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第一章

呪い

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ひんやりとした空気が首元を撫でた。
ここはまるで外の世界と隔絶されているかのように静かで、禁足地と言われている意味がわかるような気がする。ここは、他の場所とは全く違う神聖な場所なのだ。
鬱蒼とした木々が全ての音を吸収してしまっているのだろうか。あたり一面、しんとして恐ろしいほどに静かだった。
苔むした石畳が、足下からずっと奥へと伸びている。上を見上げると、生い茂った木々がすっかり太陽の光を遮っていた。道の両端には灯籠が俺を誘うかのようにゆらりと灯りを灯していて、それを目印にして奥へと進んでいくと、人影が見える。
リューシェンだ。
「旭!良かった。無事に着けましたね」
「そりゃ、ハヌルが入り口まで案内してくれたし。ここまで一本道だったから迷う方が難しいんじゃないか?」
「いいえ、ここは私と選ばれた創造者達しか入れない森ですので、普通の人が入ったら迷ってしまうものなんです。ですがあなたは簡単にここまで来ることができた。それこそ、あなたが選ばれた者という事のなによりの証です」
リューシェンは優しく笑みを浮かべる。
俺はいい返事が思いつかずに「そ、そうなのか?」となんともいえない返事を返すことしかできなかった。
リューシェンが俺を手招きし、隣に並んで二人で歩き出す。一体これからどこへ連れて行かれるのか、何をするのかわからずに緊張で心臓が大きな音を立てている。
ちらちらと何度もリューシェンの方に視線を送っていると、リューシェンはそんな俺に気づいたのか、小さく笑い声をあげた。
「旭、そんなに心配せずとも取って食ったりはしませんよ」
「そ、そんなこと言われても、流石にこんな経験は初めてで……言っとくけど、まだアンタの事も信じた訳じゃないからな!」
「はいはい。今はそれで構いません」
まるで小さい子をあやすかのようだ。ハヌルが先ほど、リューシェンは千歳以上と言っていたから、おそらくそんな彼からしたら俺のことなんて赤ん坊も同然なのだろう。
「さて、着きました。ここが世界樹の根本です」
目の前には巨大な幹と、そこから伸びる根が地面をこんもりと地中から押し上げている。周りには紙垂の結界が貼られ、風に揺れてさわさわと揺れていた。
「でか……」
思わず声が漏れる。日本の屋久杉も相当にでかいというけれど、それをゆうに越えそうな大きさだ。
規格外のでかさに俺は開いた口が塞がらなかった。そんな俺の反応を見てリューシェンはなんだか機嫌が良さそうだ。
「私と同い年なんです」
「知ってる。千年以上生きてるんだろ?」
「おや、知っていましたか」
「ハヌルに聞いた」
世界樹の幹に手を添えると、分厚い樹皮の奥に熱い心臓が脈打っているような不思議な感覚があった。そして同時に、この木は今も生きているのだということがよくわかる。
「私はこの樹と共に生まれた。私達は世界がまだ賑やかになる前からずっと一緒にいました。母や、親友のようなかけがえのない存在なんです」
リューシェンは愛おしそうに樹皮を撫でた。その表情を見ていると、心の底からこの樹を大事に思っている事がわかる。
「それで?そんな思い出話をする為に俺をこんなところに連れてきたわけじゃないんだろ?」
「えぇ、そうでした」
リューシェンは幹から手を離すと、ぐるぐると幹の周りを歩き始める。しばらくその後をついて行くと、幹の根元に設置された祭壇のようなものが見えてきた。
周りを蝋燭と、麻紐に括り付けられた紙垂が結界のように取り囲み、その真ん中には台座が置かれている。何かの儀式に使われるのだろうか。
「この台座に各国の創造者達が一年に一度、この樹のために書いた物語を捧げます。それが言祝の儀と呼ばれるお祭りです。旭にはそこで初めて創造者としての役割をはたしてもらうことになります」
「もし、俺が役割を果たせなかったら?」
「それは困りますね。世界樹がエネルギー不足で枯れるか、もしくは代わりに旭を取り込もうとするかもしれません」
「……それってただの生贄じゃないか」
「昔、元々捧げられていたのは人だったので驚くことではないですよ」
物騒な事をさらりと言う。なるほど、捧げ物も時代と共に移り変わったというやつだろうか。
リューシェンは儀式の台座に近づくと、その奥にある祭壇に飾られた一本の筆を手に取った。そして俺を軽く手招きする。
「旭、おいで」
呼ばれるがまま近づくと、リューシェンは筆を俺の額に当てる。
「腕を捲って」
袖を捲り、魚の腹みたいに真っ白くて頼りなさそうな俺の腕がむき出しになる。リューシェンは筆先を俺の手首に当て、そのままするするとなにかを書きだした。しかし墨はついていないので何が書かれているのかはわからない。

