なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第十三話 最後の逢瀬

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 香月の言った通り、離れの前には彼がいた。
「よう。やっぱり来たな。あなたは」
 よりによって、彼は傘も差してない。
「馬鹿じゃないの、あなた」
「だろう。可哀想だと思うだろ。中に入れてくれ」
「……帰って」
「なあ」
 暗闇のなか、しかも雨が降り、灯りはほとんどない。そんな中で、彼の怒りを含んだ声は迫力があった。
「昨日、俺は完全に頭にきてたから、一旦時間を置きたくて帰った。今日はあなたから、俺を拒絶する理由を聞くまで絶対にここを動かない。……バレてしまったから言うけどな。警官の諦めの悪さをなめるなよ」
「あなた、捜査一課なの?」
「知りたいだろ? 俺を入れてくれ」
 間がいいのか悪いのか、雨音がさらに強くなった。
「どうして、そこまでして知りたいのよ。私のこと」
「惚れているからに決まってるだろ。俺は、初日にあなたが俺の身長を測ろうとしていたと教えてもらったときから、あなたを妻にすると決めていた。だからあなたを悩ませるものがなにか知りたい。逆の立場だったら、あなたも知りたがるはずだ」
 椎奈は目を見開いた。
「あんなことで?」
「ああ。あんなことで、だ」
 じり、と男は椎奈の前に迫ってきた。
「あなたも俺が気に入っていたはずだ。職業に貴賎はない。それでも俺は、俺自身でなく俺の職であなたに切り離されようとしている。そこまで嫌なら、はじめからあなたは両親に言っておくべきだった。あなたはそれを怠り、俺たちは四日も会っていた。あなたの怠慢だ。こっちだって親父とお袋に説明する義務がある。あなたは責任を取って事情を説明してくれ」
 彼の言うとおりだ。椎奈が浅はかだった。
 夏とはいえ、雨に打たれっぱなしで、椎奈の肩は冷えてきた。ふるっと身震いしてしまい、椎奈はとっさに足を引いたが、間に合わなかった。
「やめて」
 背に腕を回され、見合いの男に抱きしめられている。
「肩が冷たくなってる」
 彼のからだはあたたかい。男性の体はどうなっているのだ、という不思議な気持ちと、力が全て抜けそうなほどの安堵感が湧いた。
 いくら心地が良くても、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「……離して」
「せめて軒下に」
「離して、鍵を開けるから」
 椎奈が胸を押すと、彼は手を緩めてくれたものの、椎奈の二の腕を握って離さない。
「ここの鍵は閉めてしまったの。取ってくるから、待って」
 渋々そうに、彼は手を離してくれた。椎奈は踵を返し本宅へ戻った。

 勝手口から入ると、浴衣と大きなバスタオルが二枚ずつ、そして離れの鍵が置いてあった。人は誰もいない。誰がこんな準備をしてくれたのか分からないが、椎奈はありがたくそれらを取り、離れに戻った。
 男の前で離れの鍵を開け、椎奈は彼の手を取って中に入った。草履を脱ぐように言ってタオルを渡し、足を拭いたらシャワーブースに入るよう指示した。
「着物を脱いで、これに掛けて。なるべく乾かすから」
「あとでいい。それより、あなたもそれを脱げ」
「命令しないで」
「悪いね。癖だ。それにあなたが、からだの線が全て分かるような、そんな濡れた格好をしてくるのが悪い。こっちはあなたを押し倒したいのを我慢してるんだぞ」
「だったらあっちを向いていてよ」
「もう遅い」
 とは言いつつも、彼はシャワーブースの方へ入っていった。
 彼がシャワーのお湯を調整しているあいだ、椎奈は男の着物、襦袢を掛け、袴は椅子に掛けた。椎奈が乾燥機をセットしているのを、距離を取って見ていた見合い相手は、乾燥機が起動されたとたん、椎奈の元へ戻ってきて椎奈の帯を解いた。
「待っ」
 濡れた帯をほどくという、面倒な作業だというのに、彼は椎奈をあっという間に裸にした。椎奈は抱き上げられ、一緒にシャワーブースへ連れていかれた。初日のように頭からお湯を掛けられ、あわあわとしていると、男は椎奈の背に回っており、うしろから抱きしめられた。
「おい、冷え切ってるじゃないか」
 椎奈からすれば、雨に濡れながら立っていた彼の体が、あたたかいままである方がおかしいのだ。しかも憎らしいことに素肌の触れ合いが心地よい。思わず、掠れた声が出てしまった。
 椎奈の声に合わせ、彼の手が動いた。ゆっくりと、脇を撫でながら、胸のふくらみの下まで辿り着いた。
 乳房に触れられるのを、椎奈は待った。彼の手は椎奈の胸の下で止まった。色欲がない。冷えた人間に、暖を与えたいだけの行動なのだ。
 期待してしまった椎奈は自分を恥じた。彼の手に椎奈は手を重ね、身を彼に傾けた。
 男はびくともうごかない。どっしりと構え、椎奈の肢体などいとも簡単に支えている。
 熱いお湯と男の体。椎奈の体もあたたまってきた。
「昨日、済まなかった」
「なにが?」
 男に謝られたが、椎奈には何に対してなのか分からない。
「あなたの合意を得ずに抱こうとした。帰る間際に」
 椎奈は首を振った。
「私も、来るななんて言っておきながら、あなたの口付けを受け入れたし……そのまま抱かれたいと……も、思って……」
 続きを言うことができなかった。正直に口に出してしまうと、自分でも何をしたいのか分からなくなりそうだ。
 逃げたいのか。捕まえてもらいたいのか。

