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ヒリキなぼくと公園と親たち
佐伯の本当の…夢
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金網ごしからマンションが見えた。
佐伯が住むというマンションは、外壁の白いペンキが少しひび割れていて、少しボロっちい。マンションというより、団地って感じだ。
2号棟ってことは、どっちにしろ真ん中の棟だろう。エレベーターはない。手前と奥に階段があり、両方にそれぞれ部屋がある。どの部屋なんだろうと思って立ち止まっていると、光岡がなにも気にせず、敷地にずんずんと入って行く。
「確か、一番奥」
光岡は、そう声をかけてくれた。さすが情報通。案内をしてくれた光岡にお礼を言うことにした。
「帰ってもいいよ。ありがとう」
光岡はうんざりしたような顔をして、返事を返してきた。
「ここまでやってきて、それはないんじゃない? 気になるもん。付き合うよ」
さっき「怖い」と言っていなかったっけ。だから気をつかったのに…。
好奇心旺盛そうな光岡からすれば、この先がわからないほうが、いやなのかもしれない。実際、本当は一人で行くのが不安だったから、正直助かったとつい思ってしまった。
奥へと進むと、マンションの奥から声が聞こえてきた。一歩ずつ進むと、だんだん大きくなってきた。ドキドキした。ああ、ここだ。この家だ。なんとなくそんな気がした。近所から文句が出ないのだろうか。耳をそばだてると、かすれた低い声がする。
「おれに恥をかかす気か」という声が聞こえてきた。
そして、どしんというにぶい音がした。
一瞬、何が起きているのかが、わからなかった。殴ってる? 投げられている?
なんかそんな音がする。
光岡が保健室でお父さんとの様子を話してくれなかったっけ。そして、あの体のアザ、うつむいた佐伯の青白い顔。今まで佐伯のまわりで起こった出来事が頭の中をかけめぐった。
暴力?
手がふるえてきた。佐伯の態度や言葉、そして授業参観でのなどが、頭の中で歯車のようにかちっとはまった。佐伯は暴力を受けている、のか。だから、あんな目をしているのだろうか。
佐伯のお父さんの声がまた響いた。おなかから熱いものが、どんどんふくらんでいくような気がした。
ぼくは、たぶん怒っている。
それと同時に、この場からいなくなりたいという気持ちもわいてきた。あんな怖そうなところになんて行けない。そのままUターンしたい。光岡がいたから、かろうじて踏みとどまっていた。
その様子を見ていた光岡がぼくのそでを引っ張った。光岡は、平気なのか?
度胸があるっていうか、無神経っていうか。どっちだろう。今はその図太さに、今は感謝すべきなんだろうな。光岡はポケットをごそごそさせながら、ぼくをうながした。
「行こうよ。助けよう」
違う…んだ。光岡は無神経なんかじゃない。あの男とたたかって、佐伯を助ける気なんだ…。ヘタレなじ自分とは違って…。すごいな。
この暴力に満ちた声が聞こえないのか。怖い…。ぼくは、首を横にふった。
「ダメだ。少し待とう」
そう言うしかなかった。やっぱり怖い。様子をみたい。その二つの気持ちが、波のように寄せては返している。
光岡が、ちょっと怒ったように言った。
「えっ、なんで?」
理由。ぼくたちも巻きこまれて、ケガとかしたくない。けれど、それを言葉にできない。
光岡は、すぐにでも佐伯のところに行きたそうだ。待とう。あのお父さんには、今は会いたくない。避けなきゃ。引き止めなきゃ。光岡だけは守らなきゃ。
いや、そんなんじゃない。ただ嫌で、怖いんだ。
「どうしても。今は無理だよ。自転車置き場らへんで待って、様子をみよう。時間かかるかもしれないけど、いなくなる可能性もあるし」
