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1章

8話--変化と恐怖--

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 カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、ちょうど顔のあたりをじりじりと温めてくる。
 瞼の裏がうっすら赤く染まる感覚で、なんとなく「朝だ」と理解し、重たいまぶたを持ち上げた。

 耳障りな目覚ましの音が鳴っていない。ということは、まだアラームの時間ではないのだろう。
 それでも、ぼんやりした頭で枕元の時計に視線を向けると、短針はきれいに「7」を指していた。

 右腕が動かない――と思ったが、すぐに理由が分かった。
 私の腕の上に、規則正しい寝息を立てている沙耶の頭が乗っているからだ。
 じんわりと痺れつつも、温かい重みが心地よい。

 休みの日ではあるが、起きるには悪くない時間だ。
 二度寝をする誘惑を振り払い、意識を浮上させることにする。

「おはよう、お姉ちゃん」

 腕の上の重みがもぞりと動き、視線を落とすと、沙耶が目だけこちらに向けていた。
 既に完全に覚醒しているらしい。

「おはよう、沙耶。何時から起きてたの?」

「……5時?」

 2時間も前から起きていたらしい。
 そんなに早く目を覚まして、一体何をしていたのか……と聞きたくなるが、朝の布団の中というのは、何もしていなくても平気で時間が溶けていく魔境だ。

 妙にスッキリした顔をしているのは、その2時間をだらだらと堪能していたおかげか、それとも別の理由があるのか。
 私は一度「寝る」と決めたら、多少の物音では起きない性質だ。回帰前は極限状態で寝ることが多く、些細な気配にも反応するよう鍛えられていたのだが……今のこの身体では、まだそこまで仕上がっていないらしい。

「相変わらず、お姉ちゃんは寝ると起きないよね」

「そう、だね……?」

 左腕にも沙耶の体温が残っていて、少しだけ汗ばむようなしっとりした感触がある。
 慣れない体勢で一晩寝たせいか、肩と腰にじんわりとした重さもあった。

 両腕を上に伸ばし、「くぁ」と間の抜けた声を漏らしながら大きく伸びをする。
 筋を伸ばして身体をほぐしていると、ようやく頭の中も完全に目覚めてきた。

 よし、朝ごはんの支度をしよう。

「朝ごはん食べよっか。軽めでいい?」

「うん! え、もしかして重めもあるの?」

 冷蔵庫の中身を頭の中で確認する。
 確か、営業成績トップだか何だかで表彰された時に貰った、やたらと高そうなステーキ肉が入っていたはずだ。

 一人で高級肉を焼いて食べるのは何となく勿体なくて、ずるずると今日まで寝かせてしまっている。
 朝から肉……食べれなくはないが、胃に優しいとは言い難い。念のため沙耶の意見も聞いておく。

「貰った高いステーキ肉ならあるけど……」

「朝から肉は食べれないかなぁ……」

「分かったー」

 同じ結論でひと安心だ。
 ベッドから離れると、沙耶は毛布を頭までかぶって、再びごろごろモードに入った。二度寝というほど深くは眠らないのだろうが、もう少しぬくぬくし続けるつもりらしい。

「ごはんできたら呼ぶから」

「はーい」

 寝室を後にしてドアを静かに閉める。
 クマの着ぐるみのような寝間着姿のままキッチンに向かい、トースターに食パンを入れた。

 冷蔵庫からベーコンのパックを取り出し、フライパンに並べて目玉焼きと一緒に焼く。
 昨夜のうちに作り置きしておいたサラダをタッパーから取り分け、皿に盛りつけてプチトマトを添える。

 煮物は昨晩きれいに消費してしまったので、代わりにソーセージでも茹でることにした。
 鍋に水を張り、IHコンロのスイッチを入れる。

 火、と言ってもガスではないから炎が見えるわけではない。
 しかし、鍋底からじわじわと伝わる熱で、確かに温度が上がっているのが分かる。

「湯が沸くまで何するかな……」

『魔力増加法を推奨します』

 唐突に頭の中に響いた無機質な声に、思わず肩がびくりと跳ねた。

 【全知】の存在をすっかり忘れかけていた。
 沙耶がそばにいる時は、青いメッセージウィンドウこそ出してきたものの、音声で話しかけてくることはなかったので、脳内が静かすぎて慣れてしまっていたのだ。

「ダンジョンが出現しないと地上に魔力は溢れないんじゃないのか?」

『微量ではありますが魔力の存在が確認できます』

「本当だ。昨日は感じなかったんだが……」

 意識を集中すると、空気の中にわずかに混ざる、見えない粒子の流れのようなものが肌を撫でる感覚があった。
 ダンジョン出現の「予兆」のようなものなのだろうか。

 魔力増加法――それは、体内に保持できる魔力の「器」を拡張するための訓練だ。

 自分から魔力が漏れ出さないように意識を強く保ちつつ、周囲に漂う魔力を吸い上げるようにして、腹のあたりに集め続ける。
 風船を限界まで膨らませる要領で、魔力の器をパンパンにし、許容量そのものを広げていく。

