12 / 30
第3章 崩壊の兆し
第12話 潮目
違和感を最初に口にしたのは、側近のルシアンだった。
年はアルノーより少し下で、伯爵家に仕えて長い。表立って意見することは少ないが、数字や人の動きの妙なずれにはよく気づく男でもある。そのルシアンが、夕刻の執務室で帳面を抱えたまま黙って立っていたので、アルノーは先に顔を上げた。
「何だ」
「北側倉庫の件でございます」
「またその話か」
「はい」
ルシアンはそれでも引かなかった。
執務室の窓の外は、もう薄暗い。昼のあいだに積み上がった書類が机の端へ寄せられ、そのぶんだけ中央の空きが広く見える。片づいているようで、実際にはそうでもない。その机の上へ、ルシアンは一冊の帳面を開いて置いた。
「昨日までの分をまとめました」
アルノーはざっと目を落とす。護衛の件、納入の見直し、契約の縮小。見たことばかりが並んでいる。
「分かっている」
「はい。ですが、問題は件数ではなく重なり方かと」
アルノーは眉をひそめる。
「何が言いたい」
ルシアンは帳面の一箇所を指先で押さえた。
「本来なら別々に起きる種類の話が、同じ時期にまとまって表へ出ております。倉庫、護衛、贈答、招待状の遅れ」
一度、言葉を切る。
「ひとつずつなら処理できますが、いまは、どれも同じ先で止まっているように見えます」
アルノーは指先で机を叩いた。
「偶然だろう」
「そうであればよろしいのですが」
その返し方が少しだけ気に障る。否定しているわけではない。だが、同意もしていない。
アルノーは椅子の背にもたれた。
「大げさだな。少し話が滞っているだけだ」
「滞っているだけ、というには」
ルシアンはそこで口を閉じた。言い過ぎる気はないらしい。けれど、その先を飲み込んだ感じだけは残る。
執務室に短い沈黙が落ちる。
アルノーはその空気を切るように、別の書類へ手を伸ばした。
「商会も招待も、どうせ春の入りで動きが鈍いだけだ。エリシアがいないから何もかも止まる、とでも言いたいのか」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「そこまでは申しません」
「ならいい」
言い切ってから、自分の声が少し強かったことに気づく。だが、訂正するほどでもない。
ルシアンは視線を落とし、帳面を閉じた。
「ただ、奥様が扱っておられたものは、数字として見えにくいぶん、抜けたときに遅れて出ることがございます」
アルノーは何も言わない。
そのまましばらく、机の上の書類へ視線を落とした。
「……もういい。下がれ」
ルシアンは一礼して執務室を出る。その背が扉の向こうへ消えても、最後の一言だけが妙に残った。
見えにくいものは、抜けたときに遅れて出る。
その日の夜、アルノーは珍しく夕食を自室ではなく、小食堂で取った。大食堂を使うほどではないし、一人で済ませるにはちょうどいい広さだ。以前ならエリシアが向かいに座っていた席は、今は当然空いている。
空いていること自体は不思議でもない。なのに、目をやるたびに少しだけ引っかかる。
給仕に当たっていた年配の使用人が、スープを置く手をほんのわずかに鈍らせた。
アルノーはその動きを見たが、何も言わない。向こうもすぐにいつもの調子へ戻る。
食事を終えて立ち上がると、廊下の先で若い使用人たちの声が一瞬だけ聞こえた。こちらの気配に気づいたのか、すぐに散る。珍しくもない光景のはずなのに、その“散り方”が妙に目につく。
自室へ戻る途中、アルノーはふとエリシアの部屋の前で足を止めた。
扉は閉じられている。灯りもない。中へ入る理由はないし、入るつもりもなかった。それでも視線だけが、しばらく扉板の上に残る。
数日留守にしているだけだ。
そう思いながら通り過ぎる。
翌朝、執務室へ入ると、机の上にはすでに書状がいくつか届いていた。ベルナールが控えている。
「ハーグレン侯爵家ですが」
アルノーは先にその名に反応した。
「招待は来たのか」
「いえ。確認したところ、先方はすでに最初の顔合わせを終えられたとのことです」
アルノーは顔を上げる。
「終えた?」
「はい。内輪の小さな集まりとして、数日前に」
「こちらには何も」
「ございませんでした」
ベルナールの声は穏やかなままだった。
アルノーは書状に手を伸ばしかけて、止める。
ハーグレン侯爵家といえば、家格も立場も軽くない。そこから最初の顔合わせの知らせが来ず、しかももう終わっている。偶然の行き違いで片づけるには、少し収まりが悪い。
