六華 snow crystal 8

なごみ

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母との生活

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*美穂*


聡太くんにしても、潤一さんにしても、わたしにとっては二人とも不釣り合いだ。


逮捕歴があるないの問題ではなく、わたしには上手くやっていく自信がない。


結婚生活とは現実的なもの。


愛し合ってさえいればなんとかなるものではないように思う。


互いの親や親族、子供が生まれたら母親同士の付き合いもある。幼稚園や学校行事の参加や、ご近所との付き合い、そんなあれこれを想像するだけで気が滅入り、絶望的な気分に襲われる。


聡太くんとなら幸せな家庭が築けると、簡単に考えていた。どんな困難だって一緒に乗り越えられると。


わたしは幸せに酔って、現実から目をそらせていたのだ。自分の弱点も、生い立ちさえも忘れてしまったかのように。


あんな育ちのよい人と結婚しても、惨めになるだけだ。







「 私はあなたが居なくても一人でやっていけるわよっ! 二人して人をバカにして、もう腹が立つ!!」


母は家に入ってもまだ、興奮冷めやらぬ様子でまくし立てた。


「わかったから、お母さん、もう落ち着いて」


苛立っている母の背中を押してリビングへと誘導する。


「なにがわかったのよ? あんたにわたしの気持ちなんてわかるもんですか!」


お母さんにだって、わたしの気持ちはわからないでしょう。



どんなに潤一さんについて行きたかったか。


彼がわたしを必要としてくれたことが、どんなに嬉しかったか。


潤一さんのお母さんとなら、なんとか上手くやっていける自信もあった。


あの親子は自分本位で時々カチンと来ることもあったけれど、悪意が感じられない分、さほど苦にはならなかった。


率直で裏表がないから、あれこれと深読みして思い悩むこともない。


何より、いま勤め始めた辛い職場から逃げ出したかった。


母がいなかったら、わたしは潤一さんについて行ったのだろうか。


……母がいなくてもついて行かなかったように思う。


諦めたとはいえ、聡太くんのことはまだ、完全に吹っ切れてない。いくら潤一さんが好きでも、すぐに乗り換えるなんてことは出来なかった。





「私は一人だって十分やっていけるの。今まで誰の力も借りずに一人で生きてきたんだから。本当に余計なお世話よ!」


スーパーで買った食材を、冷蔵庫に収めているわたしのそばで、母はしつこく責め続ける。


熱中症で死にかけたくせに。


もう忘れてしまったのか。


都合の悪いことはすぐに忘れるのだ、この人は。


「じゃあ、病気がよくなったら一人で暮らしてください。それでいいでしょう?」


精神科の薬が効いているのか、最近はずっと強気な発言ばかりだ。何者にでもなれると言わんばかりの傲慢さに呆れる。


「病気なんかじゃないったら! あのヤブ医者は適当なことばかり言って、患者からお金を巻き上げようとしているのよ!」


確かにそんな医者もいるだろう。医療だって、お客がいなければ成り立たないのだから。


鬱傾向のときは自分に攻撃が向いていた母だけれど、最近は被害妄想が激しい。






潤一さん、開業すると言っていた。その上、訴訟も起こされて莫大な借金があると。


極貧に慣れているわたしなら、日々の暮らしの節約も出来て、役に立つ代行サービスが出来たのではないだろうか。


キッチンの棚からボールを取り、買ってきたお豆腐と卵、刻んだ野菜と調味料を入れて捏ねる。ふたつに丸めたものをフライパンに並べて焼いた。


豆腐ハンバーグを焼いている間に、見切り品コーナーで見つけたカボチャをレンジで加熱し、サラダを作った。


あとはチンゲン菜のスープと、人参とちくわの卵炒めをササッとと作ってテーブルに並べた。今日のメニューは一人前、150円くらいのものだ。


お肉やお魚を買わなければ、お金はあまり使わなくて済む。お肉は時々買っても、安いムネ肉か豚コマ。食の細い母との食費はさほどかからない。


それでもわたしの収入だけでは結構きつい。介護士の給料は知れたものだし、医療費がかさむ。この家だと家賃はかからないけれど、このボロ屋で寒い冬を迎えると思うと心が萎える。


しかも駅からあまりに遠すぎるので、通勤も買い物も不便なのだ。早く駅チカであまり高くないアパートを探して引っ越そうと思う。


母は反対するだろうか。





母は一年前に勤めていた職場を追われ、失業保険を貰っていたらしいけれど、すでに支給の期間を終えていた。多分貯金も底をつき、絶望的な気持ちでいたのではないのか。


今までどんな会社に勤め、なぜ退職しなければいけなかったのかは聞けていない。こんな精神状態で勤められる職場など、中々見つけられるものではないだろう。そんな母を見捨てて、潤一さんの所へ逃げるなど、許されるわけもない。


