「代わりはいくらでもいる」と言われたので、私は消えました。——お茶会ばかりしていた私が何をしていたのか、ご存じないようで

藤原遊

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第4章 連鎖崩壊

第20話 葛藤

実家にいることは、分かっている。

あの短い手紙に、はっきりと書かれていた。
どこにいるのかを探す必要はない。行こうと思えば、すぐにでも行ける距離だった。

それでも、アルノーは動かなかった。

執務室の机には、朝のうちから書類が積まれている。北側倉庫の件、護衛の再手配、返礼の遅れ。どれも優先をつけにくく、どれも後回しにすれば、さらに面倒になるものばかりだった。

一枚目を片づける。
次の一枚に手を伸ばす。
その間にも、別の報告が入る。

流れは止まらない。

止めるべきではないと、そう判断しているうちに、時間だけが進んでいく。

昼前、ベルナールが入ってきた。

「本日の予定でございますが」

アルノーは顔を上げずに言う。

「後に回せるものは回せ」

「すでにそのように調整しております」

ベルナールの声はいつもと変わらない。だが、その“すでに”という言い方に、わずかな詰まりが残る。

「では、何が残っている」

「本日中に返答が必要なものが三件ございます」

帳面が机に置かれる。

アルノーは目を落とし、ひとつずつ確認した。どれも、先延ばしにすれば条件が変わる類のものだった。ここで遅らせれば、また別のところで歪みが出る。

「……分かった。先にそれを処理する」

ベルナールは一礼したが、すぐには下がらなかった。

「何だ」

「いえ」

わずかな間を置いて、ベルナールは言葉を切る。

「ほかにご用命がなければ、このまま進めます」

アルノーは一瞬だけ手を止める。

用命。
出そうと思えば、ひとつだけ思い当たるものがあった。

だが、それを口にする前に、指先が書類へ戻る。

「……ない。進めろ」

「承知いたしました」

扉が閉まる。

執務室には、紙をめくる音だけが残る。

午後になっても、状況は変わらなかった。処理した分だけ、新しい報告が積まれていく。整えているはずなのに、どこかで必ず少しずれる。そのずれを埋めるために、さらに手を動かす。

ふと、手が止まる。

机の端に、白い便箋が置かれているのが目に入った。

昨夜のうちに用意させたものだ。書くつもりだった。何を書くかまでは決めていなかったが、とにかく一度、こちらから言葉を送るべきだと、そう思った。

便箋に手を伸ばす。

指先が触れる直前で、止まる。

何を書く。

戻る日を問うのか。
それとも、ただ近況を伝えるのか。

どちらも、しっくりこない。

しばらくそのまま考え、やがて手を引いた。

いま書く必要があるのか、という疑問が先に立つ。

急ぐ理由はない。
数日の帰省だ。

そう考えると、便箋の白さだけが、妙に浮いて見えた。

夕方、再びベルナールが入ってくる。

「北側倉庫の件ですが、一部条件の見直しでまとまりそうです」

「そうか」

「ただ、当初より規模は落ちます」

アルノーは短く頷いた。

「構わん。流れを切るな」

「承知いたしました」

報告はそれだけだった。

ベルナールは一礼し、静かに退室する。

その背を見送りながら、アルノーは椅子の背にもたれた。

規模は落ちる。
条件も変わる。

それでも、完全に崩れてはいない。まだ手は届く範囲にある。そう思えば、優先すべきは目の前の処理だと、理屈では納得できる。

夜になっても、机の上の書類は減りきらなかった。

最後の封を閉じさせ、ようやく手を止める。

静かになった執務室の中で、視線が自然と机の端へ落ちた。

白い便箋は、そのままの位置にある。

アルノーはそれを見たまま、しばらく動かなかった。

行こうと思えば、行ける距離だ。

明日にでも、動ける。

そう分かっていながら、結局その日は何も決めなかった。

燭台の火がわずかに揺れる。

その明かりの中で、便箋の白だけが、やけに際立って見えた。
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