「ごめんなさい。もういい。離して……」
 腕を緩めてもらい、振り返ったとき、口付けを受けた。舌を入れられ、意地を張ろうとしても虚しく、椎奈の腰は砕けそうになる。結局、彼の肩に腕を伸ばし、掴まって体勢を支えることになった。
 椎奈の胸のふくらみは、彼の硬い胸に重なり形を変えている。胸の先が硬く膨れ、男に抱え直され動いたときに、椎奈の口から甘い声が零れた。
「……もう」
「悪い」
 謝られたが、椎奈こそ、はじめは望んではいなかったが、しっかりと応えた。抗議できる立場ではない。椎奈は黙って首を振り、気にするなと態度で示した。
 シャワーブースを出たあと、椎奈は男にバスタオルを渡したが、彼はそれで自分を拭かずに、椎奈の肩に掛けた。
「私は自分でできるわ。あなた……」
「させてくれ」
 暗に、最後なのだから、と示された気がした。胸が痛くなり、椎奈はされるがままになっている。
 本当に、自分は彼を、手放そうとしているのだ。
 椎奈も、彼の肩にバスタオルをかけた。
「あなたの分の浴衣もあるの。体をふいたら着て」
「ありがたい。あなたの髪を乾かそう」
 初日の繰り返しのようだ。あのときは、楽しかった。
 今、これが最後なのだと、椎奈はさっきから、彼の行動の逐一を噛みしめ覚えておこうとしている。これら全てを忘れたくない。
 椎奈にとって幸せで、楽しかった短い日々を、この先覚えておけるのだろうか。嫌なことばかり思い出す、悪い癖のある自分が。
 椎奈は浴衣を着、髪を乾かしてもらい、彼も浴衣を着て落ち着いた。
 男が着た浴衣は、かつて父のためにと用意したものだ。袖を通すことなく、勝善は逝った。
 彼が椎奈に向かい会って、椎奈の回想は途切れた。
 現実が目の前にいる。
「話してくれるか?」
 椎奈は、彼の手を取って、部屋の方へと戻った。

 座布団の上で彼は正座をした。椎奈もそれに倣い、対面に座した。
「七年前、父が亡くなったの」
 男は動かなかったが、僅かに呼吸が深くなった。
「殉職だった」
 対峙の男は気付いたようだ。明らかな驚きの声を漏らした。
「あなたの父上は、菊野勝善警部……なのか。あの事件の」
「ええ」