光岡は、納得できない顔をしていたが、ぼくは動かなかった。
あたりを見まわした。このマンションに、ベンチや花壇はない。あるのは、門の脇にある自転車置き場くらい。それも、手入れされてなくて、さびだらけで荒れ果てている。佐伯の家の脇を見ると、エノコロ草がぼうぼうとしげっている。蚊も虫もいそう。
「困る。お昼ごはんまでには帰りたいんだけど…。さっさとやっつけよう」
光岡は、右腕を上に上げた。やけに現実的なことを言っている。
なんだ早く行きたかったのは、お昼ご飯のせい? 現実に引き戻されたような気がした。佐伯が心配だからじゃなく、自分の都合か。
なんだか少しがっかりした。
時計を見ると、11時を過ぎている。そういう時間か。
自分は、お昼のお金をもらっているし、「塾に行った」と言えば、言い訳もできる。光岡の家はそういう感じじゃなさそう、光岡に昼ご飯抜きはキツいだろうな。それに彼女がいないほうが、心配しない分だけ、ぼくのほうが身軽だ。
「じゃあ、一度帰ったほうがいいよ。どのくらいかかるかわからないし。光岡を危ない目にあわせたくない。あとからちゃんと報告するから」
光岡は自分で言ったのに、どこか不満そうだ。けれど、今回は引いてもらわなきゃ。
「わかった。絶対だよ。スマホある?」
光岡は半分納得しかねるけど、腹ペコには負けるという顔をした。そして、スマホを取り出し、無理やり連絡先を交換させられた。そして、「ご飯食べたら、すぐに戻ってくるから」と言い残し、光岡はダッシュして帰っていった。
◇ ◇
おしゃべりな光岡がいなくなって、ぽかんとした時間が生まれた。
らしくもないことをしている。そういう自覚はあった。
作文のこと、プラモのこと、いつもの自分ならスルーしてきたこと。だけど、行動することで何か変わりそうな感じ。その何かはわからないけど…。息がつまるこの世界が動き出しているような気がした。
同時に、佐伯は大丈夫なのだろうかという不安に変わった。どうすればいいんだろう。ぼくにできることはないのかな。友だちになって、話を聞いてあげる、とか…。そんな、らしくもないことを考え続けた。
◇ ◇
ガタン
半をまわった頃、佐伯家の玄関の扉が開いた。こういう時、視力がよいことに感謝。
けっこう離れていても、よく見える。隠れるようにすぐにマンションの裏にまわった。夏草のしめりけのあるにおいがぷんとした。足がむずがゆい。じっと観察していると、そのまま佐伯のお父さんは、すたすたと門をくぐって出ていった。
絶対に戻ってこない。そう自分に言い聞かせた。ぼく史上、最大級の勇気を出した。大きく息をして、ゆっくりと奥の家に向かった。そして、チャイムを押した。蚊に数か所刺されていた。かゆっ。
◇ ◇
チャイムを何回押しても、佐伯はなかなか出てくる様子がなかった。聞こえているのだろうか。ドアをガンガンたたいて、大声で「いるんだろ」と叫ぶと、中から動く気配がした。2~3分すると、がちゃっという音とともに、鉄の扉が開いた。玄関は、昼だというのにうす暗く、靴が散乱している。なんだかかびくさい。
「何?」
ぶっきらぼうな声がした。失礼な。親切な同級生が、かばんを持ってやってきたのに。
「これ」
とかばんを上げて、見せると、「ああ」と納得したようだった。
「学校に置いていっただろ。持ってきた」
「ありがとう」
と、かばんを受け取ってくれた。
何を言えばいいんだろう。一人になりたそうだ。かと言って、佐伯をそのままにしておくわけにはいかない、絶対に。そう思った。そこで、佐伯が罠にかかりそうな言葉をくり出すことにした。
「おなかすいていない? おごるよ」
今、佐伯と話をするなら、食い物で釣るのがたぶん一番早い。案の定、ひっかかった。
◇ ◇
「家にいたくない」と佐伯が言ったので、第2公園に行くことにした。