未練がましい思いを、かなぐり捨てるように自身を納得させた。


わたしのそんな思いなど知る由もない母は、つまらなそうな顔をして夕食を食べている。


母とふたり共通の話題もなく、テレビを見ながらの夕食を済ませた。






きつい介護の仕事にも少し慣れ、いつものように仕事帰りスーパーに寄るのが日課のようになっていた。長い距離を歩くので、一度にたくさんの買い物が出来ない。なので、必然的に毎日スーパーに寄ることになる。


つい特売品に目が行くけれど、必要なものだけをカゴに入れて、素早くレジに進む。安いからとアレコレ買っていては、なんの節約にもならない。


その日も母と質素な夕食を摂っていたら、また玄関のブザーが鳴った。


きっと聡太くんだ。


こんな時間に我が家へやってくる人は、聡太くんしか考えられない。


聡太くんが訪ねてくるのはこれで五回目だ。その度に母が、知らぬ存ぜぬで追い返していたけれど。


でも、今日の聡太くんはいつもと違っていた。


いつものように、美穂からはなんの連絡もないとシラを切った母に、


「もう嘘はたくさんです! 美穂さんはいるんでしょう? 今日は僕、来てくれるまで帰らないと伝えてください。車の中で待ってますから」


苛立ったような声が聴こえて、玄関のドアが閉まる音がした。





ムッとした母がリビングに入って来た。


「会って正直に話したらどうなの? 私だってこれ以上嘘はつけないわよ」


ウンザリしたように呟いて、母はソファに腰を下ろした。


確かにちゃんと話し合うべき時が来たのかもしれない。だけど、一体なんて言えばいいの。わたしの説明で聡太くんを納得させることが出来るのか。



「こんな寒い夜に、一晩中車の中で待たせるつもり? もしかしてあなた、わたしの心配をしているの? だったら余計なお世話よ。前から言ってるけど、私は一人で暮らしたいんだから」



母は相変わらず強気な発言だ。


買い物も夕食の支度もしないくせに。



「そうね。ちゃんと話したほうがいいかも知れない」


母にそう告げてダウンのコートに腕を通した。






外へ出ると雪が降ってきそうなほど寒く、強い寒風がセミロングの髪を舞い上がらせた。


市街から離れ、民家がポツポツしているだけの寂れたこの辺りは、街灯も少ないのでとても暗い。


停まっていた車のドアが開いて、運転席から聡太くんが慌てて降りてきた。


「美穂さん!!」


騙していたことが申し訳なくて、思わずうつむいた。


「ごめんなさい」


久しぶりに会った聡太くんは随分と痩せて見えた。


「謝らないといけないのは僕のほうだから。母がひどいことを言ってごめん」


「ひどいことなんて言われてないわ。お母様は普通の感覚の持ち主よ。間違っていたのはわたし……」


「寒いだろ。車の中で話さないかい?」


風がビュービューと吹きすさび、とても寒かったので素直に従った。





助手席に座ると、以前と変わらない芳香剤の香りが、幸せだった懐かしい記憶をよみがえらせた。


「キャンプ、、楽しかったね」


思わずポツリと出た言葉に自分でも驚く。


あの短い夏がわたしが生きてきた中で、一番幸せな時だったかも知れない。


「うん、すごく楽しかった。僕たち、あの頃にはもう戻れない?」


たった三ヶ月前のことなのに、遥か昔のことのように感じられた。


「わたし、夢をみていたんだわ。とっても素敵な夢だった」


「なぜ夢にしてしまうんだい! うちの両親のせいなの? あんな親じゃ僕との付き合いも我慢できないってこと?」


聡太くんの切実な眼差しに狼狽えた。今のわたしには病気の母までいる。甘い結婚生活など、夢のまた夢だ。





「わたし、現実から目を背けてたの。自分のことがなんにも分かってなかった。わたしはまともな環境で育てられてないの。破綻するに決まってるわ」


「なぜそう決めつけてしまうんだい? そんなふうに悪い未来ばかり思い描くのは止めた方がいい。未来は自分たちで努力しながら築くものだろう。僕たち、きっと幸せになれるよ」


聡太くんの力強い説得に心が揺れた。こんな風に決心が揺らいでしまうから、聡太くんに会うのが怖かった。


「……頼むよ美穂さん、僕のことが嫌いだっていうなら諦める。だけど、そうじゃないなら、」


「わたし、犯罪者よ。お母様から聞かなかった?」


ネグレストや性的虐待を受けて育った、恐ろしい子どもなのだ、わたしは。
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