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第3章 崩壊の兆し
第13話 綻び
最初は、ほんの小さなことだった。
朝食の席に出るはずの果物が届いていなかったり、客間の花の入れ替えが一日遅れたり、返事を急ぐほどではない書状が机の端に二通重なったままになっていたりする。どれも、それだけなら咎めるほどではない。忙しい時期なら、よくある範囲だ。
けれど、それが三つ、四つと重なると、少しずつ目につくようになる。
その朝、アルノーは小食堂へ入って、いつもと違う卓上の並びにすぐ気づいた。パン籠の位置がずれている。温めたはずの皿が少し冷めている。給仕の手も乱れているわけではないのに、どこか噛み合っていない。
「果物は」
アルノーが言うと、給仕の使用人が一瞬だけ動きを止めた。
「申し訳ございません、まだ」
「まだ?」
「すぐにお持ちします」
声は丁寧だったが、その“すぐ”がわずかに遅い。少し待てば運ばれてくる。それだけのことだが、最近はその“少し”が重なる。
食事のあと執務室へ戻ると、会計係が帳面を抱えて立っていた。
「昨日の追加分でございます」
「またか」
アルノーは席についたまま手を出す。
帳面には、北側倉庫へ入る予定だった荷の一部が、別経路へ回ったという記録が並んでいる。前日の三割から、さらに少し増えていた。
「どこが回した」
「サンデル商会と、東門側の仲買が二件です」
「戻せないのか」
会計係は目を落とした。
「打診はしておりますが、今のところ」
「今のところ、ばかりだな」
責めるというより、呆れに近い声だった。会計係も言い返さず、帳面の端を押さえたまま立っている。
アルノーは紙を戻した。
「ほかは」
「細かな支払いがいくつか滞っております」
「滞っている?」
「確定待ちのまま、判が入っていないものが」
アルノーは机の端を見る。見慣れない束がひとつ置かれていた。昨日の夜にはなかった気もするが、はっきりとは思い出せない。
「なぜ今まで黙っていた」
「昨日の分までは、一覧で順に処理できるかと……」
そこまで言って、会計係は口を閉じた。
アルノーは書類の束を引き寄せる。支払い自体は大した額ではない。だが、小さいものほど遅れると面倒になる。
「次からは、先に上げろ」
「承知いたしました」
会計係が下がる。
扉が閉まったあと、アルノーは判の必要な書類を一枚ずつ見ていった。花代、果実の納入、客間の布の洗い替え、宿場への返礼品。どれも細かい。ひとつひとつに相手がいる。
昼前、案内係がやって来た。
「旦那様、本日の来客についてですが」
「何だ」
「王都西区のリュメル夫人が、挨拶にと使いを寄こしておりました」
「使いだけか」
「はい。お品だけ置いて帰られました」
アルノーは顔を上げる。
「で、返礼は」
案内係は少し言いにくそうにした。
「例年は、その日のうちに決めておられたようなのですが……」
アルノーは息を吐いた。
「まだ決まっていないのか」
「候補はございます。ただ、どれを優先するかが」
言いながら、案内係の視線が机の端へ落ちる。
アルノーは手を伸ばし、帳面を開く。
リュメル夫人――挨拶のみなら返礼は軽め、ただし早く。娘の婚約の話が動いているため、祝いに見えすぎないこと。
そこまで読んで、閉じる。
「軽めの返礼を今日のうちに出せ」
「何を」
「祝いに見えないものだ」
案内係は一瞬だけ迷ったが、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました」
午後になると、執務室の前で小さな揉め声がした。ベルナールがすぐに収め、入ってきたのは納入係と侍女頭だった。
「何だ」
ベルナールが一歩前へ出る。
「花の入れ替えと、午後の来客用の茶器の件で行き違いがございました」
アルノーは眉間を押さえる。
「そんなことを私のところへ持ってくるな」
「本来なら、そのようなことではないのですが」
侍女頭が続ける。
「春先は、客ごとに花や茶器の組み合わせを先に決めておりましたので」
アルノーは目を閉じかけて、やめた。