「先方は何と」
「奥様にご不在が続いていたため、こちらのご都合を見かねて、とのことです」
その言い方が、かえって引っかかる。
アルノーは小さく息をついた。
「……結構だ」
ベルナールはそれ以上続けない。
午前のあいだ、ルシアンの言った“重なり方”という言葉が何度か頭をよぎった。招待が来ない。護衛が揃わない。贈答の流れが鈍い。どれも単独なら大したことではない。
だが、紙の上に並べると、同じところで止まっている。
昼近くになって、軍務局からの返事が届く。内容は簡潔だった。春先の人員は動かせない。外部警護への割り当てもこれ以上は難しい。
アルノーは紙を見ながら言う。
「今までは、こんなに渋られなかったはずだ」
ベルナールは少しだけ間を置いて答えた。
「奥様が前もって話を通しておられたことも、多かったかと」
アルノーは何も言わず、紙を机へ置いた。
夕方、ルシアンが再び帳面を持って現れた。今度は報告だけで済ませるつもりらしく、言葉は短い。
「倉庫へ入る荷の追加分ですが、別の預かり先へ回る見込みが増えました」
「何割だ」
「いまのところ三割ほどです」
前日の二割から増えている。
アルノーは帳面を受け取らずに言った。
「元へ戻せ」
「戻せる見込みがあれば、すでに動いております」
口調はあくまで平坦だった。
「お前まで大げさだな」
アルノーが言うと、ルシアンはわずかに目を上げた。
「大げさであれば、それがいちばん良いのですが」
ルシアンが去ったあと、アルノーはしばらく一人で執務室に残った。燭台に火が入り、机の端に影が落ちる。
引き出しから小さな帳面を取り出し、何気なく開く。
整った文字で、家名と短い覚え書きが並んでいる。
ハーグレン侯爵家――療養明けにつき、最初の挨拶は控えめに。ただし遅らせすぎないこと。
シュトラール子爵家――春の最初の茶会。
ソルフェール男爵家――先に礼を通すこと。
どれも短い。
アルノーはしばらく頁を見ていたが、やがて閉じた。
執務室の外で、足音がひとつ遠ざかっていく。
その音が消えても、しばらく耳に残っていた。
年はアルノーより少し下で、伯爵家に仕えて長い。表立って意見することは少ないが、数字や人の動きの妙なずれにはよく気づく男でもある。そのルシアンが、夕刻の執務室で帳面を抱えたまま黙って立っていたので、アルノーは先に顔を上げた。
「何だ」
「北側倉庫の件でございます」
「またその話か」
「はい」
ルシアンはそれでも引かなかった。
執務室の窓の外は、もう薄暗い。昼のあいだに積み上がった書類が机の端へ寄せられ、そのぶんだけ中央の空きが広く見える。片づいているようで、実際にはそうでもない。その机の上へ、ルシアンは一冊の帳面を開いて置いた。
「昨日までの分をまとめました」
アルノーはざっと目を落とす。護衛の件、納入の見直し、契約の縮小。見たことばかりが並んでいる。
「分かっている」
「はい。ですが、問題は件数ではなく重なり方かと」
アルノーは眉をひそめる。
「何が言いたい」
ルシアンは帳面の一箇所を指先で押さえた。
「本来なら別々に起きる種類の話が、同じ時期にまとまって表へ出ております。倉庫、護衛、贈答、招待状の遅れ」
一度、言葉を切る。
「ひとつずつなら処理できますが、いまは、どれも同じ先で止まっているように見えます」
アルノーは指先で机を叩いた。
「偶然だろう」
「そうであればよろしいのですが」
その返し方が少しだけ気に障る。否定しているわけではない。だが、同意もしていない。
アルノーは椅子の背にもたれた。
「大げさだな。少し話が滞っているだけだ」
「滞っているだけ、というには」
ルシアンはそこで口を閉じた。言い過ぎる気はないらしい。けれど、その先を飲み込んだ感じだけは残る。
執務室に短い沈黙が落ちる。
アルノーはその空気を切るように、別の書類へ手を伸ばした。
「商会も招待も、どうせ春の入りで動きが鈍いだけだ。エリシアがいないから何もかも止まる、とでも言いたいのか」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「そこまでは申しません」
「ならいい」
言い切ってから、自分の声が少し強かったことに気づく。だが、訂正するほどでもない。
ルシアンは視線を落とし、帳面を閉じた。
「ただ、奥様が扱っておられたものは、数字として見えにくいぶん、抜けたときに遅れて出ることがございます」
