれほど難しいことではなかった。


その気にさせたまではいいけれど……。


やらせておしまいでは余りにみじめだ。


そんなことじゃ少しも田中莉子へダメージなど与えられないではないか。







「北村から誘われるなんて、思ってもみなかったな」


待ち合わせたホテルの最上階にあるレストランで食事をしていた。


「迷惑だったんじゃありませんか? 誰かと約束があったのでは?」


嫌味ったらしくそう言って小首をかしげた。


「どんな約束があったってキャンセルするだろ、北村みたいな美人に誘われたら。だけどどういう心境の変化だよ?  俺が誘ってもいつも断ってたじゃないか」


先生は探るような目つきで道産白老牛のステーキを口に入れた。



「先生には愛人がたくさんいるって聞いてましたから」


「マジか?  愛人なんているわけないだろう。素行が悪かったのは結婚前の話だよ。なんで俺だけいつまでも悪いイメージが定着してるのかな?」


しらばっくれて先生は少し憂鬱そうに顔をしかめた。


「火のないところに煙は立たないって言いますけどね~」


見えすいた嘘ばっかり!



「北村は彼氏いるんだろ?」


「いるわけないでしょう。私は先生みたいにモテないもの。性格ブスって言われてるから」



吉岡さんのことは誰にも言ってないし、まだ気づかれてもいないと思う。


そんなことを話す友人もいないし、関心も持たれていないから。



実際、吉岡さんは彼氏ではないし。


「いいじゃないか、性格ブスで。自分がそれでいいならいいんだよ。ウジウジして自信のない奴が一番ブスに見える」



「確かにそうかも。先生も性格ブスだから説得力があるわね、フフフッ」


「おまえ、本当に性格悪いな。まぁ、ハッキリ言うところがお互いに似ているな。ハハハッ」


松田先生は豪快に笑って、最後のステーキのひと切れを口に放り込んだ。


上司だからと気を使うこともなく、お互いに好き放題のことが言える松田先生とのおしゃべりは、意外と楽しかった。





レストランを出たところで、先生がいきなり手を握ってきた。



「疲れただろう。そろそろ休もうか?」


先生はいたずらっぽく笑って、握った手に力を込めた。


口説くということもなければ、うまく誤魔化そうともうしない、そのストレートな無神経さに呆れる。



「私は一緒にお食事はどうですかって誘っただけよ。エッチしましょうなんて言ってないですからね」


握られた手を振りほどいた。


「そうだろうな、そう言うと思ったよ。じゃあ、正直に言えよ。なんで俺を誘った?」


……率直すぎるこの人を騙すのは難しいかも知れない。



「私、たくさんいる愛人のひとりになるのは嫌なの。奥様と別れてなんてことは言わないわ。だけど愛人とは別れてくれないと嫌だわ」


うつむいて少し悲しげに言った。


「……だから、愛人なんていないって。誰だよ、変なうわさを流してるのは」


先生はやりきれないように言って、ちょっと目をそらせた。


「田中莉子と別れて。誤魔化しても無駄よ、私ちゃんと知ってるの」


「北村……」


キツネにつままれたような顔をして、先生は私を見つめた。


「じゃあ、今日はご馳走さま」


呆気にとられている先生を残して、エレベーターに乗り込んだ。


先生は莉子と別れるだろうか。


もし別れたら私は本当に先生の愛人にならないといけなくなる。


それでも莉子に勝ちたい。


絶対に負けたくない。



あの時の不安と期待が入り混じった心理状態は、今でもハッキリと思い出すことができた。









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