光岡には、LINEで『会えたけど、今は来ないでほしい』とだけ連絡した。
そして、公園の前にあるコンビニで、ツナマヨおにぎりとからあげを買った。手持ちが2000円ちょっとに減った。プラモ購入計画資金、さようなら。ここで使うのはもったいないことはわかってる。だけど、まあしょうがない。必要経費ってやつだ。
第2公園には、お昼だからだろうか、だれもいない。がらんとしていた。小さい頃と同じ風景だ。でも、あの頃とは違う。もう砂場でなんて遊べない。ちょっぴり大人になったんだ。戻れない。胸が少しきゅっとなった。
ペンキがはげかかっているベンチに二人で座った。
「おつかれ」
ツナマヨとからあげのおかげか、満たされた顔をしている佐伯に言った。
「別に」
「大丈夫?」
「何が?」
と、佐伯が答えた。
ぼくから目をそらした。ごまかしている。何も言う気はなさそうだ。父親から殴られているに違いない。言いたくないだろうな。わからないでもない。殴られたことはないけど、自分の気持ちを無視する母親がいる。程度の差はすごくあるけど、似ているような気がする。
「アザさ、柔道じゃないだろ」
「…違うよ。柔道だよ」
まだごまかす。けど、無理に言わせたくない。どうすればいい? 素直に言うか。
「どなり声が聞こえたよ」
佐伯はしばらく黙っていた。そして、首を横にふり、あきらめたようにため息をついた。
「聞こえたんだ。言うつもり…、なかったんだけどな」
「ごめん。助けられなかった。動けなかった」
「そんなの、わかってる。誰かに助けてもらおうなんて思ったことはないよ。親父をどうにかしようとしても、無理だから」
助けられなかったことなんて、気にもしていない。あきらめているんだ。
一緒だ。ぼくもあきらめている。ぼくが佐伯にできることってあるのかな。本当に何も出来ないヒリキな自分…。まず佐伯を理解することが大事かもしれない。
わかりあえるのかな。自分のことを話してみようか。気持ちをわかってもらっても、暴力から抜け出す手助けにはならない。自分勝手と思われるかもしれない。でも…自分も親に困ってる、つらいってことを知ってくれれば、同じだってわかってくれれば、何か変わるかもしれない。ここで言わなかったら、きっと後悔する。なんとなくそういう気がした。
「あのさ、自分の話をするね。ぼくと佐伯は似てるよ。暴力はないけど。親は、ぼくを好きじゃない。自分の成績やステイタスが好きなんだ。勉強させて、いい学校に入れれば、自慢できるって、そう思ってる。ぼくの意思なんて関係ないんだ」
一つずつ言葉にしてみる。
「…別に何もされてないだろ」
佐伯は、暴力を受けているから、そう言うんだ。目が怖い。殴られそうだ。
「そうだね。殴る、けるっていう暴力はね、ないよ。でも、自分の意見や気持ちは無視されているんだ。中学受験なんてしたくなかったけど、いつの間にか決まってたりしてた。『将来のため』っていう言葉で、都合よくねじまげられてさ。そういうの、ひどくね? 一種の暴力だよ。色々追い立てられて、疲れちゃった。だから、親のことを信じることができなくってさ。早く大人になって、家を出ることだけを楽しみなんだ」
わざと軽く言ってみる。佐伯は口を閉ざしたままだ。
「親って、勝手だよ。お前のためって言いながら、本当は自分のためなんだ。暴力も、強制も一緒。子どもの気持ちなんて、全然考えてない。子どもはヒリキなんだ」
佐伯は、まだ黙ったままだ。
自分と佐伯はレベルが違いすぎるのかも。言いたくないんだな。そう佐伯はひどい目にあってる。自分ごときが小さな悩みを言っても、佐伯には響かないのだろうな。ぼくは佐伯よりはマシなんだろう。でも、それでも、ぼくはぼくでつらい。それぞれ違うつらさをかかえているんだ。
「もう何も言わなくていいよ。佐伯だけじゃなく、親にひどいことをされてる人間は他にもいることだけは、わかってほしい」