アルノーは何も言わない。
そのまましばらく、机の上の書類へ視線を落とした。
「……もういい。下がれ」
ルシアンは一礼して執務室を出る。その背が扉の向こうへ消えても、最後の一言だけが妙に残った。
見えにくいものは、抜けたときに遅れて出る。
その日の夜、アルノーは珍しく夕食を自室ではなく、小食堂で取った。大食堂を使うほどではないし、一人で済ませるにはちょうどいい広さだ。以前ならエリシアが向かいに座っていた席は、今は当然空いている。
空いていること自体は不思議でもない。なのに、目をやるたびに少しだけ引っかかる。
給仕に当たっていた年配の使用人が、スープを置く手をほんのわずかに鈍らせた。
アルノーはその動きを見たが、何も言わない。向こうもすぐにいつもの調子へ戻る。
食事を終えて立ち上がると、廊下の先で若い使用人たちの声が一瞬だけ聞こえた。こちらの気配に気づいたのか、すぐに散る。珍しくもない光景のはずなのに、その“散り方”が妙に目につく。
自室へ戻る途中、アルノーはふとエリシアの部屋の前で足を止めた。
扉は閉じられている。灯りもない。中へ入る理由はないし、入るつもりもなかった。それでも視線だけが、しばらく扉板の上に残る。
数日留守にしているだけだ。
そう思いながら通り過ぎる。
翌朝、執務室へ入ると、机の上にはすでに書状がいくつか届いていた。ベルナールが控えている。
「ハーグレン侯爵家ですが」
アルノーは先にその名に反応した。
「招待は来たのか」
「いえ。確認したところ、先方はすでに最初の顔合わせを終えられたとのことです」
アルノーは顔を上げる。
「終えた?」
「はい。内輪の小さな集まりとして、数日前に」
「こちらには何も」
「ございませんでした」
ベルナールの声は穏やかなままだった。
アルノーは書状に手を伸ばしかけて、止める。
ハーグレン侯爵家といえば、家格も立場も軽くない。そこから最初の顔合わせの知らせが来ず、しかももう終わっている。偶然の行き違いで片づけるには、少し収まりが悪い。
「先方は何と」
「奥様にご不在が続いていたため、こちらのご都合を見かねて、とのことです」
その言い方が、かえって引っかかる。
アルノーは小さく息をついた。
「……結構だ」
ベルナールはそれ以上続けない。
午前のあいだ、ルシアンの言った“重なり方”という言葉が何度か頭をよぎった。招待が来ない。護衛が揃わない。贈答の流れが鈍い。どれも単独なら大したことではない。
だが、紙の上に並べると、同じところで止まっている。
昼近くになって、軍務局からの返事が届く。内容は簡潔だった。春先の人員は動かせない。外部警護への割り当てもこれ以上は難しい。
アルノーは紙を見ながら言う。
「今までは、こんなに渋られなかったはずだ」
ベルナールは少しだけ間を置いて答えた。
「奥様が前もって話を通しておられたことも、多かったかと」
アルノーは何も言わず、紙を机へ置いた。
夕方、ルシアンが再び帳面を持って現れた。今度は報告だけで済ませるつもりらしく、言葉は短い。
「倉庫へ入る荷の追加分ですが、別の預かり先へ回る見込みが増えました」
「何割だ」
「いまのところ三割ほどです」
前日の二割から増えている。
アルノーは帳面を受け取らずに言った。
「元へ戻せ」
「戻せる見込みがあれば、すでに動いております」
口調はあくまで平坦だった。
「お前まで大げさだな」
アルノーが言うと、ルシアンはわずかに目を上げた。
「大げさであれば、それがいちばん良いのですが」
ルシアンが去ったあと、アルノーはしばらく一人で執務室に残った。燭台に火が入り、机の端に影が落ちる。
引き出しから小さな帳面を取り出し、何気なく開く。
整った文字で、家名と短い覚え書きが並んでいる。
ハーグレン侯爵家――療養明けにつき、最初の挨拶は控えめに。ただし遅らせすぎないこと。
シュトラール子爵家――春の最初の茶会。
ソルフェール男爵家――先に礼を通すこと。
どれも短い。
アルノーはしばらく頁を見ていたが、やがて閉じた。
執務室の外で、足音がひとつ遠ざかっていく。
その音が消えても、しばらく耳に残っていた。
あなたにおすすめの小説
〈完結〉ここは私のお家です。出て行くのはそちらでしょう。
江戸川ばた散歩
恋愛
「私」マニュレット・マゴベイド男爵令嬢は、男爵家の婿である父から追い出される。