「適当に合わせればいいだろう」
侍女頭は頭を下げたまま答える。
「それが、難しゅうございます」
言い訳ではなかった。ただの事実として言っている。
「……ベルナール、まとめろ」
「承知いたしました」
二人が下がる。
扉の向こうでは、まだ細かな足音が続いていた。誰かが急ぎ、誰かが呼び止められ、誰かが待っている。普段と同じはずの音が、今日はやけに散らかって聞こえる。
夕方近く、ルシアンが入ってくる。帳面ではなく、一枚の紙だけを持っていた。
「今朝お話しした細かな滞りですが、三件増えました」
「何の」
「返礼二件と、納入確認一件です」
「それだけか」
「はい。ただ、誰も止めておりません」
アルノーは顔を上げた。
「どういう意味だ」
ルシアンは紙を差し出す。
「今までは、途中で拾われていたようです。大きくなる前に」
アルノーは紙を受け取る。並んでいるのはどれも小さな用件だった。
「誰かが処理しろ」
「しております」
ルシアンの声は平坦だった。
「ただ、先に手を入れる者がいないだけです」
その言葉だけが残る。
夜になるころには、机の上の書類は朝の倍になっていた。ひとつひとつは片づけられる。だが、片づけても、どこかでまた増えている気がする。
最後の判を押し、封を閉じさせ、椅子にもたれたとき、控えめなノックが入る。
入ってきたのは、厨房付きの若い使用人だった。
「何だ」
「申し訳ございません。明日の朝食の果物ですが、納入が遅れると」
アルノーはしばらく言葉を失った。
果物だ。そんなことまで執務室へ上がってくるのかと思い、それから、ここまで誰も止められなかったのかと気づく。
「代わりを探せ」
「はい。ただ」
「まだあるのか」
「どちらを優先するかが……」
アルノーは手で下がれと示した。
扉が閉まると、静けさがかえって耳につく。
机の端に、小さな帳面がある。手に取る気にはなれず、そのまま視線だけが残る。
屋敷はまだ回っている。止まったわけではない。
けれど、誰も拾わなくなった小さなほころびが、あちこちで目に見え始めていた。
朝食の席に出るはずの果物が届いていなかったり、客間の花の入れ替えが一日遅れたり、返事を急ぐほどではない書状が机の端に二通重なったままになっていたりする。どれも、それだけなら咎めるほどではない。忙しい時期なら、よくある範囲だ。
けれど、それが三つ、四つと重なると、少しずつ目につくようになる。
その朝、アルノーは小食堂へ入って、いつもと違う卓上の並びにすぐ気づいた。パン籠の位置がずれている。温めたはずの皿が少し冷めている。給仕の手も乱れているわけではないのに、どこか噛み合っていない。
「果物は」
アルノーが言うと、給仕の使用人が一瞬だけ動きを止めた。
「申し訳ございません、まだ」
「まだ?」
「すぐにお持ちします」
声は丁寧だったが、その“すぐ”がわずかに遅い。少し待てば運ばれてくる。それだけのことだが、最近はその“少し”が重なる。
食事のあと執務室へ戻ると、会計係が帳面を抱えて立っていた。
「昨日の追加分でございます」
「またか」
アルノーは席についたまま手を出す。
帳面には、北側倉庫へ入る予定だった荷の一部が、別経路へ回ったという記録が並んでいる。前日の三割から、さらに少し増えていた。
「どこが回した」
「サンデル商会と、東門側の仲買が二件です」
「戻せないのか」
会計係は目を落とした。
「打診はしておりますが、今のところ」
「今のところ、ばかりだな」
責めるというより、呆れに近い声だった。会計係も言い返さず、帳面の端を押さえたまま立っている。
アルノーは紙を戻した。
「ほかは」
「細かな支払いがいくつか滞っております」
「滞っている?」
「確定待ちのまま、判が入っていないものが」
アルノーは机の端を見る。見慣れない束がひとつ置かれていた。昨日の夜にはなかった気もするが、はっきりとは思い出せない。
「なぜ今まで黙っていた」
「昨日の分までは、一覧で順に処理できるかと……」
そこまで言って、会計係は口を閉じた。
アルノーは書類の束を引き寄せる。支払い自体は大した額ではない。だが、小さいものほど遅れると面倒になる。