佐伯が受けているのは、たぶんギャクタイっていうものだ。それを直接、「虐待を受けているだろう」と言うのは、佐伯にとっていいことなのかはわからない。だって、つらい出来事や気持ちを話すのって、めちゃくちゃ勇気がいる。ぼくだって、この話を他人にするつもりなんて、全然なかった。けど、佐伯と向き合うためには、言わなきゃいけないと思ったから…、言ったんだ。
佐伯は、ずっと空を見ながら、しばらくの間。黙っていた。何を考えているんだろう。
自分勝手かもしれないけど、自分のことを言えたし、あとはそっとしておこう。決めるのは佐伯自身だ。いつか話をしてくれるかもしれない。それまで待とう。そう思った。ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「帰るよ。自分の話だけして悪かったな。いつでもいいから、いつか話したくなったら話して。待ってる。味方だってことだけはわかってくれると、嬉しい」
これだけは言いたかった。今じゃなくていい。佐伯が言いたくなるまで、待とう。今はそれしかできない。
佐伯も、立ち上がった。何か言いたそうだ。だけど、ためらっている感じがした。
これ以上、佐伯の傷口をえぐりとるようなことはしたくない。自分だって、母親のことをどう話したらいいのかわからなかった。それと一緒だ。
すると、いきなり佐伯は、ぼくの腕をつかんだ。
「あのさ…」
佐伯は、何回かため息をついた。そして、また空を見上げ、深く息を吸った。
「おれの本当の夢を教えよっか」
本当の夢? 『将来の夢(仮)』の中で書いたダンサーではなく?
「本当の夢は、親父をやっつけて、殴られなくなることなんだ」
息をのんだ。えっ、やっつける? 人それが夢? そんな夢あるのか。怖い。瞬間的にそう思った。
ぼくもアレから自由になりたいってずっと思っている。だけど、やっつけたいなんて一度も考えたことはない。言葉が何も出てこない。
「そうしないと、いつか死んじゃうじゃないかなって思う」
佐伯はそうぽつりと言った。
佐伯が住むというマンションは、外壁の白いペンキが少しひび割れていて、少しボロっちい。マンションというより、団地って感じだ。
2号棟ってことは、どっちにしろ真ん中の棟だろう。エレベーターはない。手前と奥に階段があり、両方にそれぞれ部屋がある。どの部屋なんだろうと思って立ち止まっていると、光岡がなにも気にせず、敷地にずんずんと入って行く。
「確か、一番奥」
光岡は、そう声をかけてくれた。さすが情報通。案内をしてくれた光岡にお礼を言うことにした。
「帰ってもいいよ。ありがとう」
光岡はうんざりしたような顔をして、返事を返してきた。
「ここまでやってきて、それはないんじゃない? 気になるもん。付き合うよ」
さっき「怖い」と言っていなかったっけ。だから気をつかったのに…。
好奇心旺盛そうな光岡からすれば、この先がわからないほうが、いやなのかもしれない。実際、本当は一人で行くのが不安だったから、正直助かったとつい思ってしまった。
奥へと進むと、マンションの奥から声が聞こえてきた。一歩ずつ進むと、だんだん大きくなってきた。ドキドキした。ああ、ここだ。この家だ。なんとなくそんな気がした。近所から文句が出ないのだろうか。耳をそばだてると、かすれた低い声がする。
「おれに恥をかかす気か」という声が聞こえてきた。
そして、どしんというにぶい音がした。
一瞬、何が起きているのかが、わからなかった。殴ってる? 投げられている?
なんかそんな音がする。
光岡が保健室でお父さんとの様子を話してくれなかったっけ。そして、あの体のアザ、うつむいた佐伯の青白い顔。今まで佐伯のまわりで起こった出来事が頭の中をかけめぐった。
暴力?
