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第2章
慰謝料を請求されて
しおりを挟む**慎也**
先週、引っ越しと入籍を無事に済ませることができてホッとする。
今思えば、綱渡りのような危険な賭けだった。
もし沙織さんが結婚してくれなかったら、車と指輪のローンで、生活は間違いなく破綻していた。
沙織さんにはまだ言えてないけれど、カードでキャッシングしたローンも、利息で膨れ上がり、100万円以上になっている。
沙織さんが好きだったから、大盤振る舞いをしすぎたのだ。
バレないうちに沙織さんに言わないとな、と思うけれど……。
ちょっと沈んだ気持ちでレントゲン操作室に入った。
「あ、おはようございます。佐野さん、早いですね」
いつもなら僕より10分ほど遅れてやって来る佐野さんが、すでに検査の伝票を確認していた。
「おはよう。あ、結婚おめでとう! いきなりのスピード結婚でびっくりしたよ。いずれはするんだろうとは思ってたけどな」
佐野さんには一昨日の土曜日に、LINEで知らせておいた。
「なんか、アパートを二つ借りたままだと、もったいない気がして、、」
「沙織の考えそうなことだな。無駄なことは嫌いだからな。しっかり者だから安心じゃないか。料理も上手だし、いい嫁さんもらえて良かったな。これ、少しだけど」
佐野さんが水引のついたご祝儀袋を差しだした。
「ありがとうございます。あ、あの、、佐野さんと松田さんは……まだ?」
「う、うん、俺たちはちょっと、暗礁に乗り上げてしまって、、当分は無理だろうな」
しんみりとした哀しげな空気が流れた。
「あ、、じゃあ、遠慮なく、沙織さんと相談して使わせてもらいます」
頂いたご祝儀袋を、白衣のポケットにねじ込んだ。
昼休み、佐野さんと食堂で昼食をすませたあと、階段を降りていたら、
「橋本くん!!」
呼び止められて振り返ると事務の渡辺美波さんだった。
無表情に僕を見つめた美波さんに、なにか恐ろしいものを感じて、背筋に冷たい汗が流れた。
「ちょっと、話があるの」
美波さんは居丈高にそう言うと、しっかりと僕の腕をつかんだ。
一緒に階段を降りていた佐野さんが、ただならぬものを感じたように気をきかせて、
「お、おれ、先に行ってるな」
と言って、慌てて階段を降りていった。
階段の踊り場で顔を引きつらせながら、憮然としたようすの美波さんと向き合った。
10歳年上の美波さんは、面倒見のいい姉御肌の女性で、仕事帰りによく飲みに行った。
男のような太い声で豪快に笑う酒豪で、一緒にお酒を飲むぶんには楽しい人であったけれど……。
「は、話って、、なんですか?」
恨みがましい目で僕を睨みつける美波さんが恐ろしかった。
「ずいぶん冷たいご挨拶ね。私と慎也くんってその程度の関係だった?」
酒乱のような据わった上目遣いで、美波さんは僕を見つめた。
「あ、もしかして結婚の報告をしてなかったこと? 誰にも言ってなかったんだよ、美波さんだけをのけ者にしたわけじゃないから」
「そんなことじゃないわよっ! こんな裏切られ方をするなんて思わなかったわ。私はいったい慎也くんの何だったのっ ‼︎ 」
噴火した活火山のように怒りを爆発させた。
「な、何って? 飲み友達じゃなかったのかい?」
確かに一時期、美波さんのアパートへ転がり込んで、面倒をみてもらっていたことがあったけれど。
十歳も離れている僕を、結婚の対象としてみていたというのか。
「ただの飲み友達ですって? バカにしないでよね! 私たち一時期は同棲だってしていたのよ。そのあとだってずっと続いていたじゃないの!」
「ぼ、僕はずっと気の合う友達だと思ってて、、じゃあ、どうして欲しいんだい? 」
「今まで貢いだ分を返しなさいっ、精神的苦痛代もね。300万円返しなさいよっ!」
ドスの利いた低い声で美波さんは怒鳴った。
「300万 ‼︎ そんなに貢いでもらってないだろう。それに結婚の約束をしたわけでもないのに、精神的苦痛代っておかしいよ」
「おかしくなんかないわよっ、あなたを信じて貢いだりしていたから、私は婚期を逃してしまったんだわ。責任を取りなさいよ!」
上から人が降りてくる足音が聞こえたので、それ以上のことは話せず、美波さんはプイと顔を背けると、急ぎ足で階段を降りていった。
ーーー300万
そんなの絶対に無理だ。
だけど、沙織さんには知られたくない。
どうすればいいのか………。
仕事帰り、沙織さんとスーパーに寄り、食材を買って帰った。
沙織さんが慣れた手つきで、ネギ塩豚丼なるものと、ブロッコリーとおかかのあえもの、ナスの味噌チーズ焼きを作ってくれた。
「すごく美味しい!」
誰にでも簡単に作れそうなものばかりだけれど、待たせることなくササッと出してくれるところがいい。
早くて美味しいのが一番だ。シンプルだから失敗もなくて、美味しいのかもしれない。