「次からは、先に上げろ」
「承知いたしました」
会計係が下がる。
扉が閉まったあと、アルノーは判の必要な書類を一枚ずつ見ていった。花代、果実の納入、客間の布の洗い替え、宿場への返礼品。どれも細かい。ひとつひとつに相手がいる。
昼前、案内係がやって来た。
「旦那様、本日の来客についてですが」
「何だ」
「王都西区のリュメル夫人が、挨拶にと使いを寄こしておりました」
「使いだけか」
「はい。お品だけ置いて帰られました」
アルノーは顔を上げる。
「で、返礼は」
案内係は少し言いにくそうにした。
「例年は、その日のうちに決めておられたようなのですが……」
アルノーは息を吐いた。
「まだ決まっていないのか」
「候補はございます。ただ、どれを優先するかが」
言いながら、案内係の視線が机の端へ落ちる。
アルノーは手を伸ばし、帳面を開く。
リュメル夫人――挨拶のみなら返礼は軽め、ただし早く。娘の婚約の話が動いているため、祝いに見えすぎないこと。
そこまで読んで、閉じる。
「軽めの返礼を今日のうちに出せ」
「何を」
「祝いに見えないものだ」
案内係は一瞬だけ迷ったが、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました」
午後になると、執務室の前で小さな揉め声がした。ベルナールがすぐに収め、入ってきたのは納入係と侍女頭だった。
「何だ」
ベルナールが一歩前へ出る。
「花の入れ替えと、午後の来客用の茶器の件で行き違いがございました」
アルノーは眉間を押さえる。
「そんなことを私のところへ持ってくるな」
「本来なら、そのようなことではないのですが」
侍女頭が続ける。
「春先は、客ごとに花や茶器の組み合わせを先に決めておりましたので」
アルノーは目を閉じかけて、やめた。
「適当に合わせればいいだろう」
侍女頭は頭を下げたまま答える。
「それが、難しゅうございます」
言い訳ではなかった。ただの事実として言っている。
「……ベルナール、まとめろ」
「承知いたしました」
二人が下がる。
扉の向こうでは、まだ細かな足音が続いていた。誰かが急ぎ、誰かが呼び止められ、誰かが待っている。普段と同じはずの音が、今日はやけに散らかって聞こえる。
夕方近く、ルシアンが入ってくる。帳面ではなく、一枚の紙だけを持っていた。
「今朝お話しした細かな滞りですが、三件増えました」
「何の」
「返礼二件と、納入確認一件です」
「それだけか」
「はい。ただ、誰も止めておりません」
アルノーは顔を上げた。
「どういう意味だ」
ルシアンは紙を差し出す。
「今までは、途中で拾われていたようです。大きくなる前に」
アルノーは紙を受け取る。並んでいるのはどれも小さな用件だった。
「誰かが処理しろ」
「しております」
ルシアンの声は平坦だった。
「ただ、先に手を入れる者がいないだけです」
その言葉だけが残る。
夜になるころには、机の上の書類は朝の倍になっていた。ひとつひとつは片づけられる。だが、片づけても、どこかでまた増えている気がする。
最後の判を押し、封を閉じさせ、椅子にもたれたとき、控えめなノックが入る。
入ってきたのは、厨房付きの若い使用人だった。
「何だ」
「申し訳ございません。明日の朝食の果物ですが、納入が遅れると」
アルノーはしばらく言葉を失った。
果物だ。そんなことまで執務室へ上がってくるのかと思い、それから、ここまで誰も止められなかったのかと気づく。
「代わりを探せ」
「はい。ただ」
「まだあるのか」
「どちらを優先するかが……」
アルノーは手で下がれと示した。
扉が閉まると、静けさがかえって耳につく。
机の端に、小さな帳面がある。手に取る気にはなれず、そのまま視線だけが残る。
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けれど、誰も拾わなくなった小さなほころびが、あちこちで目に見え始めていた。
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