手がふるえてきた。佐伯の態度や言葉、そして授業参観でのなどが、頭の中で歯車のようにかちっとはまった。佐伯は暴力を受けている、のか。だから、あんな目をしているのだろうか。
佐伯のお父さんの声がまた響いた。おなかから熱いものが、どんどんふくらんでいくような気がした。
ぼくは、たぶん怒っている。
それと同時に、この場からいなくなりたいという気持ちもわいてきた。あんな怖そうなところになんて行けない。そのままUターンしたい。光岡がいたから、かろうじて踏みとどまっていた。
その様子を見ていた光岡がぼくのそでを引っ張った。光岡は、平気なのか?
度胸があるっていうか、無神経っていうか。どっちだろう。今はその図太さに、今は感謝すべきなんだろうな。光岡はポケットをごそごそさせながら、ぼくをうながした。
「行こうよ。助けよう」
違う…んだ。光岡は無神経なんかじゃない。あの男とたたかって、佐伯を助ける気なんだ…。ヘタレなじ自分とは違って…。すごいな。
この暴力に満ちた声が聞こえないのか。怖い…。ぼくは、首を横にふった。
「ダメだ。少し待とう」
そう言うしかなかった。やっぱり怖い。様子をみたい。その二つの気持ちが、波のように寄せては返している。
光岡が、ちょっと怒ったように言った。
「えっ、なんで?」
理由。ぼくたちも巻きこまれて、ケガとかしたくない。けれど、それを言葉にできない。
光岡は、すぐにでも佐伯のところに行きたそうだ。待とう。あのお父さんには、今は会いたくない。避けなきゃ。引き止めなきゃ。光岡だけは守らなきゃ。
いや、そんなんじゃない。ただ嫌で、怖いんだ。
「どうしても。今は無理だよ。自転車置き場らへんで待って、様子をみよう。時間かかるかもしれないけど、いなくなる可能性もあるし」
光岡は、納得できない顔をしていたが、ぼくは動かなかった。
あたりを見まわした。このマンションに、ベンチや花壇はない。あるのは、門の脇にある自転車置き場くらい。それも、手入れされてなくて、さびだらけで荒れ果てている。佐伯の家の脇を見ると、エノコロ草がぼうぼうとしげっている。蚊も虫もいそう。
「困る。お昼ごはんまでには帰りたいんだけど…。さっさとやっつけよう」
光岡は、右腕を上に上げた。やけに現実的なことを言っている。
なんだ早く行きたかったのは、お昼ご飯のせい? 現実に引き戻されたような気がした。佐伯が心配だからじゃなく、自分の都合か。
なんだか少しがっかりした。
時計を見ると、11時を過ぎている。そういう時間か。
自分は、お昼のお金をもらっているし、「塾に行った」と言えば、言い訳もできる。光岡の家はそういう感じじゃなさそう、光岡に昼ご飯抜きはキツいだろうな。それに彼女がいないほうが、心配しない分だけ、ぼくのほうが身軽だ。
「じゃあ、一度帰ったほうがいいよ。どのくらいかかるかわからないし。光岡を危ない目にあわせたくない。あとからちゃんと報告するから」
光岡は自分で言ったのに、どこか不満そうだ。けれど、今回は引いてもらわなきゃ。
「わかった。絶対だよ。スマホある?」
光岡は半分納得しかねるけど、腹ペコには負けるという顔をした。そして、スマホを取り出し、無理やり連絡先を交換させられた。そして、「ご飯食べたら、すぐに戻ってくるから」と言い残し、光岡はダッシュして帰っていった。
◇ ◇
おしゃべりな光岡がいなくなって、ぽかんとした時間が生まれた。
らしくもないことをしている。そういう自覚はあった。
作文のこと、プラモのこと、いつもの自分ならスルーしてきたこと。だけど、行動することで何か変わりそうな感じ。その何かはわからないけど…。息がつまるこの世界が動き出しているような気がした。
同時に、佐伯は大丈夫なのだろうかという不安に変わった。どうすればいいんだろう。ぼくにできることはないのかな。友だちになって、話を聞いてあげる、とか…。そんな、らしくもないことを考え続けた。
