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第2章
僕は代用品
しおりを挟む**慎也**
ボロボロに泣いて駆けて行った沙織のうしろ姿を、呆然と見つめていたら、職員通用口から美波さんが出てきた。
「あら、慎也くんじゃない。どうしたの? そんなところに突っ立って」
美波さんはしらばっくれた顔をしてみせたけれど、底意地の悪さがにじみ出ていた。
「沙織になにを言ったんだよ!」
「あら、もしかしてケンカでもした? クスクスッ、わたしは百万円を返すって言ったのよ。なのに彼女ったら、慎ちゃんが可哀想に思ってあげたものなんだから貰っておけばいいですって。本当にいいのかしら? なんだか悪いわ」
ほくそ笑みながら、そんなことを言っている美波さんは、僕たち夫婦の危機を愉しんでいるのは明らかだった。
「じゃあ、金を返してくれよ。こんなトラブルになりたくないから百万も払ったのに。ポロシャツのボタンを切り取って騒ぎを大きくしただろ!」
「な、なに言ってるのよ。へんな言いがかりつけないで」
ボタンのことを言ったら、美波さんは少しうろたえたように顔をこわばらせた。
「ハサミを隠したのをちゃんと見たんだぞ。じゃあ、なにか? もしかして僕を切り刻むつもりだったのか ⁉︎ 」
「バカみたい。そんなことして何になるのよ。人をサイコパスみたいに言うのやめてよね」
しらけた顔で通り過ぎようとした美波さんの腕をつかんだ。
「待てよ、約束違反だろ、百万円返せよ!」
こんな目に合わされた上に、百万円も支払わされるなんて、あまりに理不尽だ。
「なによ、お世話になったお礼じゃなかったの? 奥様からだって了承を得てるのよ。手を離してよっ!」
「百万円も世話になんかなってないだろう! せいぜい十万円ぐらいなものだ。慰謝料を請求したいのはこっちのほうだよ。精神的苦痛代を払え!」
通用口から、数人の女性職員が出てきた。
「キャーッ、痛いったら、離してよっ! 」
腕をつかんでいただけなのに、美波さんが大袈裟に痛がって叫び声をあげた。
仕方なく、つかんでいた腕を離した。
「ああ、恐ろしい。女性に暴力を振るうなんて。さすがはあんな女の旦那だわ。慎也くんなんてもう、友達でもなんでもないわよ!」
美波さんは憎々しげにそう言うと、足早に去っていった。
気まずい場面に遭遇した女性職員たちが、うつむいて立っていた僕の前を、遠慮がちに無言で通り過ぎていった。
沙織………。
ぶたれた左頰に手をあてた。
目にいっぱい涙をためていた。
美波さんに何を言われたのだろう。
信じてくれ、僕は浮気はしていない。
だけど、もう、そんな事さえ、どうでもよくなっているのだろうか。
沙織との関係がすでに手遅れに思えて、絶望的な気持ちになる。
蒸し暑い真夏の夕暮れ、駐車場のコンクリートに長く伸びた自分の影が、恥ずかしいほど惨めにうなだれて見えた。
8月も過ぎ、沙織と話ができないまま一週間が過ぎた。
佐野さんは気にしなくていいと言うけれど、この先ずっと厄介になっているわけにもいかない。
クレカとキャッシュカードは佐野さんを通して返してもらえたけれど、ローン地獄に陥っている僕が、アパートを借りられるはずはなかった。
追い詰められた僕が出した結論は、函館の実家に帰ることだった。
函館から札幌まで通勤など出来るわけもないので、ここの病院も辞めることになる。
沙織はやっぱり離婚するつもりかな。
僕の顔など見たくもないのだろう。
函館に帰ってしまったら、本当に離婚になりそうな気もするけれど……。
両親も驚くだろうな。
たった二ヶ月で離婚なんて………。
実家の父は鍼灸整骨院を営んでいる。
祖父の代から続いている整骨院で、地元ではそこそこ評判もいい。
長男の拓也は東京で就職をし、すでに結婚もしていて子供がいる。