 七年前某日、警察署に、繁華街に一台の車が進入し次々と人を撥ねていると通報があった。それよりさらに十分前、息子から刺されたと、ある家から署へ通報があった。犯人の男は、父親を刺した最初の犯行の直後、自暴自棄になり、警察が到着する前に自家用車で繁華街に入った。
 犯人は数人を撥ねたのち、スピードを上げガソリンスタンドに突入しようとした。一台のパトカーがそれを防いだ。
 くだんのパトカーの運転をしていたのが、父、菊野勝善だった。犯人の車はパトカーの運転席側面に直撃し、父は即死だった。
 犯人の車はエアパックが作動したため、行動が制限され、あっけなく現行犯逮捕に至った。逮捕された直後、犯人は電池が切れたようにおとなしくなった。
 目のつり上がった、若い男だった。

 椎奈はだから、未だにまなじりの鋭い男性が怖い。


「お通夜のあとで、お母さんは泣き叫んでた。なまじ顔に傷がつかなくて、最期の顔を見ることができたのが、辛さを強くしたかもしれない。骨上げのときも、残っていた骨……特に右側は損傷が激しくて、そこでも母は耐えられず泣いていた。私も、未だに立ち直れてない。ふと思い出したら辛くて、泣くこともある。そんな私が、警察官の奥さんになれると思えない……あんな思いはもういや」
「……待ってくれ」
 見合いの相手は、苦いものを食べたような声を出した。
「あなたの言いたいことは分かる。俺も同じ目に遭ったら、冷静でいられないだろう……。でもな」
「分かってる、そんな事件に遭わなくても、何が起こるか、未来なんて誰にも分からないことは」
 人は、ときに、あっけなく亡くなる。
「理屈じゃないの」
 声が震えた。こんなときに泣きたくない。それは、余りにも狡い。椎奈は深呼吸を繰り返した。

「なあ」
 椎奈は男からの問いかけに対し、先を続けてくれと目で促した。
「俺が仕事を辞めて、別の安全な職についたら、あなたは俺と見合いを続けてくれるか?」
 椎奈は彼の問いに答えられなかった。相変わらず、雨音が大きい。それを耳にしながら、冷静に頭のなかを整頓したくて黙っていた。
 はいと言えない。何か言わねばならない。思考を巡らせているうちに、彼が話を続けた。
「あなたは昨日、俺に警察官を辞めるなと言った」
「ええ」
「何故」
 それなら答えられる。
「あなたは優しくて、洞察力も持ってる。胆力があって、正義感も強くて、自分の仕事に誇りを持ってるから……そんなあなたに、仕事を辞めてまで私を選んでって、私は、言いたくない。……あなたが、本心では警察官を辞めたいならともかく」
「じゃあ、俺が辞めたら見合いを続けてくれるかどうかは、何故、答えてくれないんだ?」
 椎奈が黙っていると、男は鼻で笑った。
「黙秘か?」
 心の闇に辿り着いたとき、できるならそうしたいと思った。観念し、椎奈は目を閉じた。
「……私が言ったせいで、仕事を辞められたら、私の負い目になる。そんな形で一緒になったら禍根が残る」
「自分は悪者にはなりたくないってことか」
 椎奈は答えられなかった。図星だ。
 何かを言わなければと、焦燥に駆られる。椎奈は心臓の鼓動を早くしながら、必死に言葉を──言い訳を探してしまう。
 就職活動の面接や、昨日、警察署で話をしたとき以上に、今、緊張している。
「あなたには警察官を辞めないでほしい。……あなたは私の憧れでもあるから」
「憧れ?」
 暗闇のなかで、椎奈は目を凝らして彼を見つめた。
「私も、あなたのような警察官になりたいと思っていた」
「どうしてこちらに来なかったんだ?」
 長年の鬱積を凝縮させたようなため息が出た。
「警察官になって、その職を続けられる自信がなかった」
「お父上が殉職されたから?」
「……父が生きていたとしても、多分」
 椎奈がその先を言う前に、彼は椎奈に膝をつき合わせた。
「もういい。あなたの言いたいことは分かるつもりだ」
「でしょう」
 臆病で、逃げ腰で、満足に人を助けることができず、騙され、救いようのない自分が、他者に毅然と立ち向かえるとは思えない。
 彼にはなにもかも知られてしまっている。
 しかし、彼はまず「そうじゃない」と先んじた。
「あなたは自分を許してやるべきだ。あなたは、自分のことを臆病だと責めすぎている」
 ひくりと喉が鳴った。

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