◇ ◇
ガタン
半をまわった頃、佐伯家の玄関の扉が開いた。こういう時、視力がよいことに感謝。
けっこう離れていても、よく見える。隠れるようにすぐにマンションの裏にまわった。夏草のしめりけのあるにおいがぷんとした。足がむずがゆい。じっと観察していると、そのまま佐伯のお父さんは、すたすたと門をくぐって出ていった。
絶対に戻ってこない。そう自分に言い聞かせた。ぼく史上、最大級の勇気を出した。大きく息をして、ゆっくりと奥の家に向かった。そして、チャイムを押した。蚊に数か所刺されていた。かゆっ。
◇ ◇
チャイムを何回押しても、佐伯はなかなか出てくる様子がなかった。聞こえているのだろうか。ドアをガンガンたたいて、大声で「いるんだろ」と叫ぶと、中から動く気配がした。2~3分すると、がちゃっという音とともに、鉄の扉が開いた。玄関は、昼だというのにうす暗く、靴が散乱している。なんだかかびくさい。
「何?」
ぶっきらぼうな声がした。失礼な。親切な同級生が、かばんを持ってやってきたのに。
「これ」
とかばんを上げて、見せると、「ああ」と納得したようだった。
「学校に置いていっただろ。持ってきた」
「ありがとう」
と、かばんを受け取ってくれた。
何を言えばいいんだろう。一人になりたそうだ。かと言って、佐伯をそのままにしておくわけにはいかない、絶対に。そう思った。そこで、佐伯が罠にかかりそうな言葉をくり出すことにした。
「おなかすいていない? おごるよ」
今、佐伯と話をするなら、食い物で釣るのがたぶん一番早い。案の定、ひっかかった。
◇ ◇
「家にいたくない」と佐伯が言ったので、第2公園に行くことにした。
光岡には、LINEで『会えたけど、今は来ないでほしい』とだけ連絡した。
そして、公園の前にあるコンビニで、ツナマヨおにぎりとからあげを買った。手持ちが2000円ちょっとに減った。プラモ購入計画資金、さようなら。ここで使うのはもったいないことはわかってる。だけど、まあしょうがない。必要経費ってやつだ。
第2公園には、お昼だからだろうか、だれもいない。がらんとしていた。小さい頃と同じ風景だ。でも、あの頃とは違う。もう砂場でなんて遊べない。ちょっぴり大人になったんだ。戻れない。胸が少しきゅっとなった。
ペンキがはげかかっているベンチに二人で座った。
「おつかれ」
ツナマヨとからあげのおかげか、満たされた顔をしている佐伯に言った。
「別に」
「大丈夫?」
「何が?」
と、佐伯が答えた。
ぼくから目をそらした。ごまかしている。何も言う気はなさそうだ。父親から殴られているに違いない。言いたくないだろうな。わからないでもない。殴られたことはないけど、自分の気持ちを無視する母親がいる。程度の差はすごくあるけど、似ているような気がする。
「アザさ、柔道じゃないだろ」
「…違うよ。柔道だよ」
まだごまかす。けど、無理に言わせたくない。どうすればいい? 素直に言うか。
「どなり声が聞こえたよ」
佐伯はしばらく黙っていた。そして、首を横にふり、あきらめたようにため息をついた。
「聞こえたんだ。言うつもり…、なかったんだけどな」
「ごめん。助けられなかった。動けなかった」
「そんなの、わかってる。誰かに助けてもらおうなんて思ったことはないよ。親父をどうにかしようとしても、無理だから」
助けられなかったことなんて、気にもしていない。あきらめているんだ。
一緒だ。ぼくもあきらめている。ぼくが佐伯にできることってあるのかな。本当に何も出来ないヒリキな自分…。まず佐伯を理解することが大事かもしれない。
わかりあえるのかな。自分のことを話してみようか。気持ちをわかってもらっても、暴力から抜け出す手助けにはならない。自分勝手と思われるかもしれない。でも…自分も親に困ってる、つらいってことを知ってくれれば、同じだってわかってくれれば、何か変わるかもしれない。ここで言わなかったら、きっと後悔する。なんとなくそういう気がした。