そんなこともあって、沙織と結婚の報告に行ったときオヤジから、いつか二人でこの整骨院を継いでもらえないかという話が出たけれど、その時はそんな気持ちになれなかった。
札幌が気に入っている沙織だって、函館には住みたくないだろうと思ったから。
だけど僕にはもう、選択肢がない。
ずっと佐野さんの世話になりながら、許してくれるかどうかもわからない沙織の返事を待ち続けるなんて無理だ。
札幌は僕も好きな街だけれど、もう若い頃のような憧れもない。
トラブル続きの毎日に疲れたせいもあって、函館に戻りたい気持ちが、日増しに強くなっている。
鍼灸師と整体師の資格も取って、父が元気なうちに教えてもらおう。
僕はまだ25歳なんだ。
いくらだってやり直しができる歳だろう。
夕食のコンビニ弁当をたべながら、佐野さんにそのことを告げた。
「ブッ! 病院辞めるって ⁉︎ じょ、冗談だろ、……もしかして俺のところにいるのが嫌になったからか?」
佐野さんにとっては青天の霹靂のように感じたのだろうか。食べていたカルビ弁当を吹き出しそうになった。
「そんな理由じゃないですよ。最近のゴタゴタで疲れたというのはあるけど、佐野さんには本当に良くしてもらって、ここは居心地が良すぎるくらいです」
「だったら、もう少し様子をみたほうがいいだろう。沙織とこのまま別れてしまうのか? 本当にそれでいいのか?」
「もう、すっかり愛想をつかされているから。粘ったところでどうにかなるものでもない気がして。LINEもブロックされたままだし、仕方ないです」
そんなことを言ってみても、実際は未練たっぷりで少しも諦めきれてはいない。
僕のそんな気持ちを察したのか、佐野さんがテーブルの上のスマホをつかんだ。
「俺が電話して聞いてみようか? 沙織は出てくれないかな?」
「僕のことが許せてないなら、出ないと思いますけど……」
「一応、、掛けてみるよ」
「…………。」
神妙な顔つきで佐野さんはスマホを操作する。
佐野さんにとって沙織は元カノだ。
僕はそのことをあまり気にしないようにはしていたけれど、佐野さんのほうがなんとなく気にしているように感じられた。
「あ、沙織か、、お、俺、佐野だけど……」
沙織は電話に出てくれたらしい。
緊張した面持ちで沙織と話をする佐野さんを、複雑な気持ちで見つめた。
ーー美しい横顔。
僕が女性だったら、間違いなく好きになっていただろうな。
優しくて誠実で、とてもきちんとした生活を送っている。
僕とは比べ物にならない。
「えっ、助けてって、、どうした? も、もう死ぬって、な、なに言ってるんだよっ、どこか具合が悪いのか? 沙織、沙織! 」
慌てている佐野さんのようすから、沙織の体調が良くないことを察知した。
「どうしたんですか? 沙織、もしかしてまたパニック発作かな?」
最近のストレスでパニックを起こしたのかもしれない。
「よく分からない、、ろれつも回ってないし、念のため救急車を手配したほうがいいかな?」
佐野さんはかなり焦っているけれど、僕はあまり騒ぎを大きくしないほうがいいように感じた。
「多分パニックだと思います」
パニック発作は放っておいても死ぬような病気ではない。でも、激しい動悸や呼吸困難を起こして、死んでしまうのではないかと思うほどの恐怖を味あうらしい。
「佐野さんも一緒にマンションへ行ってもらってもいいですか?」
「そうだな、、すぐに行こう!」
僕の車で久しぶりの我が家への運転。
お盆が近いせいか道路沿いの上部に、ピンク色の提灯が連なっていた。
今夜はどこかで花火大会でも催されているのだろうか、沿道ぞいは人通りが多く、浴衣姿の若い女性や家族連れが歩いている。
沙織も花火大会を見に行こうね、と言っていた。
浴衣まで購入して楽しみにしていたのに、僕が台無しにしてしまった。
沙織の浴衣姿を見たかったな。
濃紺に大きな赤い花柄が入った浴衣だった。沙織にとても似合うだろう。