 特別な才能や技術が必要なわけではない。やるべきことはシンプルだ。
 ……ただし、序盤のうちは、どうしようもないほどの苦痛を伴う。

「……ったぁ」

 腹の奥から突き上げるような痛みに、思わず声が漏れる。

 分かりやすく例えるなら――股間を思い切り強打した衝撃が、腹部から全身にじわじわと波及してくるような感覚。
 対策を知らずにやれば、その場で気絶してもおかしくない。

 身構えていた分、倒れこむほどではなかったが、それでも額にじんわり汗がにじむ。

「あ、湯が沸いた」

 鍋蓋がカタカタと揺れている。
 気を逸らすようにソーセージを袋から取り出し、破裂しないよう表面に軽く切れ目を入れてから、沸騰した湯の中へ放り込んだ。

 食べ方は人それぞれだが、今日はケチャップとマスタードでシンプルにいこう。
 パンも焼き終わり、皿に移しておく。冷蔵庫からマーガリンを取り出してテーブルへ。

 私は何も塗らない派なので、マーガリンは沙耶用だ。
 すべての皿をテーブルに並べ終え、寝室に向かって声を上げる。

「沙耶ー」

「わかったー、今行くー」

 返事とともに、ばたばたと軽い足音が近付いてくる。
 数秒後、ふわふわの寝間着姿のまま、眠気の残る顔で沙耶が姿を見せた。

「いただきます」

「いただきまーす!」

 手を合わせてから、沙耶が元気よくパンにかじりつく。
 その姿を横目に、私もカリカリに焼けたベーコンと半熟気味の目玉焼きを一口。

 うん、おいしい。

 朝ごはんを食べるか食べないかで、一日のエンジンのかかり方が全然違う――回帰前から、身をもって知っていることだ。

 パンをもそもそと齧りながら、ふと、先ほどの魔力増加法の余韻が気になってきた。
 下腹部の奥に、じくじくとした違和感。痛みと言うほどではないが、気にすれば気になる程度の不快感。

「……ちょっとトイレ」

「んー」

 朝食の途中で席を立つと、沙耶はパンを頬張りながら適当な相槌を返してきた。
 特段気にしている様子はない。

 腹を下したときのような「キュルキュル」した感じとは全く違うが、嫌な予感だけはする。
 トイレに入り、クマのズボンを脱いで便座に腰掛ける。

 しばらくすると、何かが「どろり」と垂れ落ちた感覚があった。
 胸騒ぎがして、恐る恐る便器の中を覗き込む――そこには、予想以上に真っ赤な光景が広がっていた。

「――――――ッッッ!?」

 息が詰まり、喉がひゅっと鳴る。声にならない叫びが、胸の内で空回りした。

 ぜっ、【全知】! これは何だ!?

『回答します。魔力増加法の副次的な効果によって体が整いました』

「つまりどういうことだ……」

『不順であった月経が整いました。つまり生理です』

 頭の中で、該当する記憶を掘り返す。

 ――そうだ。この身体の「私」は、生理が非常に不定期だった。
 前回が来たのは四十二日前。仕事のストレスや生活習慣で、平気で数週間ずれ込むことがざらだ。

 そして何より、症状が重い。
 腹痛や倦怠感で動けなくなり、仕事を休むしかない日も多々あった。

 回帰前の男の身体では一度も感じたことのない類の痛みが、これから本格的に襲ってくる――そう思うと、朝から一気に憂鬱になった。

 とはいえ、今ここで落ち込んでいてもどうにもならない。
 トイレに常備しているナプキンを取り出し、下着に装着しようとして――そこで初歩的な問題に気付く。

 脱いだズボンの上に、それらしいものが見当たらない。

「あれ?」

 ……しまった。
 寝起きだったせいで、下着を付けずにそのままズボンを履いてきていた。

 このままトイレから出ようものなら、床まで真っ赤に染め上げる惨事になるのは目に見えている。
 仕方ない、プライドは一旦横に置いて、素直に助けを求めるしかない。

「沙耶ー……悪いんだけど私の下着持ってきてー……」

 ドアを少しだけ開け、顔だけ出して小声でお願いする。
 変に勘繰られないよう、表情はできるだけ真面目に。

 数分ほどで、廊下から足音が近付き、沙耶が私の下着を持って現れた。
 ドア越しに差し出されたそれを受け取った瞬間――。

「すんすん……来たんだね!」

「ひぇ……」

 思わず背筋が凍りついた。

 ホラー映画よりよほど実害のある恐怖だ。
 鼻を鳴らして匂いで察するな。怖いから。

 沙耶から受け取った下着に素早くナプキンを装着し、最低限の体勢を整える。

「沙耶……それ怖いからやめな……?」

「お姉ちゃん以外にはしないよ?!」

「それならいいんだけ……ど……? いや、よくないよ」

 勢いに押されて一瞬納得しかけたが、冷静に考えたら全然よくない。

 誰にでもやってはいけない。
 いや、誰にであっても、たぶんやってはいけない種類の行為だと思う。
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