「よかった、慎ちゃんが気に入ってくれて。好き嫌いが多いから、心配してたのよ、フフフッ」
美人の沙織さんはツンケンしていても素敵に見えるけれど、やっぱり笑顔のほうがとっても可愛い。
「これも美味しいよ。ナスはあんまり好きじゃなかったけど」
料理があまり得意ではない母が作るものよりも美味しい。
もしかしたら僕の野菜嫌いも治るかもしれない。
おしゃれなデザイナーズマンションに、とびきり美人の妻。
そして、美味しい夕食。
お金の心配さえなかったら、どんなに幸せなのかと思った。
「あ、慎ちゃん、佐野さんに休暇のことお願いした?」
なにも知らない沙織さんは、屈託のない笑顔をむけた。
「あ、ご、ごめん、忘れた」
「やっぱり忘れると思った。ねぇ、早いほうがいいよ。今、LINEで頼んじゃいなさいよ」
「う、うん、食事が終わったらするよ」
とても新婚旅行という気分にはなれない。
「私、主任にたっぷり嫌味を言われちゃった。急に一週間も休みくれって言われても困るって」
「だろうね。病棟はギリギリの人数だから」
「だけど結婚おめでとうくらい言ってくれても良さそうなものだわ。もしかして妬んでいるのかしら? ねえ、やっぱりモルディブじゃなくてオーストラリアにしたの。南半球は冬でしょう。暑いより涼しい所がいいわ」
「沙織さん、、新婚旅行だけど、やっぱりもう少し後にしないかい? 」
「あら、慎ちゃんはオーストラリアに行きたくないの? じゃあ、暑いけどハワイにする?」
「いや、行き先の問題じゃなくてさ、、沙織さんの貯金をそんなに使いたくないんだ。僕、なんだか肩身がせまいから」
「これからは慎ちゃんにたくさん働いてもらうんだから、そんなこと気にしないで」
沙織さんは上機嫌で鼻歌を歌い、食べ終えた食器をキッチンへ下げた。
美波さんに慰謝料を請求される覚えはないけれど、世話になったことは事実だ。
一緒に飲みに行っても、支払いはいつも美波さんがしてくれた。年上の美波さんに甘え過ぎていたことは確かだけれど……。
ソファに腰掛け、テレビを見る気分にもなれずに落ち込む。
タダより高いものはないとはこういうことか。
それにしても300万はあまりに無謀な要求だと思う。
結婚の話などしたこともないのに。
だけど要求を無視して新婚旅行になど行こうものなら、さらにひどい報復を受けそうだ。
「ねえ、早く佐野さんに休暇のこと頼んでよ」
後片づけを終えた沙織さんが、物思いに沈んでうつむいていた僕の隣に座った。
「あ、あのさ、僕、沙織さんに言えてないことがあって、、」
「あら、どうしたの? 元気がないのね? 言えてないことってなぁに?」
上機嫌の沙織さんを悲しませたくはないけれど……。
「ごめん、実は車と指輪のほかにもカードのローンがあるんだ、本当にごめん。だ、だから、新婚旅行はもう少しあとに出来ないかな」
「カードのローンっていくらよ?」
さすがに沙織さんの笑顔も消えて、不機嫌に僕を見つめた。
「えっと、、最初は50万借りただけだったんだけど、返済するのにあちこちから借りているうちに、いつのまにか100万になっちゃって……」
「100万円! 一体なにを買ったのよっ!」
「そんなに大きな買い物をした覚えはないんだ。外食とか交遊費だな、たぶん。本当にごめん、これからは気をつけるよ。そ、そうだ、夜アルバイトでもしようかな」
「ダメよ、副業なんて。救急の呼び出しだってあるじゃないの」
沙織さんは暗い顔をして静かに呟いた。
「佐野さんがやってくれるよ。とにかく申し訳ないんだけど、そういうわけなんだ。飲食店かどこかのバイトを探してみるよ」
仏頂面で黙り込んでいる沙織さんを見て悲しくなる。
この上、事務の渡辺美波さんに慰謝料を請求されているなど、言えるわけもない。
「私も悪かったわ。いつも慎ちゃんに奢らせてばかりいたものね。高いお店に行ってたし……」
結婚前の豪遊を思い出したのか、意外にも沙織さんの表情は少し穏やかになった。
そしてソファから立ち上がると寝室へ行き、クローゼットから何かをつかんでまた戻ってきた。
「慎ちゃん、これ見て」
それは預金通帳だった。
開けられたページに印字された数字の桁に驚く。
「えっ、1000万!!」
「ねぇ、すごいでしょう。パパが私に残してくれたの。引っ越しやなんかで20万くらい使っちゃったけど、まだ1000万もあるのよ。だからそんなに心配しないで」
うかれたように機嫌を取り戻して、沙織さんは僕を励ました。
……これだけあれば、美波さんとうまく和解できるかもしれない。300万も支払う必要はないと思うけれど。
とりあえず借金地獄から解放されてホッとする。沙織さんもそれほど怒っていないようで安心した。
「ほら、早く佐野さんに休暇の連絡して」
「う、うん、わかった」
言われた通り、佐野さんに一週間の休暇をたのんだ。
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