心配性の佐野さんは、落ち着きのない様子でさっきからそわそわしている。
「大丈夫かな…ま、まさか前みたいに自殺って事はないよな、、」
呑気な僕と違って、かなりビビっているようで、顔が蒼ざめてみえた。
以前の自殺未遂がトラウマになっているのかも知れない。
僕は沙織が夏風邪でも引いて寝込んでいてくれたらいいと思った。
それなら寝ないで沙織を看病をしてあげて、それで僕たちまたやり直せるかもしれない。
そんな自分に都合のいいことばかり考えていた。
……なんて自己中心的なのだろう。
沙織のいうとおり僕は、やっぱりそんな人間なんだな。
約十分ほどでマンションへ到着した。
佐野さんと一緒にエレベーターに乗り込むと、緊張が伝わってきて少し恐怖を感じた。
本当に自殺だったら……。
ロープを首に巻いてぶらさがっている沙織を想像して、背筋が寒くなった。
慌てて玄関ドアの鍵を開け、急いで中へ入った。
室内は寒く感じられるほどクーラーが効いていた。
リビングのラグに沙織が倒れているのが見えた。
「沙織っ、大丈夫か!!」
も、もしかして死んでいるのか⁉︎
頬をかるく叩くと、沙織はどんよりと目を開けた。
「なぁ~に? あなたはだぁれ? 」
ローテーブルにビールや酎ハイの缶が散乱していた。
沙織は自殺を図ったのでも、パニック発作でもなかった。ひどく酔っぱらっていたのだった。
とりあえず無事でホッとしたけれど……。
「沙織、大丈夫か?」
佐野さんが後ろから心配げなようすで覗き込んだ。
「なによぉ~ 、この浮気者! 誰が帰ってきていいなんて言ったのよっ、慎ちゃんなんか出てって!!」
突然シラフにでも戻ったかのように、沙織は目を吊りあげて僕を睨みつけた。
「発作でも起こしたのかと思って心配できたんだよ。ダメだろう、強くもないのにそんなに飲んじゃ」
「偉そうなこと言わないでよ! もう、嫌いよ、慎ちゃんなんて。 早くあの女のところへ帰りなさいよっ!」
沙織はムックリと起き上がって、僕を突き飛ばした。
「沙織、話を聞いてやれよ。ちゃんと聞けばわかるって。信じてやれよ」
佐野さんが背後からそう言って、僕を庇ってくれた。
「あらら、、誰かと思ったら遼ちゃんじゃな~い。相変わらずイケメンさんなのね。せっかく来たんだから一緒に飲みましょうよ。ねぇ、ここに座って」
沙織はトロンとした目つきでソファをポンポンと叩いた。
「バカ、なに言ってんだよ、飲みすぎだろ」
ムッとした佐野さんが沙織を叱った。
「酔ってなんかいないわよ!……元はと言えば、遼ちゃんがわたしを振ったりしたからこんな目にあってるんじゃない。みんな、みーんな遼ちゃんのせいよ。わたしは別れたくなかったのに、、ひどい、ひどいわ、うわーん ‼︎ 」
沙織はそんなことを言って、またラグに突っ伏した。
気まずく重い空気が部屋中に広がった。
「……し、支離滅裂だな、ひどく酔ってるけど心配はいらないな。お、俺はもう帰るよ。タクシーで帰るから」
佐野さんはそう言って僕から目をそらせると、あわてて部屋を出ていった。
またラグで寝てしまった沙織に、寝室のベッドからタオルケットを持ってきて掛けた。
ソファに腰をおろし、眠っている沙織を見つめた。
人は酔っ払うと本音が出るという。
さっき沙織が言ったことは、確かにそうなんだろうと思った。
沙織は今でも佐野さんのことが忘れられないのだろう。
僕は佐野さんの代用品にすぎなかった。
佐野さんに振られて、ひどく痛手を負った沙織を慰めるだけの。
その事実から僕は目をそらせ、沙織と付き合えるようになれたことに有頂天になって忘れていたんだ。
握りしめた拳のうえに、涙がとめどもなく流れては落ちた。
ーー沙織と別れよう。
そして、函館に帰って一からやりなおす。
応援ありがとうございます!
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