「あのさ、自分の話をするね。ぼくと佐伯は似てるよ。暴力はないけど。親は、ぼくを好きじゃない。自分の成績やステイタスが好きなんだ。勉強させて、いい学校に入れれば、自慢できるって、そう思ってる。ぼくの意思なんて関係ないんだ」
一つずつ言葉にしてみる。
「…別に何もされてないだろ」
佐伯は、暴力を受けているから、そう言うんだ。目が怖い。殴られそうだ。
「そうだね。殴る、けるっていう暴力はね、ないよ。でも、自分の意見や気持ちは無視されているんだ。中学受験なんてしたくなかったけど、いつの間にか決まってたりしてた。『将来のため』っていう言葉で、都合よくねじまげられてさ。そういうの、ひどくね? 一種の暴力だよ。色々追い立てられて、疲れちゃった。だから、親のことを信じることができなくってさ。早く大人になって、家を出ることだけを楽しみなんだ」
わざと軽く言ってみる。佐伯は口を閉ざしたままだ。
「親って、勝手だよ。お前のためって言いながら、本当は自分のためなんだ。暴力も、強制も一緒。子どもの気持ちなんて、全然考えてない。子どもはヒリキなんだ」
佐伯は、まだ黙ったままだ。
自分と佐伯はレベルが違いすぎるのかも。言いたくないんだな。そう佐伯はひどい目にあってる。自分ごときが小さな悩みを言っても、佐伯には響かないのだろうな。ぼくは佐伯よりはマシなんだろう。でも、それでも、ぼくはぼくでつらい。それぞれ違うつらさをかかえているんだ。
「もう何も言わなくていいよ。佐伯だけじゃなく、親にひどいことをされてる人間は他にもいることだけは、わかってほしい」
佐伯が受けているのは、たぶんギャクタイっていうものだ。それを直接、「虐待を受けているだろう」と言うのは、佐伯にとっていいことなのかはわからない。だって、つらい出来事や気持ちを話すのって、めちゃくちゃ勇気がいる。ぼくだって、この話を他人にするつもりなんて、全然なかった。けど、佐伯と向き合うためには、言わなきゃいけないと思ったから…、言ったんだ。
佐伯は、ずっと空を見ながら、しばらくの間。黙っていた。何を考えているんだろう。
自分勝手かもしれないけど、自分のことを言えたし、あとはそっとしておこう。決めるのは佐伯自身だ。いつか話をしてくれるかもしれない。それまで待とう。そう思った。ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「帰るよ。自分の話だけして悪かったな。いつでもいいから、いつか話したくなったら話して。待ってる。味方だってことだけはわかってくれると、嬉しい」
これだけは言いたかった。今じゃなくていい。佐伯が言いたくなるまで、待とう。今はそれしかできない。
佐伯も、立ち上がった。何か言いたそうだ。だけど、ためらっている感じがした。
これ以上、佐伯の傷口をえぐりとるようなことはしたくない。自分だって、母親のことをどう話したらいいのかわからなかった。それと一緒だ。
すると、いきなり佐伯は、ぼくの腕をつかんだ。
「あのさ…」
佐伯は、何回かため息をついた。そして、また空を見上げ、深く息を吸った。
「おれの本当の夢を教えよっか」
本当の夢? 『将来の夢(仮)』の中で書いたダンサーではなく?
「本当の夢は、親父をやっつけて、殴られなくなることなんだ」
息をのんだ。えっ、やっつける? 人それが夢? そんな夢あるのか。怖い。瞬間的にそう思った。
ぼくもアレから自由になりたいってずっと思っている。だけど、やっつけたいなんて一度も考えたことはない。言葉が何も出てこない。
「そうしないと、いつか死んじゃうじゃないかなって思う」
佐伯はそうぽつりと言った。
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