そもそも男爵の娘であった母の婿であった父は結婚後ほとんど寄りつかず、愛人のもとに行っており、マニュレットと同じ歳のアリシアという娘を儲けていた。
母の死後、屋根裏部屋に住まわされ、使用人の暮らしを余儀なくされていたマニュレット。
アリシアの社交界デビューのためのドレスの仕上げで起こった事故をきっかけに、責任を押しつけられ、ついに父親から家を追い出される。
だがそれが、この「館」を母親から受け継いだマニュレットの反逆のはじまりだった。
幼馴染が熱を出した? どうせいつもの仮病でしょう?【完結】
小平ニコ
恋愛
「パメラが熱を出したから、今日は約束の場所に行けなくなった。今度埋め合わせするから許してくれ」
ジョセフはそう言って、婚約者である私とのデートをキャンセルした。……いったいこれで、何度目のドタキャンだろう。彼はいつも、体の弱い幼馴染――パメラを優先し、私をないがしろにする。『埋め合わせするから』というのも、口だけだ。
きっと私のことを、適当に謝っておけば何でも許してくれる、甘い女だと思っているのだろう。
いい加減うんざりした私は、ジョセフとの婚約関係を終わらせることにした。パメラは嬉しそうに笑っていたが、ジョセフは大いにショックを受けている。……それはそうでしょうね。私のお父様からの援助がなければ、ジョセフの家は、貴族らしい、ぜいたくな暮らしを続けることはできないのだから。
今さら救いの手とかいらないのですが……
カレイ
恋愛
侯爵令嬢オデットは学園の嫌われ者である。
それもこれも、子爵令嬢シェリーシアに罪をなすりつけられ、公衆の面前で婚約破棄を突きつけられたせい。
オデットは信じてくれる友人のお陰で、揶揄されながらもそれなりに楽しい生活を送っていたが……
「そろそろ許してあげても良いですっ」
「あ、結構です」
伸ばされた手をオデットは払い除ける。
許さなくて良いので金輪際関わってこないで下さいと付け加えて。
※全19話の短編です。
【完結】よりを戻したいですって? ごめんなさい、そんなつもりはありません
ノエル
恋愛
ある日、サイラス宛に同級生より手紙が届く。中には、婚約破棄の原因となった事件の驚くべき真相が書かれていた。
かつて侯爵令嬢アナスタシアは、誠実に婚約者サイラスを愛していた。だが、サイラスは男爵令嬢ユリアに心を移していた、
卒業パーティーの夜、ユリアに無実の罪を着せられてしまったアナスタシア。怒ったサイラスに婚約破棄されてしまう。
ユリアの主張を疑いもせず受け入れ、アナスタシアを糾弾したサイラス。
後で真実を知ったからと言って、今さら現れて「結婚しよう」と言われても、答えは一つ。
「 ごめんなさい、そんなつもりはありません」
アナスタシアは失った名誉も、未来も、自分の手で取り戻す。一方サイラスは……。
“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。
あめとおと
恋愛
婚約者である王子から、静かに告げられた言葉。
――「君は、もう必要ない」
感情をぶつけることもなく、彼女はただ頷いた。
すべては、予定通りだったから。
彼女が選んだのは、“自分の記憶を世界から消す魔法”。
代償は、自身という存在そのもの。
名前も、記憶も、誰の心にも残らない。
まるで最初からいなかったかのように。
そして彼女は、消えた。
残された人々は、何かが欠けていることに気づく。
埋まらない違和感、回らない日常。
それでも――誰一人、思い出せない。
遅すぎた後悔と、届かない想い。
すべてを失って、ようやく知る。
“いらない存在”など、どこにもいなかったのだと。
これは、ひとりの少女が消えたあとに、
世界がその価値に気づく物語。
そして――彼女だけが、静かに救われる物語。
私に婚約者がいたらしい
来栖りんご
恋愛
学園に通っている公爵家令嬢のアリスは親友であるソフィアと話をしていた。ソフィアが言うには私に婚約者がいると言う。しかし私には婚約者がいる覚えがないのだが…。遂に婚約者と屋敷での生活が始まったが私に回復魔法が使えることが発覚し、トラブルに巻き込まれていく。
婚約は破棄なんですよね?
もるだ
恋愛
義理の妹ティナはナターシャの婚約者にいじめられていたと嘘をつき、信じた婚約者に婚約破棄を言い渡される。昔からナターシャをいじめて物を奪っていたのはティナなのに、得意の演技でナターシャを悪者に仕立て上げてきた。我慢の限界を迎えたナターシャは、ティナにされたように濡れ衣を着せかえす!