「代わりはいくらでもいる」と言われたので、私は消えました。——お茶会ばかりしていた私が何をしていたのか、ご存じないようで

藤原遊

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第3章 崩壊の兆し

第12話 潮目

違和感を最初に口にしたのは、側近のルシアンだった。

年はアルノーより少し下で、伯爵家に仕えて長い。表立って意見することは少ないが、数字や人の動きの妙なずれにはよく気づく男でもある。そのルシアンが、夕刻の執務室で帳面を抱えたまま黙って立っていたので、アルノーは先に顔を上げた。

「何だ」

「北側倉庫の件でございます」

「またその話か」

「はい」

ルシアンはそれでも引かなかった。

執務室の窓の外は、もう薄暗い。昼のあいだに積み上がった書類が机の端へ寄せられ、そのぶんだけ中央の空きが広く見える。片づいているようで、実際にはそうでもない。その机の上へ、ルシアンは一冊の帳面を開いて置いた。

「昨日までの分をまとめました」

アルノーはざっと目を落とす。護衛の件、納入の見直し、契約の縮小。見たことばかりが並んでいる。

「分かっている」

「はい。ですが、問題は件数ではなく重なり方かと」

アルノーは眉をひそめる。

「何が言いたい」

ルシアンは帳面の一箇所を指先で押さえた。

「本来なら別々に起きる種類の話が、同じ時期にまとまって表へ出ております。倉庫、護衛、贈答、招待状の遅れ」

一度、言葉を切る。

「ひとつずつなら処理できますが、いまは、どれも同じ先で止まっているように見えます」

アルノーは指先で机を叩いた。

「偶然だろう」

「そうであればよろしいのですが」

その返し方が少しだけ気に障る。否定しているわけではない。だが、同意もしていない。

アルノーは椅子の背にもたれた。

「大げさだな。少し話が滞っているだけだ」

「滞っているだけ、というには」

ルシアンはそこで口を閉じた。言い過ぎる気はないらしい。けれど、その先を飲み込んだ感じだけは残る。

執務室に短い沈黙が落ちる。

アルノーはその空気を切るように、別の書類へ手を伸ばした。

「商会も招待も、どうせ春の入りで動きが鈍いだけだ。エリシアがいないから何もかも止まる、とでも言いたいのか」

ルシアンはすぐには答えなかった。

「そこまでは申しません」

「ならいい」

言い切ってから、自分の声が少し強かったことに気づく。だが、訂正するほどでもない。

ルシアンは視線を落とし、帳面を閉じた。

「ただ、奥様が扱っておられたものは、数字として見えにくいぶん、抜けたときに遅れて出ることがございます」

アルノーは何も言わない。

そのまましばらく、机の上の書類へ視線を落とした。

「……もういい。下がれ」

ルシアンは一礼して執務室を出る。その背が扉の向こうへ消えても、最後の一言だけが妙に残った。

見えにくいものは、抜けたときに遅れて出る。

その日の夜、アルノーは珍しく夕食を自室ではなく、小食堂で取った。大食堂を使うほどではないし、一人で済ませるにはちょうどいい広さだ。以前ならエリシアが向かいに座っていた席は、今は当然空いている。

空いていること自体は不思議でもない。なのに、目をやるたびに少しだけ引っかかる。

給仕に当たっていた年配の使用人が、スープを置く手をほんのわずかに鈍らせた。

アルノーはその動きを見たが、何も言わない。向こうもすぐにいつもの調子へ戻る。

食事を終えて立ち上がると、廊下の先で若い使用人たちの声が一瞬だけ聞こえた。こちらの気配に気づいたのか、すぐに散る。珍しくもない光景のはずなのに、その“散り方”が妙に目につく。

自室へ戻る途中、アルノーはふとエリシアの部屋の前で足を止めた。

扉は閉じられている。灯りもない。中へ入る理由はないし、入るつもりもなかった。それでも視線だけが、しばらく扉板の上に残る。

数日留守にしているだけだ。

そう思いながら通り過ぎる。

翌朝、執務室へ入ると、机の上にはすでに書状がいくつか届いていた。ベルナールが控えている。

「ハーグレン侯爵家ですが」

アルノーは先にその名に反応した。

「招待は来たのか」

「いえ。確認したところ、先方はすでに最初の顔合わせを終えられたとのことです」

アルノーは顔を上げる。

「終えた?」

「はい。内輪の小さな集まりとして、数日前に」

「こちらには何も」

「ございませんでした」

ベルナールの声は穏やかなままだった。

アルノーは書状に手を伸ばしかけて、止める。

ハーグレン侯爵家といえば、家格も立場も軽くない。そこから最初の顔合わせの知らせが来ず、しかももう終わっている。偶然の行き違いで片づけるには、少し収まりが悪い。

「先方は何と」

「奥様にご不在が続いていたため、こちらのご都合を見かねて、とのことです」

その言い方が、かえって引っかかる。

アルノーは小さく息をついた。

「……結構だ」

ベルナールはそれ以上続けない。

午前のあいだ、ルシアンの言った“重なり方”という言葉が何度か頭をよぎった。招待が来ない。護衛が揃わない。贈答の流れが鈍い。どれも単独なら大したことではない。

だが、紙の上に並べると、同じところで止まっている。

昼近くになって、軍務局からの返事が届く。内容は簡潔だった。春先の人員は動かせない。外部警護への割り当てもこれ以上は難しい。

アルノーは紙を見ながら言う。

「今までは、こんなに渋られなかったはずだ」

ベルナールは少しだけ間を置いて答えた。

「奥様が前もって話を通しておられたことも、多かったかと」

アルノーは何も言わず、紙を机へ置いた。

夕方、ルシアンが再び帳面を持って現れた。今度は報告だけで済ませるつもりらしく、言葉は短い。

「倉庫へ入る荷の追加分ですが、別の預かり先へ回る見込みが増えました」

「何割だ」

「いまのところ三割ほどです」

前日の二割から増えている。

アルノーは帳面を受け取らずに言った。

「元へ戻せ」

「戻せる見込みがあれば、すでに動いております」

口調はあくまで平坦だった。

「お前まで大げさだな」

アルノーが言うと、ルシアンはわずかに目を上げた。

「大げさであれば、それがいちばん良いのですが」

ルシアンが去ったあと、アルノーはしばらく一人で執務室に残った。燭台に火が入り、机の端に影が落ちる。

引き出しから小さな帳面を取り出し、何気なく開く。

整った文字で、家名と短い覚え書きが並んでいる。

ハーグレン侯爵家――療養明けにつき、最初の挨拶は控えめに。ただし遅らせすぎないこと。
シュトラール子爵家――春の最初の茶会。
ソルフェール男爵家――先に礼を通すこと。

どれも短い。

アルノーはしばらく頁を見ていたが、やがて閉じた。

執務室の外で、足音がひとつ遠ざかっていく。
その音が消えても、しばらく耳に残っていた。
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