『我、ここに彼の者を創造者として認む』

リューシェンが呟くと、俺の腕に先ほど書かれたものか、文字が浮かび上がってきた。それは赤く光を帯び、少しの熱を持ったかと思うとそのまますぐに皮膚の下に吸い込まれるようにして消えていく。
「これで、あそこにおいてある書物に旭の名を書いてください。そうすれば貴方は創造者として樹に認められた事になります」
筆を手渡され、祭壇に置かれている書物に近づく。書物にはありとあらゆる文字が並んでいる。今までここにやってきた創造者達の名前だろうか。中国語に韓国語、タイ語や英語などたくさんの言語が並んでいる。という事は俺より前にもこんなふうに他の世界から連れてこられた人達がいるという事だ。
ページの片隅、空白の部分に俺は自分の名前を書き記そうとした。すると、穂先が紙に触れた瞬間、まるで頭がかち割れそうな酷い痛みが走り、俺は思わず呻いてうずくまる。

——書くの?

誰かの声が聞こえる。
声に聞き覚えはあった。ただ、それが誰なのか思い出せない。

——覚えていないくせに。

女の子の声だった。ひどく悲しそうで、しかしどこか怒りを滲ませている。
視界がぐるぐると回って、脳内を乱暴にかき混ぜられているかのようだった。まるで船酔いしているみたいにひどく気持ちが悪い。
視界の隅でリューシェンがこちらに駆け寄ってくるのがわかった。
そしてもう一人、俺の目の前に小さなリボンのついた可愛らしい靴を履いた誰かが立っている。

——見殺しにしたくせに。

まるで首元にカッターを当てられたような気持ちだ。
全身の毛が逆立って、冷や汗がだらだらと流れ落ちる。
なんの話だ?見殺し?俺が?

——どうせ貴方の書く物語じゃ誰も救えない。

少女の声がドロドロと恐ろしいものに変わっていく。
だめだ、これ以上は。
思い出してしまう。
でも、何を?

「旭!!」

俺の意識を引き戻したのはリューシェンの必死な声だった。ふと横を見ると、リューシェンが俺の肩を掴んでこちらを心配そうな顔で見つめていた。
「旭、大丈夫ですか?どうしたんです?」
「あ、リューシェン……。いや、俺……」
顔を上げると、先ほどまで誰かの足が見えたところには誰も立っていなかった。幻覚を見ていたのだろうか?
聞き覚えがある声だったが、その声の記憶すらもどんどん朧げになっていく。一体、今のは誰だったのだろう?
しかし、俺の心は必死に今の出来事を忘れようとしているようだった。本能が過去の何かを思い出す事を拒絶しているようだ。
「いや、大丈夫だ。立ちくらみ、だと思う」
そう言ってもリューシェンの表情は晴れなかった。
そりゃそうだ、どう見たって立ちくらみって様子じゃなかっただろうから。
ふと手元を見ると、先ほどまで握っていた筆が炭化し、ぼろぼろと崩れ落ちた。それを見てリューシェンは更に表情を硬くする。
「ごめん、多分すぐ休めば大丈夫……」
「旭、今日はやめておきましょう」
「え、何で?大丈夫だよ。少し疲労がたまってただけだって」
「いいえ旭」
そしてリューシェンは強張った表情で、信じられない言葉を口にした。
「貴方には呪いがかけられている可能性があります」
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